【五】その罪を見届ける(4)

 書庫から退室すると、白い絨毯の敷かれた回廊が広がっている。三人はそこでばったりと顔を合わせた。リオ、エクレール、そしてマセイオ。彼らは「同時に」書庫から出てきた。一つしか無い扉から。お互い顔を見合わせ、目を丸くする。エクレールは扉に飛び付いて開けたが、中には螺旋状の書架があるだけで、誰も居なかった。まるで不思議な魔法にでも掛かったかの様だった。


 遠くで汽笛が聞こえる。窓の外を見ると陽が昇り始めている。魔法王との会談は小一時間程度だったが、書庫の中と外では明らかに時間の経過が違う。純白の列車の出発時間まで、あと僅かだ。


 最初に動いたのはマセイオだった。迷いがなかった。対してリオは遅れた。マセイオの魔法銃が光弾を発射する。


「マセイオ!?」


 エクレールが叫ぶ。光弾の一発目は絨毯に、そして二発目は躱したリオの右足を捉えた。リオが呻きながら転倒する。脛の辺りを貫通していた。転倒しながらリオは「手品」を使おうとするが、三発目が右腕を貫く。それは袖の中に隠れた「手品」の魔法具を正確に射貫いていた。リオは痛みを堪えて指を鳴らすが、何も起きない。


「マセイオ、お前……ッ!」


 歯軋りをして見上げるリオ。マセイオは今は無表情となったその顔をリオに向けて、銃口を定めた。リオの額に。しかしその間にエクレールが割って入る。銃口の前に身体を晒し、大きく両手を広げる。


「やめてマセイオ! 彼は殺さないで!」

「リオは貴方の命を狙っている。放置は出来ない」

「やめてよもう……これ以上、リオに嫌われたくない……」


 それはエクレールの、絞り出す様なか細い声だった。口元が歪み、碧い瞳から一滴の涙がこぼれ落ちる。それが白い、今はリオの血で染まった絨毯の上で弾けるのを、リオは呆然と見つめていた。


 マセイオは無表情のまま視線をずらした。エクレールの肩越しにリオと目が合う。


「リオ、エクレールの命は私が使う」

「世界樹で、エクレールに願いを叶えさせるつもりか!」

「そうだ。それで彼女は死ぬ。お前はそれで我慢してくれ」

「ふざけんなよ……ッ!」


 しかしリオのそれは正に遠吠えに過ぎない。貫かれた右足がまったく踏ん張れず、リオはその場で身悶えた。マセイオはそれでも油断なく魔法銃を構えたまま退く。エクレールがその後に着いていこうとして、瞬間振り返ってリオに抱きついた。唇が、重なる。


「ごめんねリオ。貴方に命あげたかった」


 どんな気持ちでエクレールは言ったのか。エクレールはマセイオに引っ張られる様にして、二人の姿は回廊の向こう側へと消えていった。





「旅の方、こんなところを汚されると大変迷惑なのですが」


 無表情な声が投げ掛けられて、リオはようやく後ろに立たれているのに気づいた。魔法王にリーベと呼ばれていたあの無表情メイドだった。リーベはまるでゴミのようにリオを横に転がすと、箒のようなもので血で汚れた絨毯を掃いた。魔法具なのだろう。それだけで血糊が綺麗さっぱり消えた。リーベはちょっとだけ満足げな顔をする。


 しかし。再び絨毯に血が染みてきて表情が不満げに変わる。当然だ。リオの傷口からは相変わらず血が流れているのだから。不機嫌そうな視線がリオに突き刺さる。理不尽だ。しかしリオにはそれに反応している余裕はなかった。


 リオは動く左手で自分の唇に触れた。温かな感触がまだ残っている。柔らかい、とても柔らかかった。接吻をしたのが初めてだと、そんな初心なことは無い。だが衝撃的だった。たぶん唇を通して、リオはエクレールの鼓動を感じた。その鼓動が、リオの記憶を掘り返す。


 あの日あの時。貧民街の不良たちから少女——エクレールを助けた時のこと。


 本当は倒れたエクレールに手を差し伸べて、起き上がらせることろまでやれば良かった。だがリオはそのまま無言で立ち去った。こんな傷まで負って、自分は兄のようには格好良く出来ない。そんな自分が情けなかったのだ。そんなリオにカーシアスは言った。




