【四】ケーナという女(3)

 純白の列車は廃墟の町を出発した。低い吸気音を響かせながら荒野を横断していく。半日もすると東に見えた山脈がその巨大な山体を聳えさせる様になっていた。


 列車はやがてトンネルへと入る。車内の照明が点灯した。もしこのトンネルが「手記」に記されている大トンネルだとすれば、翌日の朝になるまではこの暗闇に潜ったままになる。トンネルの中では走行音と機関車の吸気音が複雑に反響し、客車の窓を閉めてもゴーという音が絶え間なく響いてくる。


 純白の列車の各客車にはトイレが設置されている。手前に小さな洗面台があり、扉があって奧が座式のトイレになっている。魔法人形が掃除をしているのか、それとも魔法なのか。トイレはいつでも清潔だった。


 衛士のトゥスグレは下級ながら貴族の出身である。水回りが汚いのには耐えられない質なので、この列車のトイレは気に入っている。あまり長旅や冒険向きの性格ではないが、剣術の腕を買われて探索隊に加わった。マセイオ王子は報酬として広大な領地を約束してくれた。——まあ王子が王座に着かねば空手形だが。それでも命を掛けるに足る報酬だと思っている。


 トゥスグレは一人である。王子からは単独行動は控えるようにと言われているが、男二人でトイレに行く趣味は無い。それでも手早く用を済ませ、立ち上がる。壁に立てかけておいた剣を握って、扉を開く。


「おっと、なんだボリーバルか」


 驚きつつ、トゥスグレは陽気な笑顔を作った。扉の向こう、洗面台の前にしゃくれた顔の男、ボリーバルが居たのだ。よっと気軽に挨拶をしてくる。トンネルの中は五月蠅い。扉の向こうの気配を感じ取れなかった。トゥスグレは気づかれぬよう、抜きかけた刀身を鞘に戻す。


「お前さん一人なのか。王子様から一人になるなって言われてたよな」

「勘弁してくれ、トイレぐらい一人で行くさ。ボリーバルだって一人だろ?」

「いやあちゃんと二人で来たぜ。なあアルマー?」


 ボリーバルは振り返って通路の方へと声を掛ける。トゥスグレの位置からは見えない。気配は感じ無いが、そこにいるのか? トゥスグレはちょっと身を乗り出した。


 ——その一瞬、トゥスグレの意識からボリーバルの手元が消えた。


 びちゃ。


 洗面台の壁面に鮮血が飛び散る。トゥスグレは首筋から体温が急速に抜けていくのを感じた。斬られた! 気がつけばボリーバルの右手には細身のナイフが握られていて、後ろ手にトゥスグレの喉笛を斬ったのだ。


「——ひゅ!」


 トゥスグレの口から息が漏れる。もう声は出ない。しかし身体は反射的に動く。素早く剣を鞘から抜き、そのまま下から上へとボリーバルを斬る。


 斬ろうとした。だが、剣の柄はボリーバルの左手に押さえつけられ、かちんと鞘へと戻ってしまった。速いッ、そして手慣れている! ボリーバルはそのままトゥスグレをトイレの中へと押し倒した。がつんと便座に背中が当たり、便座の中が噴き出した血で染まる。ボリーバルのナイフが胸から背中まで貫通していた。


「良かったよ、アンタが一番の難所だと思っていたんだ」


 ボリーバルは絶命したトゥスグレを見下ろしながら、口元を拭った。返り血が頬まで引き摺られる。しかしその血痕は、ゆっくりと消えていく。血塗れの狭い個室の中で、ボリーバルだけが綺麗になっていく。血糊が両手から消えるのを確認してから、トイレを出る。


 ボリーバルは客車の廊下に立つ。片側が車窓、もう片側には客室の扉が並んでいる。トンネル内を疾走する轟音があらゆる気配を掻き消していく。「手記」の内容は知っている。このトンネルは当分続く。事を進めるには絶好の環境だ。


「さて、次は誰を殺そうかね」


 露店で品定めをするかの様に、ボリーバルはゆっくりと歩き始めた。





 リオは顔を上げた。座席に座ったまま、少し寝ていたらしい。対面の席ではエクレールが寝そべって本を読みながら、葡萄の粒を咀嚼している。この貴族令嬢、時々行儀が悪い。窓の外は暗いまま轟音が響いてくる。トンネルに入って何時間が経過するのか。時間感覚が喪失してくる。


「……リオ?」


 エクレールが気がついて声を掛けてきた。リオは席から立ち上がっている。そしてじっと目を細める。リオは神経を研ぎ澄ませていた。轟音のせいで周囲の気配はまるで感じられない。でもリオは目を覚ました。つまり何かを感じ取ったのだ。リオは自身の勘を信じていた。


 こんこん。


 扉をノックする音がした。反応したエクレールを制してリオが扉に近づく。ゆっくりと慎重に扉を少し開く。


「エクレール、リオ。無事か?」


 隙間から見えたのはマセイオだった。いつもの温和な表情は無い。しかし二人の姿を認めると、少し安堵した様子を見せた。


「何があった?」


 リオは端的に問う。マセイオの右手には魔法銃が握られている。一度だけ見たことがある。魔法の効果は教えてもらえなかったが、それがマセイオの護身用の切り札であることは察しがついた。つまりそれだけの事態だということだ。


「……トゥスグレが殺された。センデロもだ」

「えっ?! うそ」


 エクレールが驚いて口元を押さえる。リオはちょっとだけ目を細めた。フィッツが戻らなかった時から、何となくそんな予感はしていた。冒険家のパーティーも、仲間割れで殺されるケースは二番目に多い死因だ。世界樹の願いという途方もない「お宝」が現実味を帯びれば帯びるほど、人は正気を失っていくだろう。


