クモ消し薬

及川稜夏

クモ消し薬

 蛍光灯が室内を照らす。

 白衣を着た若い女が一人、何やら薬品を調合している。

 しんと静まり返ったその部屋は、どうやら研究室のようだ。

 静寂を破ったのは、廊下から聞こえてくる、とたとたという慌てたような足音と、その直後の扉を開く音であった。

「博士、急に呼び出して何事でしょうか」

 現れたのは、20代半ばほどの青年であった。

 目の下に隈があり、髪も乱れている。彼の研究が忙しいのか、博士に振り回されているのか、もしくはその両方なのかは想像に難くないだろう。

 博士と呼ばれた女は口を開く。

「実は、今日こんなものが出来上がってね」

 青年に手渡されたのは、手のひらサイズの瓶だった。何やら中に入っているのは液体のようだ。

「なんだかよくわからないですけど、面倒そうなんで帰りますね。博士と違って忙しいんで」

「待って、待って。話だけでも聞いていってよ、ね?」

 くるりと背を向け、帰ろうとする青年を、女は必死で引き留める。

 この液体ができた事に、女は歓喜しているようだった。

「これは、クモを消す事が出来る薬の試作品だよ」

「はあ、蜘蛛をですか」

「せっかくできたんだし、誰かに使ってほしくてね、君ならちょうどいいと思って。試しに使ってみて欲しいな」

 青年は、蜘蛛が昔から苦手であった。むしろ、苦手を通り越して怖いまである。あの形、あの動き、そして小さい頃に蜘蛛の巣を触ってしまった思い出。

 できれば蜘蛛など見たくもない。それが青年の本心であった。

 ただ、これを作った相手は博士だ。何か面倒な事が起きるに決まっている。

 確かに、博士と呼んでいるだけあって女はすごいものをこれまで色々と作り出してきていた。

 青年がそれを使って碌な目に遭わなかっただけである。

 青年は数分悩んだが、蜘蛛への恐怖が勝った。

「……使ってみます」


 あれから数日、一応青年は蜘蛛を見かける事はなかった。もしかしたらいたのかもしれないが、研究の山場を迎えていた彼は見ていなかった。

「これ、本当に使えるのか」

 余裕の出来ていた青年は、研究室から近い公園のベンチに座っていた。

 空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降りそうだ。

 肌寒いが、どうせすぐに研究室に戻るのだ。

 昼ごはんにと持ってきていたサンドイッチを食べ終わって、徐にポケットから小瓶を取り出して眺める。

 ガラス瓶にコルク栓。試作品であることもあり、使いにくそうな形である。

 そろそろ昼休憩も終わる。戻るか、と腰を上げようとし、直後、青年は金縛りにでもあったかのように固まった。

 立ちあがろうとベンチに手を置いたすぐ横、足の長い蜘蛛が、そこにいたのである。

 青年は心臓がバクバクとするのを感じながら、勤めて冷静に瓶を開け、蜘蛛にかけた。

 蜘蛛は、丸っこい瞳で何事も無かったように青年を見つめていた。

 背中に無駄に暑さを感じながら、もうしばらく青年は動けなかった。

 今にも雨の降りそうだった空から、雲だけが見事に消えていた。




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