(三)

 急に押しかけてきた秀忠の側近たちより、人払いをしてまで明かされた秘密とその申し出の内容は、じつに驚くべきものだった。

 見性院は目をみはって動揺をあらわにさせると、もう高齢ゆえに子の面倒をみるのは無理だとやんわり遠慮をした。その断り方に刺や節といったものがなく、側近たちは逃げてゆく春風を追うような心地すら覚えたものだが、そこは粘り腰が真骨頂の徳川家臣団のこと。秘密を打ち明けてしまったからには、おめおめと引き下がるわけにも行かなかった。


『首を横に振られてからが談判のはじまりである――』


 は、幼少のころに家康から授けられた教訓だ。

 一同、そろって膝をにじりよせ、あつくるしい雁首をそろえ、いっせいに手をついて間合を詰めた。

 おもわず見性院は小さくのけぞって距離をたもった。


「せっかくこの泰平の世に生まれたお命、どうして見捨てることができましょうか!」


 さっきから話を聞いていて、あわれな身のうえの子が気にならなくはない。

 そういわれると見性院だって困る。


「栄えある征夷大将軍の御子をあずけられるのは、徳川とおなじ清和源氏の御名門、甲斐武田家をおいて他にござりますまい。我ら一同、満場一致でさように思い究め、本日参った次第にごります!」

「いかにも! 御家にとっても悪い話とはならないはずです。たとえば御子の警護には、御家の浪人を召抱えなされてはいかがか。みすみす有為なつわものを在野に埋もれさせて置くのは惜しいと存ずる。ご養育にかかる諸々のお手当ては、武士の面目にかけてお約束いたしましょう」


 見性院は心のなかで感心しきりだった。


(さすがは徳川譜代の家臣たち。押しがお強いですこと。こちらの痛いところを角の立たないように絡め、持ち上げて誘ってくる。こうした若い人たちが重臣として居るということは、おそらくこれから徳川の世はますます安泰となって、長らく続いた乱世は本当に終わってゆくのでしょうね――)


 たしかにここで徳川に恩を売っておくことは、武田の者にとって悪い話でもない。

 いまは武田家ゆかりの者が挨拶にたずねてきてくれても、なにも持たせてやれないのが心苦しい。

 この徳川から割り当てられた屋敷も、もの寂しい斜陽が差していつも閑散としている。

 できることなら困窮する浪人たちの暮らし向きを支え、あらたな仕官先を紹介してやりたい。甲斐からずっと側に仕えてきてくれた忠義者の女たちにも、せめて他家の女中に見劣りしないような反物ひとつでも授けてやりたい。つねづねそう思ってきた。

 機をみるに敏。しばしの沈黙にかすかな突破口が開いたとみた秀忠の側近たちが、つぎつぎと条件を上乗せしてたたみかけた。


「やはり御家以外に考えられませぬ! これで徳川と御家のきずながより一層ふかまり、強固なものとなり、ますます両家安泰となりましょう」

「見性院様に御首を縦に振っていただかなければ、我らは腹を切って大御所様に詫びなければなりませぬ!」


 そうまで言われると是非もない。

 泣きおとしに押された見性院は、とうとう断りきれなくなって首を縦にふってしまったのだった。

 かくして、一応の体裁が整い、秀忠の面目もたもたれることになった。

 肩の荷がおりて胸をなでおろしたのは秀忠の側近たちであったが、賢しい彼らにも想像がおよばなかったのは、さきに見性院がことわろうとした真の理由、おんなごころである。

 実のところ、厄介ごとが嫌だから避けようとしたわけでもない。

 自身でもよくわからず計りかねていたのだ。

 長い歳月をかけてやっとあきらめたはずの、女としての、母としての慈愛が、まだ己のなかに在るのか無いのかを。

 話を聞いたとき、まず脳裏をよぎったのは実の息子の勝千代かつちよが幼かったときのこと。つぎに思い浮かんだのは勝千代亡きあとに養子として当主に迎えいれた福松丸ふくまつまるの顔だった。

 勝千代は十六、福松丸は二十一のときに病没し、無情にも甲斐武田家は断たれた。


(一人の男子を育てるというのは本当にたいへんな仕事。ましてや将軍の御子となれば、なおさら。勝千代だってよく夜なきをしたし、発熱でもしようものならみなで大さわぎ。私のようにいたらぬ女では、お健やかにお育てできるかどうか。なにより、不慮のわかれがこわい――)


 夫の穴山梅雪は武田一門衆でありながら、信玄のあとを継いだ勝頼と関係が縺れて反目しあい、ついに織田へ内応して甲斐武田家の瓦解を招いてしまった。そして本能寺の変のあと、家康と伊賀の山越えをする途上で落武者狩りにあって横死した。

 だから、


『あの家は裏切られた者の怨念で呪われているのだ。武士の風上にも置けぬ外道を働いた家の末路とはああしたものだ――』


 と陰口されてきたのはよく知っている。このような訳で北の丸にある見性院の屋敷を訪ねてくる者も少ない。


(よく知りもしないで――)


 と思うが、今さら言い訳をするつもりはない。真実は墓場まで持っていくのだと心に決めてある。


(私はそういう運命さだめに生まれた女なのだ。栄えある将軍の御子を、私の不運に巻き込むようなことにでもなってしまったら――)


 いつからか性格の一部になってしまった出口のない逡巡が襲ってくる。

 しかしそれは、見性院の杞憂にすぎなかった。

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