 それが今、噴出した。そういうことだ。エクレールは「何で仲間同士で殺し合うの?」といった表情をしているが、少しウブだなとリオは思う。


「犯人は誰なのか、見当はついているのか?」

「ボリーバルの姿が見えない。今アルマーと手分けして車内を捜索している」

「ボクも手伝おう」

「そうして貰えると助かる。正直一人では心細くてね」


 マセイオがほっとした表情を浮かべる。銃身が少し震えている。


「あたしは?」

「お前はここに籠もっていろ。鍵閉めて、誰が来ても開けるんじゃないぞ」

「う、うん」


 リオは廊下に出た。マセイオが先頭車両の方へと向けて歩いていくので、その後ろについて行く。


 純白の列車は機関車を除いて六両編成。客車が四両、そして食堂車と展望車と続く。ここは二両目。一両目の客車にはマセイオと老執事の客室。三両目にはボリーバルとアルマー、センデロとフィッツの客室があり、四両目はトゥスグレとグスマンだ。


 トゥスグレは四両目のトイレで、センデロは三両目の客室で発見された。——死体として。そしてボリーバルが姿を消した。どこへ行ったのか? 三両目から後ろはアルマーと老執事が探している。二両目から先はマセイオと、そしてリオの担当ということになる。


 客車には五室の客室がある。殆どが空き部屋だ。その一つ一つを開けて調べる。リオが扉を開けて内部を調べ、マセイオが後ろから魔法銃で援護する体勢にした。


「……いないな」


 二両目には誰もいなかった。どの部屋も綺麗で、内装も乱れていない。ただトンネルの轟音が響くのみだ。リオとマセイオは連結部を通って一両目へと入る。ここはマセイオと老執事の客室がある。確か一番中央だ。リオはまずは手前の客室から調べていく。


「今回の件、エクレールが狙われている件とは関係があるのか?」

「エクレール? 彼女がどうしたんだい?」


 リオは怪訝そうな表情をする。エクレールの命が狙われるといって、リオに護衛を頼んだのはマセイオだというのに。今、あっと思いついた様な顔をする。


「なるほどなるほど。そういうことか」

「マセイオ?」

「ああ、失礼。——まあ、あれはつまり「嘘」ってことかな」

「は?」


 リオは目を丸くする。エクレールが狙われていたのは、嘘?


「ああ、いや。正確には嘘じゃ無いんだ。彼女が命を狙われているのは本当。だってさ——」


 その瞬間に浮かべたマセイオの表情を、どう形容したら良いか。湖底深くに堆積した汚泥の様な、そんな想いの発露に見えた。


「だってリオ、お前がエクレールを殺そうとしていたんだろ? カーシアスの血の繋がらない弟くん」

「——なっ!?」


 がつんと頭を殴られた様な気分だった。バレていた?! それも最初から。なのにどうして、よりにもよってエクレールと組ませたんだ? リオは混乱した。手にしたナイフの刃先が震える。


「どうして彼女と組ませたか? それはまあ、直感だね。たぶんお前に彼女は殺せない。だから逆に護衛役として利用したのさ。——リオはさ、殺意が足りないんだよ」

「殺意が、足りない……?」

「そう。実際、なんだかんだ理由を付けて先送りしていたんだろ? そういうことさ。お前の憎しみなんて所詮そんなものさ」


 マセイオが鼻を鳴らす。リオはかっと感情が高ぶるのを感じた。ボクの、兄カーシアスへの思いが「そんなもの」だと言ったのか? それはリオには看過できない。


 ——だが。


 その感情がさっと引いた。リオの視界の隅に何か見えた。客室の扉の下から廊下へと滲み出てくる赤い粘度の高い液体……その客室の扉は、マセイオと老執事の部屋だった。リオは慌てて扉を開く。途端に血の臭いが鼻腔を強烈に突いた。


 死体だった。


 客室の床には老執事と——そしてマセイオの血塗れの身体が横たわっている。マセイオ!? リオは振り返る。ここにもマセイオがいる。その、今までリオと喋っていたマセイオは、既にその銃口をリオに向けていた。


 どん


 衝撃が走った。リオの身体が何故か横に吹き飛ぶ。体当たりされた?! 誰に? 魔法銃は火薬式では無い。銃口から光弾が放たれて、そして命中した。


「うぐっ!」


 轟音の中、鮮血が舞う。そこにはエクレールがいた。撃たれた刹那、リオを突き飛ばしたのは金髪の少女(エクレール)だった。光弾は腹部を貫いて、彼女はその場に倒れ込んだ。リオは咄嗟に冷静さを取り戻していた。低い体勢からマセイオの懐に飛び込んでナイフを薙ぐ。ナイフの刃先がマセイオの腕に切り傷を負わせる。


 しかしマセイオは飛び退きながら、再び魔法銃を構える。銃口に光が集束する。リオは「手品」を使った。その反動で胸が痛む。がつっと魔法銃がブレるが、手元にはやってこない。しかしそのお陰で光弾はリオを逸れて壁に着弾する。


「ちい!」


 リオの顔が歪む。「手品」で投げナイフを取り出して投擲したのだ。それはマセイオの首筋を狙い、しかし掠めただけだった。マセイオの首元から何かが落ちる。彼は薄ら笑いを浮かべながら、先頭の方へ——機関車へと姿を消した。


「……ペンダント?」


 リオは床に落ちたそれを拾い上げた。それは金属製のペンダントだった。意匠的に女物の様に見える。そのペンダントをリオはポケットにしまった。

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