【四】ケーナという女(4)

「はあはあ……うぐっ」


 定期的に痛みがやってくるのか、荒い息の合間にエクレールの顔が苦痛に歪む。リオは近くの客室に運び込み、座席に寝かせた。悪いとは思ったが、リオはエクレールの服を剥いで腹を露出させる。白い腹には小さな穴が開いているのが見えた。包帯代わりに布を巻き付けるが、呼吸の度に布は赤色に染まっていく。血が止まらない。


 リオの顔は青ざめている。やばい、これはマズイ。致命傷だ。このままでは長くは保たない。——いや、別にそれでいいじゃないか。リオの心の中で冷静な言葉が木霊する。どうせいつかは殺そうとしていた相手だ。自分の手で殺せなかったのは残念だが、この少女は兄カーシアスの仇なのだ。焦る必要など無い。ただこのまま、見送ればいい。


 だが。


 本当にそれでいいのか? 別の声も聞こえる。危険を冒してまで身内を探すこの娘に、お前は同情していたのではないのか? そしてお前はそんな娘に救われた。彼女の傷はお前を庇ったせいだ。なんでそんなことをした? ——訳が分からない。


「……リオ……大丈夫だった……?」


 リオは我に返った。荒い息の合間に、自分を呼ぶ声がした。見ると、エクレールの碧眼がこちらを見つめている。リオはそこに死の気配を感じて、どくんと心臓が痛むのを感じた。


「お前……なんでこんなことを?」

「……ああ、マセイオおかしかった……から。あたしたち……を犯人だと、疑わなかった……から」

「そこじゃない! なんでボクを庇った?!」


 思わず強い口調になった。伸びてきた彼女の指が、リオの顔に残っている額から右頬へと伸びた傷跡を撫でる。


「……前に助けてもらったからね。そのお礼だよ……」

「前に助けた? いつ、どこで?!」


 リオには全く覚えが無い。エクレールの口元が辛うじて微笑む。


「……そうだと思った。随分昔の話だもんね……」


 その表情を見せられて、リオははっと気がついた。遠い遠い昔の記憶。兄カーシアスに連れられて都に行った時、兄の様な立派な人間になろうと貧民街で少女を助けた時の記憶。今までは兄カーシアスのことやその時についた顔面の傷のことしか思い出せなかったが、急にカメラが反転するかの様に助けた少女へとフォーカスされる。


 その少女の笑顔と、エクレールの顔が重なる。リオは愕然とする。まさかエクレールが、あの時の少女だというのか。急速にパズルのピースが嵌まっていく。エクレールが妙にリオのことを見ていたこと。同行や同室を拒否しなかったこと。そしてリオを庇ったこと。


 そして、その笑顔の意味。




 ——ああ。




 リオはゆらりと立ち上がった。エクレールの息が少しずつ浅くなっていく。もう時間は残されていない。一つだけ、彼女を救えるかもしれない手段。展望車に常備してある医療箱。中には包帯やら消毒液の様なもの以外に、使い道が分からなかった魔法具が幾つか入っていた。それを使えば、もしかしたら助かるかも知れない。リオは後方の展望車へと走った。


 客車を抜け、食堂車に入る。リオは足を止めた。背の高い逞しい背中が見える。アルマーだ。リオの気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。その姿を見てリオは息を飲む。


「お前……」


 アルマーは血に染まっていた。自分の血ではない、返り血だ。足元には斬り捨てられた男の死体——グスマンだった。アルマーは細めた瞳でリオを見つめる。こんこんと肩で、同じく血塗られた剣を叩く。


「……あの女、しくじったのか?」

「女?」


 リオの問いにアルマーは答えなかった。アルマーは一気に踏み込み、上段から剣を振り下ろす。別段特別なことはしていない。だが剣術の達人のアルマーにとっては、それだけで必殺の技となる。ざしゅと胸元から腹にかけて縦一文字に斬られた。たたらを踏んでリオは後退する。床の上に血が滴る。


 斬られたのは辛うじて薄皮一枚だけだった。痛みが後からやってくる。アルマーが踏み込んだ瞬間、「手品」で投げナイフを出して投擲したのだ。それはアルマーが首を振るだけで避けられてしまったが、その僅かな差でリオは命拾いをした。


 アルマーは意外そうな表情を浮かべる。


「お前、剣術のセンスあるよ」

「そりゃどうも」


 リオのこめかみに脂汗が滲む。今のはまぐれだ。次は無い。もし仮に一刀目を躱しても、すぐ二刀目が飛んできて終わりだ。あとは逃げるという選択肢があるが、それはリオには出来ない相談だった。アルマーの向こう側、展望車に用があるのだ。


 リオは大きく息を吸い込んだ。覚悟は決まっている。


「どけよアルマー」


 返事は無かった。アルマーが再び距離を詰め、剣を振り下ろす。リオは指を鳴らした。パチンという音が食堂車に響く。連続使用の影響か、ちょっと強めの痛みが胸を抉る。だがナイフは出てこない。


「……ッ!?」


 突然の激痛にアルマーの顔が歪んだ。リオを斬り捨てる筈だった剣先が床に突き刺さり、派手に横転する。何が起こったのか? 困惑するアルマーを、リオが見下ろしている。慌てて立ち上がろうとするが、右足を立てた瞬間に激痛が走って再び倒れ込んだ。膝だ。外傷は何も無いのに、右膝に激痛が走って立てない!


「もうお前、剣術は出来ないと思うよ」


 はっと見上げるアルマーの目の前に、リオは手に握ったものを見せつける。……なんだ? 薄っぺらい三日月状の骨?


「半月板って言うらしいぜ。お前の膝から抜いた」

「オレの膝から、抜いた……?」


 リオの「手品」の魔法具、その奥の手だった。明確に形の分かるものは、空気と入れ替えることが出来る。だからリオは人の骨を熟知した。骨を抜かれて、只で住む人間はそうはいない。


 ころんとアルマーの半月板が床に転がる。その骨を見つめるアルマーの頭上から、リオの声が降ってくる。


「次邪魔したら今度は首の骨を、抜く。……大人しくしていろ」


 リオの冷徹な声に、アルマーは生まれて初めて死の恐怖という感情を思い知った。

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