第4話
『今の私に、須藤くんに愛される資格なんてありません』
交際解消のための言葉は、面と向かっての話し合いや電話口から聞こえるわけではなかった。絵文字やスタンプすらない無機質な文字の羅列による通告は、確かに弥生らしい。
続く文面には、これまでの感謝と僕を気遣う言葉が並んでいる。僕にとっては空虚に響くその言葉に何の意味もないことを、長い付き合いの弥生なら知っているはずなのに。
『どういうこと? ちゃんと説明してよ』
送ったメッセージに、3日経っても既読は付かない。いつもならすぐに返信があるのに。
何かのっぴきならない事情があるか、そうでなければ連絡先をブロックされたかだ。僕はその日の授業を蹴って、彼女の住むマンションまで車を走らせた。弥生とはもう会えないんじゃないか。根拠はないが、そんな漠然とした不安だけがあった。
見慣れたワンルームに、既に弥生の姿は無かった。数日前に引っ越したらしい。それ以上の情報を得ようにも、弥生の大学からの友達の連絡先を知っているわけでもない。
彼氏にさえ引っ越しを伝えなかったということは、弥生の覚悟はそれだけ強いのだろう。これ以上探しても、弥生が僕のことを嫌っていたかもしれないことがわかるだけだ。
どうやって家に帰ったか、今も覚えていない。ただ、雨が強かったことだけは覚えている。
一週間は大学に行けなかった。
心配する友人からのメッセージを返しながら、温かい声に何の感慨も湧かない自分が嫌になる。思考を支配するのは、弥生の面影だけだ。
今までの付き合いで何か悪手を取ってしまったのか、何度か彼女の気持ちを蔑ろにしたことがあったのか。今になって浮かぶ無数の心当たりが僕を苛み、食べ物が胃に入っていかない。答え合わせのないクイズを解き続けなければならないのか。最悪の仮定まで想像し、僕は何度も
『これ、気分転換にいいんじゃないの?』
友人の中でも特に下世話でデリカシーのない奴から送られてきたメッセージのURLは、どう見てもアダルトサイトのリンクだ。怒りに任せてブロックしてやろうかとも思ったが、その友人に他意はないことを思い返す。タイミングは最悪だが、今は一時的にでも弥生のことを頭から離しておきたかった。
そのサイトは個人撮影系の動画をメインにしており、カップル同士のまぐわいや個人の自撮り動画を月額課金で見ることができるファンクラブサイトだ。トップ画面に映る肌色のサムネイルや扇情的な広告を掻き分けると、人気投稿者のランキングが並んでいる。登録者数2万人を超える“裏垢男子”は、自らが寝た相手との行為を映像に残し、販売していた。その全てが異なる相手、ワンナイトだ。
心底から軽蔑する。誘う男も悪いが、それについていく相手も相手だ。内容も品性もない行為前の会話をザッピングするように流しながら、僕の視線はその投稿者の新着動画に移る。
動画には、このようなタイトルが付けられていた。
〈K区、彼氏持ち現役JDの文学少女をナンパ! 初めての他人棒に恥じらいながら、限界まで乱れる!?〉
思わず目が留まる。マウスオーバーで表示されるサンプル動画には薄いモザイクがかかって、声は加工されている。それでも、ナンパ映像に映る服装に見覚えがあった。立ち方と背格好に、出かける時によく見た鞄に、言い様のない不安が募っていく。動画撮影日は3ヶ月前の6月。投稿されたのは、2週間前だ。
気付けば、僕はその動画を単品購入していた。金額は見ていない。ただ自分の葛藤に決着を付けたい気持ちだけがあって、僕は何ギガバイトもある映像をパソコンにダウンロードしていく。
確かめなければ、他人のままにできたのかもしれない。口元をモザイクで隠した女子大生は、いつもの口調でこう言った。
『……こういう体験、本の中だけだと思ってました』
耳を澄ませる。「じゃあ、彼氏さんには内緒だ」と囁く男の声には吐息が混ざって、どこかルーティンワークじみたものを感じる。その言葉から目を背ける弥生の表情は、罪悪感と好奇心が入り混じっているように見えた。
『彼氏さんの好きな所、言ってみて』
『……優しくて、わたしのためなら何でもしてくれるところ、です』
『ふーん。それでも、乱暴にはしてくれなかったんだ? 例えば、こういう風に……』
思わず唇を噛む。ディスプレイに大写しになった弥生の乳房が、強引に掴まれる度にズームアップされる。彼女は微かに身を捩るが、本気で嫌がっている様子はない。
『彼氏さんに随分と大事にしてもらったんだね。他の男と寝たことは?』
『ない、です。初めての彼氏だから……』
『こんなに可愛いのに? 独り占めするとか、酷い彼氏だな……』
確かに、これは弥生だ。押しに弱いところも、好奇心が強いところも、少し自分に自信がないところも。この動画に映る全てが、僕の見てきた恋人の姿と
『かわいいね……ほんと可愛い……』
『あっ……』
弥生は微かに興奮の声を漏らす。その言葉を他の女にも使っていることを、きっと弥生は知らない。僕があの日全力で語った愛とナンパ男の片手間の睦言に、君は同じ表情を見せるのか。
あられもない姿の弥生を何の面識もないはずの色々な人間が見て、金を出していくのだろうか。既に連絡を断たれた僕も、金を出して他人のセックスを鑑賞する下品な輩の一人になってしまったのだろうか。こんな物に金を払ってしまった後悔と、見逃してはいけないという使命感が、僕の心に同時に渦巻く。
『後ろも使ってみようかー。そっちはまだ初めてでしょ?』
『後ろ、ですか?』
『大丈夫、だいじょうぶ。安心して、身を委ねてくれればいいから』
激しく乱れた恋人の姿を俯瞰するのは、初めてだった。奇妙な納得が体の奥で軋んで、下腹部に熱を感じた。こんな状況でも反応はするのか、と乾いた笑いが断続的に漏れる。
目の前の状況への怒りというよりは、虚無感が産み出した諦念だ。頭を悩ませていた試験問題に対して、時間切れのチャイムと共に強制的に答え合わせが始まるような、そんな感覚だ。この動画の撮影から数ヶ月間の弥生の様子も、動画がアップロードされた週に僕へ別れを切り出した行動の理屈も、それら全てが“理由”に収束していく。
僕にできることは、最初から何もなかった。
あの日の弥生の口から出た「好き」が嘘ではないなら、他の男と寝たのが一回だけなら……と仮定を重ねたところで、それがもう既に意味が無い事を実感する。お互いにとって、これはもう終わった話だ。それでも、それでも……。
笑顔も声も、お気に入りの本を見つけた時に見せる熱意も、デートの時のコーディネートも。弥生が見せる全部が好きだった。生きる理由だった。将来だって考えていた。何より、少なくともあの男よりも、僕は確かに弥生を愛していた。
僕はその動画ファイルをデスクトップの〈ゴミ箱〉に移し、机に置かれたティッシュを手に取る。渦巻く感情を腹に留め、まず頬に伝う涙を拭き取った。
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