第7話 ちょいと過去を蒸し返し

 これも大脳大空間の倉庫で拾い読みしたものだが、確かエーデン・バーバーというヤ=ジウマ家の五代まえの家長だ。そいつが記した『緘宗祀外篇書』にはこんなことが書かれていたな。

   

        ※  ※

 

 この封緘宗祀は、すべてが謎の三重衣みえごろもまとい、すべてが幻影の瑠璃冠るりかんむりをいただき、すべてが白霞の叢祠ほこらに住まう尊人みこひとであられる。国内のいずこか、あるいは大陸の最果てか、ただ一人、大公爵をのぞき、居場所を知る者はいないとされている。

 ただ、知る人はいないが、感知する動物はいる。歴代の封緘宗祀が、後紐うしろひぼ──幼児期──のおりに、宮廷内で飼っていた暗無鳩あんむばとだ。もともとは古式戦法で使用される伝書鳩の一種で、毎年の春に孵った数千羽の宮廷鳩に、わずかだが、生まれながらに眼球の失われた雛が孵化する。ほとんどがすぐに死ぬ。しかし、この畸形の運命も乗り越える生命があり、高貴族たちはそこに宿星やどぼしを見いだし、大切に育てようとする。畸形鳩の雛も懸命に餌を食むが、風切羽が季節風をとらえられるほど、胸筋を膨らませても、雨期のまえには屍となる。だがまれに、萬にひとつ、雨期がすぎても生きながらえる個体があり、それらは夜闇であろうと朝焼けであろうと、天空に空標しるべを感じとり、みごとに飛翔するのだ。斎奇力の臭いと気配を嗅ぎとる鳩、暗夢鳩の誕生である。

 封緘宗祀の〝斎奇力〟を封じる波動──これもまた斎奇力の一種だ。それを暗夢鳩の方位感応野が防衛本能とともに反応する、と篤学とがくの士は弁じる。斎奇力を封緘してしまう力を怨敵とみなし、攻撃するために飛ぶのだ、と。ゆえに、正確にかれらは方位をつかむ。だが、鳩を餌とする猛禽類の爪撃そうがや、さまざまな病気、はたまた悪天候などからくる過労や数多のアクシデントに遭遇すれば、さすがの暗夢鳩とはいえどもたどり着けない。とっておきの強運がいるのだ。

    

        ※   ※

        

 このときも、宮廷の西庇鳥屋で飼育されていた暗夢鳩は全部で五羽で、例年になく多かった。そのすべてを放鳩ほうきゅうしたが、けっきょく雌の一羽だけが封緘宗祀のもとへたどり着いた。他の鳩たちは、消息不明と記録されたが、実際は豪雨でけむる西海域に、ことごとく墜死したのであった。

 そしてひとつの季節が終わろうかしたとき、警護人どころか供人の一人も従えず、たったひとり、封緘宗祀が宮廷に現れた。ときすでに太后妃は臨月に入っていた。もうその頃になると、占師の不吉な預言の冥闇めいあんなぞは晴れ去り、宮廷内に留まらず、国内はお世継ぎの誕生に浮き足立っていた。

 今か今かと産声を待つ大公爵。

 警護は一段と厳しくなり、隣国からも先触れとして、吉瑞きっずいの使者が国賓として参じていた。さして国力のある国でもない雅我国のはずだが、異例の使者の数だった。

 

 そして新月は精霊告時。 現大公爵の第一子にて正式嫡子の誕生である。


 その産声は、参じた殿下の姉でもある封緘宗祀の頬を、歓喜の涙で濡らした。

 雅我国の後継の誕生も至福ではあるが、なにより血裔であることを喜ばずにはおられなかったのである。

 

 安堵の吐息と喝采の拍手と号砲が、いっせいに、宮廷内にとどまらず京師全土に満ちあふれた。光り輝く宝珠の姫君が、大公爵の心に巣食う凶兆をも吹き消したようだった。

 高齢による初産としては安産といえようか。母子ともども健康で、産褥も懸念はない。

 専医団は肩の荷を下ろし、あの占師の預言を思い出しては笑い飛ばし合った。大公爵もさっそく太后妃の寝所に向かうと、大役の労苦をねぎらい、尊貴族家の代表として感謝した。

