(四)

 いよいよ幸松がやってきた日のこと。

 前日の夜は雨音を聞きながらよく眠れずにいて、何度も寝返りをうっては、


(吉日とはいえ雨が降っているから日延べの使いを出そうかしら。赤子の体に障りでもしたらたいへん。幼いうちは、とにかく油断が大敵なのだから――)


 などと蒲団のなかで案じたりもしたが、五日前から降りつづいてきた梅雨どきの長雨は、今朝になってぴたりと嘘のように止み、にわかに晴れ渡って一面の青天に変わった。

 屋敷の女中たちが、これは吉兆にちがいないと興奮ぎみにはやし立てたりしたものだ。

 そのなかを僅かな供添えとともに、人目をはばかるように質素な駕籠がしずしずとやって来る。

 供添えは浪人となっていた武田家の遺臣たちだ。屋敷の警護を任せるため、またゆくゆくは武芸の指南役になってくれる手練れた者たちを選んだ。どういういきさつであれ将軍の子の駕籠脇を固めるなど武家の誉れにちがいなく、身命を賭して励むと誓ってくれた。

 駕籠はゆっくりと屋敷門をくぐり、玄関のまえに音もなく下されると、中から母のお静に抱かれて丸々と肥えた赤子が降りてきた。

 見性院は応接の間でまだかまだかと待っていたが、身支度をあらためたお静とひととおりの挨拶を交わしたあと、ついに幸松と対面のときをむかえた。


「まぁ……」


 あかく血潮のにじんだ、楓の葉のように小さな手におそるおそるふれたとき、生命力にあふれた柔らかな熱が、老いた細身にしみわたった。

 そして行き場もなく胸奥に封じこめられてあった心が、ぱっと一気に解き放たれたのである。

 ひさしぶりに見性院は、一抹の憂いもなく心から笑い、軽やかな気持ちになれた。

 いっぽう母のお静はといえば、産後の経過はよかったと聞いているが、青白く憔悴しきった顔をしている。ずっと探索の気配におびえながら、不安な日々を過ごしてきたのだから無理もない。

 家族の災いになったらいけないので市中に身を隠し、周りの者に父の名をあかすことすらできないまま、ひとり隠れて子を産んだそうだ。それがどれだけ不安であったろう。

 母としての一歩目を教えてくれる人もなく、手さぐりで孤軍奮闘してきたのだ。女としてなんとあわれな運命であろうか。

 寄る辺のないその境遇が、かつて夫を失ったあと見性院自身がたどった彷徨の道のりと重なり、母子ともども抱きしめてやりたい衝動に駆られた。

 あせって幸松を泣きやませようとするお静に、見性院が噛んでふくめるように穏やかな声調で諭した。


「よいのです。なにも畏れることはありません。大声で泣く子は、もののふの大将として有望なあかしなのですよ。戦場における大将の一声は兵の心を鼓舞し、戦の勝敗をも左右するもの。だから泣いたら無理におさえつけず、むしろよろこばなければなりません」

「え……」

「まぁ、さすがは清和源氏のお血筋にあられます。よく通る立派な泣き声ですこと。じつは武田の子もこうしたものですよ。お静、あなたは武家の女として天晴れな大手柄を立てましたね」


 お静はとても意外そうに、幸松をそっと抱き上げて微笑をたたえる見性院の顔を、しばらく呆然と絶句して見つめ返していたが、つぎの瞬間には肩をふるわせてぽろぽろと大粒の涙をこぼした。

 手で嗚咽を押しつぶしていたが、やがて止まらなくなって大声を上げて泣いた。すかさず女中がやってきてその背をさすってやる。

 思えばいつだったか、若き日の見性院もこうして泣いたことがあった。それが悔し涙だったのか、悲しみの涙だったのかはとうに忘れた。


「北条家は我が姉上の嫁ぎ先でした。きっとこのご縁は、亡き姉上がお前の身を案じて私に託したのでしょう。ですからお静、姉上に代わって命じます。これからは私たちを家族と思いなさい。どうかもう己を責めず、もっと心を楽になさい。これからは子の成長との競争です。一度きりしかない子との時を大切にするのです。そうでなければ、幸松どのがかわいそう。そう思いませんか」

「はい……おっしゃるとおりです。だいじなことを見失っておりました。誠にありがとうございます」


 見性院は、泣く幸松の身をゆらしながら、子守唄をくちずさんだ。

 それはいつか母が教えてくれた、上方風のなつかしい謡。ついさっきまでは思いだせずにいたのに、今は自然と出てくるのだから不思議だった。

 すると泣きやんだ幸松が、光たゆたう黒々とした瞳で、じっと見つめかえしてくる。

 腕のなかでみずみずしい命の熱を感じ、おさない勝千代の面影がかさなった。


「なにかを求めるまっすぐな目。きっとこの子はよい武将となるでしょう。そんな気がします。いいえ、きっとそうするのです。清和源氏、甲斐武田家の面目にかけて――」


 長いあいだ見性院の肩のうえにのしかかってきた重い空気は、いつのまにかどこかへ去っている。さわやかな初夏の風に煽られ、青い空のなかへ幸松とともに舞い上がってゆくような心地がした。

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