『リオ。完璧な自分を待っていたら、人は何も出来ないよ。いつだって今ある物で戦うしかない。それが生きるってことさ』

『……兄さんも?』

『そうさ、いつも失敗だらけ。それでもまあ、何とか生きていけるものさ』




 リオは深く息を吐いた。何か、心の中のつかえが取れた様な気がした。本当に気のせいかも知れないが。でも今のリオにはそれで充分だった。


 ——エクレールの命は貰う。でも殺さない。殺させもしない。


 そうすると目下の問題は、リオがこの場から動けないことだった。出血も止まっていないから、そろそろ意識が朦朧とし始めている。リオはダメ元で不機嫌メイドに声を掛けた。彼女は滲んでくる血を箒で掃き続けている。


「絨毯の掃除をしたのなら、まずボクの治療をした方がいいと思うのだが……どうだろうか?」

「血は有限だ。いずれ綺麗になる」

「すみません、助けてほしいです」


 素直にそう言うと、リーベはゆっくりとリオと視線を合わせた。不機嫌に見えたが、今のリオには僅かだが感情のせせらぎが見える。素直に疑問に思っている、そんな感情だ。


「傷は治療出来るが、魔法具は治せない。それではあの男には勝てない」


 そう言われてリオは右腕の腕輪をさする。穴が開いている。指を再び鳴らしてみたがやはり何も起きない。どうやら壊れてしまった様だ。対してマセイオの得物は魔法銃。確かに相当部が悪い。だがリオはニヤリと笑う。


「かといって諦める気は無い。いつだって、今ある物で戦うしか無いんだ」

「人間らしい発想だ。どうしてそう生き急ぐのだ?」

「その時にしか出来ないことって、あるだろう?」


 リオがそう告げるとリーベはふむうと唸った。何か考え込んでいる様子だったが、表情が薄いのでちょっと怖い。出血でいよいよリオの頭がクラクラし始めた頃、リーベはようやく結論を出した。


「ちょっと待っていろ。治療箱を持ってくる」

「ついでにもう一つ、お願いしたいことがあるんだけど……」


 リオが厚かましくそう告げると、リーベは心底面倒臭そうな顔をした。親切にするんじゃなかったと、その歪んだ眉が如実に物語っていた。





 マセイオはエクレールの手首を強く握ったまま、王城の正門を抜けた。途中黒服の警護兵たちがいたが、邪魔はされなかった。水堀を跨ぐ石橋を越えると半円状の広場があり、そこから真っ直ぐに大通りが延びている。その通りの先に朝霧に霞む大駅舎が見える。


 遠くで汽笛が、マセイオを急かすように鳴る。大駅舎までは随分と距離がある。何か乗り物はないか。マセイオは広場を見回すが、乗り物どころか人影すら見えない。まだ朝の気配が強い。マセイオは仕方が無く小走りで駆け出した。


 エクレールは大人しくついてくる。無言だ。マセイオはちらりと彼女の顔を横目で見る。その碧い瞳は陰り、遠くでも近くでもないものを見ているかの様だった。マセイオはそれが何を示すのか分かった。今までも何度もそんな顔を見てきた。あれは心が折れ、自分で考えるのを止めた人間の顔だ。マセイオは少し安堵する。これで一つ、問題は解決した。彼女は私の命令に従い、世界樹で私の願いを叶えるだろう。


 ふと、リオは殺しておくべきだったかな? そんな思いがマセイオの脳裏をよぎる。エクレールが失望しすぎて自暴自棄になられても困る。そう思って殺しはしなかったが……。


 ——これは次善の策だ。本来は老執事が担う役目、エクレールは保険だった。だがその保険が役に立った。当初の計画は狂いに狂ったが、最後は納まるべきところに納まった。あとは——終着駅を目指すだけだ。


 静かな大通りを、二人の足音だけが響いていく。時々、通りに面した建物の鎧戸が開く音がする。朝の空気は消え始め、そろそろ街が目覚め始める。そんな雰囲気が漂い始める。


 そんな中。


 マセイオは立ち止まった。エクレールも止まり、じっと足元を見ている。マセイオは耳に注力する。なんだ? 忙しなく風を切る様な音が聞こえて、こちらに近づいてきている? マセイオは左右を見回すが目に入ったのは、少し離れた所を欠伸をして通り過ぎる男の姿だけだった。