 の月後には姫君の命名式がある。それまで身体をいたわり、風邪なぞひかぬよう姫君にも注意しなさい。太后は眼前の御仁が慈愛大公と呼ばれる、その意味をかみしめ、大きく、そして深くうなずいた。きっと、幼子の小さな手をつなぎ、春の午後には蜉蝣庭園を散策する尊家族の姿を想像していたのだろう。

 

 だが、いつも幸せは短兵急たんぺいきゅうに立ち去るもの。

 

 出産後、めまぐるしい一週巡りをやり過ごした宵の淵である。太后妃は大公爵の退去礼を笑顔で見送ると、そっと独りで、寝所へと向かった。

 まずは人払いを済ませ、肩で深く息を吐く。孩児がいじの扱いには苦労はつきまとうもので、太后妃は、寸閑も惜しむように仮眠をとっていたのだ。

 その後、たいして時は経ていない。

 仮眠を終えたのか、太后妃は、すぐ横の小さな瑠璃色の駕篭かごで寝ている姫君を、なんともいえぬ目つきで見つめていた。いや、それが違っていた。憤怒の呪眼ともいうべきものであった。多福の使者である姫君を、まるで紅蓮地獄の妖魔を視たふうに、驚きと、怯えと、嫌悪とが、たった一点の眼光に宿り、迷うことなく我が愛娘に注いでいるのであった。

 

 このおぞましい気配を、ただ一人、察知し得た者がいる。他でもない、回廊で、ヤ=ジウマつまりわたしを懐柔かいじゅうしようとした、あの女官だった。思い出してもらいたい、あのときわたしは、とっさに女官の膨れた胸を触ったが、想像したとおり、彼女は乳母として召し上げられていたのだ。名をヲ・モリーというらしい。もともと専医団の名門医家出身だが、言うところの 〝斎奇力の疼く者〟であった。天性の感応力は、本人ですら気づかぬ気配を嗅ぎ取るというから、きっと思春期には、様々な面倒なことにぶつかったであろう。輻輳ふくそうするハンディキャップに精神力は、いやがうえにも鍛えられたわけだ。医学の知識と技術、そこに鋭い直感力と忍耐力、尊貴族家の乳母には、これ以上の逸材はそうはおるまいて。

 しかし、いくら信頼の置ける乳母とて、お世継ぎを出産した直後の太后妃が、異常な気配を漂わせている、などと迂闊に言っては命とりになるだろう。人の口には戸は立てられない。外部に悪い噂となって遺漏でもすれば、事実か否かに問わず、乳母の役目は解かれ、下手をすると宮廷からの追放もありえる。だが、ヲ・モリーは臆することはなかった。ありのままを大公爵に報告したのであった。

 だが、意外にも、いや、さすがというべきか、大公爵はヲ・モリーの具申を冷静に聞きとめることができた。それもそのはずで、すでにその忠告は、姉の封緘宗祀の口からも聞き及んでいたからである。

「太后様を専医団の管理下に移すべきかと……」

 ヲ・モリーは言いながら、悲嘆に咽喉を詰まらせた。

 母と子を引き離すことなどあってはならないことだ。それは最期の手段だ。だが、大公爵もそれに異論はなかった。尊貴族家の惣領そうりょうは、第一子の正式嫡子を、なんとしても護らなければならないという家憲があったからだ。

 

 すぐに近衛兵室長のキュマイソンは呼ばれ、別室に移された太后妃も含め、乙段階警護体勢拡充の命が下った。

 

 専医団は迅速に動いた。大公爵が命じた別室──眷族の従者の予備的居室──に太后を訪ね、彼らが言うところの異常性とはどのようなものか、問診を試みたのである。

 だが彼らは、我が目と大公爵の言葉に疑念を抱く。

 せまくるしい寝室のかたすみで、堅い床几スツールに浅く腰掛ける太后妃は、まっさきに姫君の様子を尋ねてくる慈母の姿だったのだ。小奇麗にしていた着衣は、着替えも許されず、長襞衣すかーとの裾はごべごべに汚れたままで、髪飾りは艶の失せた銅製だ。おそらく小間使いが気をきかせて御髪おぐしに挿したものであろうが、まるで農奴らの女将といった姿は、哀れで痛ましいかぎりである。ほつれた髪も手櫛で梳くこともせず、心身とも衰弱しかけているのは専医団の術師にあらずずとも伝わるのであった。

