(二)

 青天の霹靂とはまさにこのこと。

 ふってわいた徳川家の一大事にひっくりかえったのは、秀忠から呼びだされた側近の譜代重臣たちだった。

 しかもよく聞けば生まれてきたのは男子で、すでに名まであるというではないか。

 つまり幸松は栄えある将軍の子、ご落胤である。


(あいや、いったい何をやっておられるのですか、上様。よりによって――)


 と喉まで出かけた言葉を飲みこむ。幼少から共に育ってきて気心をよく知りあっているとはいえ、いまや秀忠は押しも押されぬ征夷大将軍。追求すれば無礼になる。

 日ごろから江与の方の振る舞いを見ていれば、そうなるのもおなじ男として分からなくはないし、あの初陣の時のように撫で肩になって落胆している姿を見ていると、とうてい責める気にもなれなかった。

 秀忠という人は、周りが放っておけなくなるような、不完全ゆえの家臣冥利に尽きる魅力があった。もちろん本人は気づいていないが。

 重臣たちはたがいの顔を見合って頷く。


「かしこまりました。万事我らにお任せくださりませ」

「そうか、有り難い。よきに頼む……」


 とはいえ、よきに頼むといわれても困った。

 御子の処遇についての密議は手掛かりすら見いだせずに幾日も空転した。


「いやはや、よりによって時機がわるすぎるではないか、なぁ」

「それよ。昔から何をするにしても時機の悪いのが上様というお方。おなじことを為しても怒られる者と怒られない者がでるものだが、思えば上様はいつも後者だった。さしたる悪いことをしていないのに、いつも大御所様から小言をされてきた」

「大御所様……な。困った、これは困ったことになったぞ」


 いまだ大坂には豊臣秀頼とよとみひでよりと江与の長姉茶々ちゃちゃがいて、徳川の政権が安泰とはいえない時勢にあった。

 駿府の大御所こと家康は健在だが、江与がつげ口でもしたらまた秀忠が叱責され、若い側近どもはいったいなにをやっているのか、君の過ちは臣の罪という話にもなりかねない。いや、必ずなる。

 家康の側にいる老人たちはそのまま秀忠側近の父たちであるから、ことさら厄介だ。重臣の家にもそれぞれの事情がある。だから江与の耳に入ることだけは何としても避けたいところだった。

 また先々の火種とならぬよう深い配慮も要った。のちのちご落胤をかつぐ者があらわれてお家騒動にでもなったら困るが、かといってぞんざいに放置して路頭に迷わせようものなら、露見したとき噂好きな諸候の笑いぐさになって徳川宗家と幕府の権威にかかわる。

 とにもかくにも、しかるべき預けさきを見つけねばならなかった。

 そこで重臣の一人に、はたと妙案が降りてきた。


「……見性院けんしょういん様は、いかがか」

「見性院様とは、もしや甲斐武田のご老女のことか」

「さよう、その見性院様だ」


 話題にあがった見性院という女性は、すでに齢六十なかばを過ぎた老女のことだが、戦国の乱世にあって数奇な運命をたどった人だった。

 甲斐武田家一門穴山梅雪あなやまばいせつの正室であり、あの武田信玄の二女である。武田家が滅亡したのちは、穴山武田家が武田家の当主となって、家臣ともども徳川家へ召しかかえられていた。

 哀れにも三十七で夫に先だたれ、四十二のとき十六歳の息子を病でうしなった。毎朝仏壇のまえで手をあわせる憐れな未亡人でもあった。

 おなじく故郷が亡国となる憂き目を知り、まるで嵐の中に立つなよ竹のように女の一生を翻弄されてきた江与とは仲がよい。

 重臣の一人がしかめっ面を横に振った。


「駄目だ駄目だ、何を血迷ったことを。かねて御台所様とはご懇意にあられよう。すぐに見つかってしまう」

「いいや、待て。それがよいのだ。よくよく考えてみよ。傍目八目、魚の目に水見えずともいうではないか。人は己にかかわりのあるものが目のまえにあると、むしろ気づきにくいものだ。かの用心深い信長公ですら明智日向守の謀反にその時まで気づけなかったのであるぞ」


 一同、目をまるくさせて息をのみ、いっせいに唸って腕組みをした。


「……なるほど。その手があったか。確かにそれは妙案やも知れぬ。だが、お引きうけくださるだろうか。御台所様につげ口をされないだろうか」

「なに、見性院様はお口数がすくなく淑やかにあられ、これまであまたのご苦労をなされたお方。乱世をお過ごしになられた世代のお方は口が堅いものだ」

「たしかに」

「また武田遺臣への細やかなご配慮はもっぱらの評判である。ということは、何かとご入用であるということ。そこを突いて情に訴えれば、きっとご承諾いただけるものと存ずる」

「ならば善はいそげだ。この足で北の丸へ参ろうぞ。いざ!」

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