 気づいたのは、エクレールの方が先だった。


 隙間の無い石畳の足元を見つめていた彼女。その視線が、振り返って空を見上げる。陰った瞳に何かが写る。それは短い翼を持つ空飛ぶ乗り物、飛行機だった。そういえば魔法都市に着いた時、遠く空を飛んでいるのを見かけた。


 その時と違うのは、その飛行機が空から落ちてくる様に、まっすぐエクレールの方へと向かっていることだった。エクレールの碧い瞳に、煌めきが戻ってくる。


「エクレールッ!」


 響いた。その飛行機にはリオが乗っていた。今操縦席から身を乗り出し、傷ついた筈の右腕を目一杯彼女の方へと伸ばしている。マセイオが気がついたが、半歩遅かった。飛行機が地表スレスレを通り過ぎる直前、エクレールはマセイオを振り切って、そのリオの右腕に飛び付いた。


「……リオ!」


 リオの腕にエクレールが飛び付いた瞬間、飛行機は沈み込んでその翼の先端が石畳を削った。しかしリオがエクレールを機上に引き上げるのに呼応して浮き上がり、大空へと舞い上がった。大駅舎のステンドガラスの上を掠め飛ぶ。


 飛行機の操縦席は狭い。その樽のような機内に二人が縺れ合う様に落ち込む。上になったエクレールの短くなった金髪が、リオの鼻先をくすぐる。


「リオ! どうしてこんな……っていうか、傷は?!」


 エクレールは慌ててリオの右腕と足を見る。先程マセイオの魔法銃に撃たれた箇所には白い包帯が巻かれている。少し血が滲んでいるが大きく出血はしていない。むしろエクレールを引き上げたせいで肩の方が外れかかって痛い。だがリオはその痛みを堪えて、エクレールを見上げた。紅茶色の瞳と碧い瞳が交差する。


「悪いが、お前の命はボクが貰う」

「……そうか。うん、そうだね。それも悪くないかな」


 エクレールの睫が揺れる。マセイオには悪いけど、どうせならリオにあげる方があたしは嬉しい。今言われて、エクレールははっきりとそう自覚した。すっきりとした。


「その……出来れば、楽な方がいいんだけど」

「楽? そりゃ無理じゃないかな」


 リオにそう真顔で言われて、一瞬エクレールの目が丸くなる。え、嘘。ここは「楽に殺してやる」とか言う場面じゃないの? もしかしてリオはSなのだろうか。意外な一面を見たような気がして、ちょっと嬉しい。


 リオはエクレールの妙な反応に眉をひそめたが、そのまま言葉を続けた。


「お前は生きて罪を償え。ボクがそれを見届けてやる」

「——っ!」


 その言葉がエクレールの耳を打った時、本当に彼女は硬直した。その意味は分かる。つまりカーシアスを殺した罪は、死では無く生きて償えと。そう言っている。分かる。それは分かるのだが、エクレールの顔はその耳朶まで一気に紅潮した。


 それは暗号でもある。貴族たちの間での符牒。人は生まれ持って原罪を抱えている。つまりその罪を見届けるということは、一生添い遂げるという意思表示でもある。


「……どうした?」


 今度はリオの眉間に皺が寄った。エクレールははっと我に返り、そして大きくため息をついた。分かっていない。この男は、今自分が何を言ったのか分かっていない。でも、それでも何だか嬉しかった。


「分かったわ」

「そうか」

「言質、取ったからね」

「……うん?」


 その瞬間、がたんと機体が揺れた。ふわりと二人の身体が浮かび上がる。落ちている。正に飛行機は落下を始めていた。上を見上げると、頭上で回っていた羽根が根本から溶断されて飛び散ったのが見えた。


 ——マセイオだった。


 遠くに飛び去ったはずの飛行機だったが、マセイオの魔法銃は正確に羽根を貫いていた。街中へと落ちていく飛行機を見つめるマセイオは、その落下地点に向けて走り出していた。

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