 

──この御労しいお姿の、どこが異常だというのだ? 大公爵は何か勘違いしておいでだ。あるいは、もしやこれはヲ・モリーの虚言、権謀ではあるまいか。

 

 それが専医団の偽らざる診たてであった。 

 太后妃のほうでも、いっときは、自分にかけられた不当な仕打ちに悲憤していたが、だからといって、殿下の命令に背くわけにはいかないと、自らを戒め、あるいは勇気づけていた。

 

 今はこうして太后などと呼ばれ、宮廷内を我家とばかり闊歩しているが、もとをただせば、隣国から嫁いだ、ただの平民婦女にすぎないのだ。

 今は耐え忍ぶことを天は求めているに違いあるまいて。自分さえここでおとなしくしておれば、姫君も無事だというなら、それでよいではないか。ともかく大公爵の信頼を再び得るまでは辛抱の他はない……。

 

 そんな太后妃の気概の表れか、日を待たずして、宮廷内は平穏な時を奏するようになった。

 そうなると大公爵の慈悲心が黙っていない。まつりごとのあいまに専医団を訪れ、妃の様態をことこまかに訊いたのちに 〝公貴専医検〟 の封蠟を留めた診断顕示書を要望した。すると、

「太后は、あれからまったくの平常心にて安定してござります。ここに引き止めねばならない懸念なぞ皆無でござります。それより姫君から引き離された悲しみに耐えることのほうが、健康には害悪でございましょう」

 と、専医団の代表アレアーノは闊達に大公爵に伝えた。

 それを聞いて、思わず大公爵は、この老獪なアレアーノの肩をたたき、

「これでご先祖様にも顔むけができるというものだ。くどいようだが、も一度訊くぞ。第一嫡子の命名式に太后も列席できるのだな。家族そろって言祝ぎの宴にのぞめるのだな」

 こぼれんばかりの笑みと深い会釈とで、アレアーノは応じた。

 大公爵の目が潤む。年甲斐もなく、うきうきとした足取りで、初老の国主は、頼みの綱としていたアレアーノの執務室から去っていった。

 

 善は急げとばかり、早々に太后の別居命令は解かれることになった……のだが。

 

 そのときの太后の様子が、これまた不思議だった。大公爵の出迎えも待たず、単身嬉々として姫君のいる尊寝室に向かうのだが、不思議なことに、愛娘のそばへ近くなっていけばいくほど、太陽のように輝いていた笑顔に陰が射して来、そしてとうとう、その扉が見えてくると、笑顔とはほど遠く、何やらカタカタと奥歯は鳴りだして、憑物の怪しい気配が忍びよってきたのだった。

 

 その頃、それは偶然か何者かの陰謀か、ヲ・モリーは専医団の命令で宮廷を離れていた。大河モースコウの橋むこう──馬速で二里半──にある京師学舎で医務講義の準備に追われていた。

 また近衛兵室長キュマイソンも似たようなものだった。宮廷内では、国権に関する神事から、ただ面倒くさいだけの印刷物の検閲業務なども、職務柄キュマイソンの耳に入ることになっているが、まさしく、それは寝耳に水だった。太后妃が姫君と寝所をともにすると部隊長から直接聞いたときは、確認を執ろうにも、すでに奥舎の事務処理は終了していたのであった。

「胸騒ぎはどこからくるのだ……」

 奥舎の安全性は高い、それは近衛兵室長の自分が命かけて誓ってもいい。だが、なにかすっきりとしない、不穏な気配は否めない。いや、それどころか、キュマイソンの警戒心は跳ね上がったのだ。

 ──事件が起きるとすれば、間違いなく、こんなときぞ。

 そのころ、ヲ・モリーもまた同じように憔悴しょうすいしていた。どうして姫君の乳母ともあろう者が、こんなときに、こんなところにいなければいけないのだ。頼まれた医務講義の原稿整理なぞ上の空、すべてが手につかない。たった今、姫君のところへ返してくれと内務省に掛合うが、なにがどうこんがらがっているのか、命名式までは無理だと突っぱねられた。

