第2話
溝口弥生が図書室にいることを初めて認識したのは、確か高校1年の秋だ。埃とインクの匂いが充満する本棚の隅で、彼女はカフカの『変身』を片手に涙ぐんでいた。
クラスでは目立たない、大人しい女子だと思っていた。窓から射し込む夕陽が横顔を照らし、伏せた瞳が微かに濡れているのを見た瞬間、思わず声を掛けていた。
「溝口、さん。……その本いいよね!」
授業で当てられた時くらいしか声を出している印象のない相手に話しかけるのは、後にも先にもこの時しかないだろう。彼女は僕に気付くと、少し驚きながら様子を伺う。
「……須藤くんも、読書好きなの?」
「翻訳小説は読まないけど、カフカは別格だね。人間の繊細さみたいな物が溢れてる気がする」
嘘を吐いた。翻訳小説どころか、文学作品そのものを自分の意思で読んだことがない。今回図書室に来たのも暇潰しでしかなく、今まで本を借りたことさえなかった。
放っておけなかったのだと思う。彼女の涙を見た瞬間に心の奥底が爪で引っ掻かれて、思わず話しかけてしまった。
「虫になったグレゴールは、今まで仲良くしていた家族からも恐怖の目で見られたり暴力を振るわれたりする。それは彼が毒虫だからなのか、人間そのものが異物に対して不寛容だからなのか。他者によって人間だった痕跡を奪われていくグレゴールを見てると、どうも他人事だと思えなくて……」
弥生の淡々としながらも滑らかな語り口に
好きなのかもしれない、彼女のことが。返却後の『変身』を初めて借りて、ページを開きながらそんなことを思う。弥生が見ている世界と同じ景色を見てみたかった。
物語の中で、グレゴールは理不尽に“変身”させられた。尊厳を不条理に奪われ、不条理に死んだ。その死は誰にも顧みられず、存在自体が周囲にとっての不幸だったかのように描かれる。
印象に残った場面がある。毒虫になった後に彼の世話をする妹が、這い回るグレゴールの邪魔にならないように部屋の家具を片付けてしまうシーンだ。妹にとっては善意だったのかもしれないが、それは毒虫に対する優しさだ。結果的に、その行為はグレゴールに残った人間としての尊厳を奪ってしまった。
陰鬱な気分で本を閉じる。僕の中に小さな
その日から、僕と弥生は互いに小説の話をするようになった。彼女の放つ言葉は周りと違った言い回しで、示唆に富んでいる。人間より本を友達にして生きてきたのだろう。
銀縁のラウンドフレームがショートボブの黒髪に映えて、弥生は常にどこか個性的な風格を醸し出している。教室の窓際で誰とも馴染まずに物語の世界に没頭する彼女は、クラスメイトから見れば青春の背景の一部だろう。僕にとっては、フォーカスの対象が逆だった。
僕たちが付き合うようになったのは高校3年の春だ。学校の外で会うようになり、2人で出かけるようになり、気付けば想いを伝えていた。「僕から告白しない限り関係が進まない」という危惧が間違いなくあって、意を決して行動に踏み切ったのを覚えている。
「本当に私でいいの? 須藤くんなら、私なんかより良い人が……」
「『君で』じゃなくて、『君が』いい。弥生ちゃんの事をもっと近くで見ていたいし、幸せにしたいと思ってる。だから……付き合ってください」
本屋巡りを終えた帰り道、駅前のコンビニで買ったホットスナックはまだ温かい。この熱が冷めないうちに、思いを伝えてしまいたかった。
「……須藤くんだったら、いいよ」
数秒の逡巡の後、弥生は僕の手を静かに握る。感じる熱、小さな頷きの後の照れ臭そうな微笑み。彼女から放たれる全てが愛おしくて、僕はニヤケ笑いを噛み殺すような表情になっていたのだろう。横顔を真っ直ぐ見つめていた弥生が、声を上げて笑った。
* * *
「……こういうの、本の中だけの話だと思ってた。だから、興味はずっとあったんだよ」
緊張で乾いた僕の唇が離れた瞬間、目を瞑っていた弥生は指で自らの口の端を興味深そうになぞる。
「私は想像以上に幸せだけど、須藤くんは?」
「……自分の心音がめっちゃうるさい」
付き合って3ヶ月。初めてのキスの感慨に耽る余裕は当時の僕には無かった。戯れのように短い時間で、その意味合いは計りきれない。少し屈んで低くなった視界が煌めいていた。
弥生は決して自己主張が強いタイプでは無かったが、内に秘めた好奇心はかなり強いほうだ。新しい体験に目を輝かせながら、その行為が僕主導で行われた事に安堵した様子だった。
「弥生ちゃん、このタイミングで問題なかった……?」
「待ってたよ。なかなかしてくれないから、私が悪いことしちゃったのかと思った!」
「……我慢してた。強引にやるわけにもいかないから」
似た者同士だったのだろう。僕と彼女は、互いに傷付くことを恐れていた。
今にして思えば、傷を付けてでも互いを確かめるべきだったのかもしれない。嫌われることを
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