 

 かわって宮廷内、キュマイソンは部隊長に談判して、大公爵にお目通りを願い出た。太后妃にかけられた危惧感はいまだ払拭されてはいない。危険です。一刻の猶予もないのです! と。 

 だが大公爵は、キュマイソンの抱く懸念なぞ毛ほども解していない。ただもう、太后妃の健康が恢復したことに舞い上がって盲目状態だ。このときも──近衛兵室長は、妃の恢復を祝って、こんな時分にも駆けつけたてくれたのだ──と勘違いしなければ、無粋な宵闇過ぎの謁見なぞ、そもそも認めはしなかっただろう。

 実際、キュマイソンを出迎えた大公爵は、諸手あげて、童子のごとき笑顔を見せた。嬉々として妃の恢復ぶりをしゃべりまくる。これほど大公爵は話好きだったか?言葉は尽きず、その両手放しの姿に威厳のかけらもない。もうこうなると、ただの溺愛父親の滑稽な姿だった。

 

 キュマイソンは、腹をくくって、太后妃の病状について問うつもりだった。まだ安否の結論は出ていない。危険性は否めないと。だが、退室までの間、太后の異常性について、一言もキュマイソンは口にできなかった。大公爵の気持ちが痛いほど伝わってくるのであった。またここで無理やり進言したとしても、今の大公爵に事実を冷静に判断できるとは思えなからでもある。

 退出するとき、キュマイソンの顔色は、大公爵とは対照的に緊迫感で青ざめ、憔悴で双眸は血走っていた。


 急がねば!

 

 廊下を響かせて走ると、猛然と近衛兵事務室に飛び込む。すると宿直官は何ごとかと、敬礼も忘れ、顔色を失くした。

 書付けの用意だ! 

 キュマイソンは鉄筆で書きなぐり、伝書に漆黒の封蠟印を押す。

 その間に宿直官は、厩舎より駿馬を選りすぐり、早駆けの騎手に声をかけた。待機していた軍曹は身支度もそこそこに、伝書を差し出すキュマイソンの顔色から、すわ一大事とばかり駿馬の尻ペタを叩くのであった。むろん、行き先は京師学舎、届け先はヲ・モリーである。

 

 同日の夜半過ぎ、黒急! 黒急! と叫びながら、学舎の執務官が廊下を踏み鳴らした。むろん、手にしているのはキュマイソンの伝書である。廊下に飛び出てきたのは、数名の教員と教務官だったが、ヲ・モリーは突風のように駆けていた。

 受けたヲ・モリーは目を見張った。全身の震えを押さえられず奇声があがった。溜まりに溜まっていたおそれが、戦慄となって襲いかかってきたようだった。まるでその恐怖から遁走するように、ヲ・モリーは、盗賊じみた足取りで、京師鴻大学を抜け出した。任務放棄として断罪するならば、あとでこの首でもあげようぞ!正規の手順なぞ糞食らえのヲ・モリーであった。

 

 ヲ・モリーは人の絶えた夜道を愛馬で疾駆する。何事もありませぬように、すべては臆病な心の捉えた、ただの邪推でありますように……。幾度そう祈ったことか。

 

 雷光の速さで宮廷内に入ると、顔なじみの近衛兵の番兵に馬をあずけ、衣服の乱れなぞ構いもせず、まっしぐらに寝所へとひた走る。

 宮廷は、尊貴族家が政務を手がける政殿舍せいでんしゃと、生活を営む奥舍おくしゃに分けられ、その全体を陸軍近衛兵が警護している。しかしキュマイソンがいくら近衛室長でも、この奥社へは勝手に踏み入ることは禁じられており、内務省を通じて許可された近衛兵だけが、奥舍で警護にあたるのだった。

 その近衛兵室で、ただ一人、キュマイソンが蒼醒あおざめて廊下に立ちつくしていた。ヲ・モリーはきっと駆けつけてくると信じて、その姿を待っていた。そこへ夜盗のように足音を忍ばせて、だが猛然とヲ・モリーの豹のような影が飛ぶ。交わす挨拶の言葉一つもなく、ただうなずきあって、二人は奥社へとつづく廻廊へと突き進んだ。

 尊寝所を警護している近衛の哨兵しょうへいが、キュマイソンたちの駆けつける姿を見て、静穏敬礼せいおんけいれいだ。

「巡回ご苦労様です」

「大公爵は何処においでになられるか」

「院内総務からは、今宵、大公爵は国議との折衝で宮廷にはお戻りにはならないとのことです」

「では他に異常はないのだな」

「はっ。先ほどの定期巡視では異常ありません」

 よかった──まだ何事もなさそうだ。強張った顔が緩むと、深い溜息も出る。キュマイソンが再度、外部にも異変はないかと哨兵に問う。

 

 そのときだ、太后様の寝所に悲鳴が上がったのは。はじめは細く、短く。これは女性の悲鳴だと本能的にわかる。だが、それが不気味なものとに入れかわる。性別もわからぬ狂気に歪んだ人声だ。そしてふたたび女性の絶叫。これは永永と響きわたり、夜のとばりを切り裂いた。

 

 キュマイソンとヲ・モリーは、ノックもせずに翼扉を開けると飛びこみ、そこで立ちすくむ。衝立ついたての向こう、水晶ランプの揺れる灯明をうけて、闇に浮かぶは、太后妃の異様なるお姿。狂気で塗られて放心状態だ。大きく見開いた双眸は、眼窩から今にも落ちそうほどに剥き出て、こめかみには蒼い静脈がのたうち、顔皮は死人のように土色だ。わなわなと上半身は震え慄き、五指の関節がキッキッキッと機械的に動いている。その右手に鈍く光るものを、キュマイソンは瞬時に凶器と判断した。ヲ・モリーは、鮮血に濡れた小刀だと推断する。

 衝立を、流れる足運びで迂回しながらヲ・モリーは、太后妃の足元を注視する。そこには姫君の揺り籠があるはずだった。

 近くで見ると、ヲ・モリーの全身もまた激しく戦慄わななき、心に冷たい汗が吹き出た。

 姫君にかけられていた絹の羽二重はぶたえはめくられて、大小の錦金魚の絵柄が、毒々しいまでに赤く染められていたが、そんな寝具にヲ・モリーは心当たりはない。まばたきして見直さずとも、それは鮮血が滲んでできた金魚柄だとわかった。

 

 ヲ・モリーは宙を飛んだ。

 

 姫子めざして、飛びながら、太后妃から降り注ぐ藍色の殺気に背筋が凍った。その視線を太后に向ける。

 転じて、太后妃にはヲ・モリーたちの存在など眼中になかった。放心状態のまま、ぶつぶつと低く詛咒呪禁をくり返していた。いや、そもそも言葉なのかすらも、ヲ・モリーにはわからなかった。だが、ここのすべてが極度の危険状態なのは確かだった。

 

 姫子の揺り籠のすぐよこに、ヲ・モリーは倒れこむ。姿勢を直そうとするが、その気配が太后妃の眼光に光を灯した。太后妃の上半身が今にも倒れそうなほど大きく仰け反った。かと思うと、転じて前屈し、黒髪が鞭のように空を打ち据える。そしてまた仰け反り、再び前へと折れ曲がる。幾たびも太后の黒髪は機械的に反復運動を繰りかえされたが、

「ヒィッ!」

 短く悲鳴をあげると、太后妃の動きがヒタリと停止する。

 あっ──。

 とどめを刺すつもりだ!

 己の黒髪に面相を覆われた太后妃は、高々と小刀を振り上げていた。ヲ・モリーの目の奥が疼いて、何かが擦過した。その感触は、自分の意識とは違うものだった。経験したことのない力だと感じた。力は意識の何処かで〝言葉〟という卵殻で護られていたが、この瞬間、ピシリと割けたようだった。

 

 気づくとヲ・モリーの腕の中には姫君がいた。前屈みになって、揺り籠をかばう格好となっていた。とっさに太后妃の足下へ飛び込んだのだ。とすればすぐ真後ろに太后妃が立っているはずだ。小刀を振り上げ、まさに打ち下ろさんとしている太后妃が! 振りむく勇気もなく、ヲ・モリーは、背中に突き刺さるであろう、小刀の激痛を予想して奥歯を噛みしめ、両目をぎゅっとつぶった。背中を刺されても、この姫君だけは救ってみせる。たとえ幾度も刃が皮を貫き、肉を切り苛もうとも。この聖なる生命は死守せねばならぬのだ。

 

 だが……不思議と太后妃の小刀は襲ってはこなかった。

 

 この雷電光の弾け飛ぶ速さの中、ハッとして、ようやくこのときになって、姫君の状態を診ようとヲ・モリーはまぶたを開ける。自分の影で、暗くてよく見えないが、あえぎあえぎ、かよわく泣いているのはわかった。泣くことが出来るなら大丈夫だ、などと妙な勘違いをして、その顔に目をらすと、自分の心臓が一瞬間、確かに止まった。

 真っ赤だった。前額ひたいを真横に一本、そして額から顎先あごさきまで縦に一本、深紅の亀裂が走っていたのだ。象徴的な十文字の深い創痍だった。

 

 あふれる鮮血は、嬰児にこれほど血液はあるのかと思うほどで、頬も顎も耳も首も、そして両手もすべて代赭色たいしゃいろに塗られていた。

 なんとしたことだ。姫君の綿帽子のごときやわらかい顔に、太后妃は小刀をめりこませ、切り裂いたのだ。深紅の創痍の下に、うっすらと白く見えるのは顔面頭蓋であろう。いつ事切れるかわからぬほどの深手を負って、姫君はただ肺腑をしぼり、あえぐだけだった。みずからの鮮血で気管を塞がれれば、たちまち窒息死だが、まるでみどり子は顔をかしげ、血流を首から胸へと導いているようだった。

 反射的にヲ・モリーは、姫君の両目が無事かどうかを診た。幸いにして鼻骨は削られてはいるが、眼球は両目とも無傷だった。このまま抱いて専医団たちのところへ奔ればよい。とそのとき、頭部から左頬にかけて冷気がでた。肩口に鈍い痛みがどんっとぶつかり、これは太后妃の小刀による斬撃だとヲ・モリーは覚悟した。

 ほぼ同時に男のかけ声が短く突き抜けた。

「奔れ! まだ間に合うぞ」

 ヲ・モリーは声に弾かれたように、姫君を抱いたまま床を二転、三転ところげた。

「太后! ご乱心なされるな! 気をたしかに!」

 室内の空気がバリバリと震えるほど、なんとも豪胆な声だった。ヲ・モリーは反射的に視界の端っこで背後を捕捉する。敵に背を向けても、気配は適格につかむ。気配だけで、太后妃がキュマイソンの双腕で、がっちりと居竦められているのがわかった。

 小刀とはいえ、鋭利な刃物を振りまわしても、さすがにキュマイソンは太后妃を相手に抜き身なぞ光らす事はしない。やんわりと、じんわりと包み込む武術の力と技で充分捕縛できるはずだ。実際、キュマイソンは背後から太后妃を抱きすくめると、ありとあらゆる動きが時間が止まったように途絶えた。

 流石だと一瞬ではあったが、ヲ・モリーの止まっていた呼気が蘇った。しかし、ふたつめの呼吸は再び凍った。

 余裕すら感じられるキュマイソンの横顔が、絵もいわれぬ苦悶の色に染まっていたのである。実はそのときキュマイソンは、自分の皮膚が、くまなく剥がされたような、極限のおぞましい感覚に襲われていたのだ。まずは全身にある数百万もの毛穴すべてに針が貫通し、今度はいっせいに引き抜かれ、内圧差から体液が噴き出す。すでにめくりとられた皮膚のため、神経網は露出して、たとえ羽毛の一ひらでも、身体に触れようものなら、そのあまりの激痛に意識は崩壊する。そんな恐怖をガンガンと叩きこまれ、彼はすんでのところで絶叫をあげずにおられたのだ。

 

 これこそが 〝斎奇力〟 の共感応力に違いない! キュマイソンは恐怖の手触りにそう悟った。

 

 悟ったところで、日頃の鍛錬がものを言う。とっさにおぞましい気配に向かって、つまり太后妃に向かって遮蔽防御の意念を撃ち込んだ。どの武道派にもある刃気投射という秘技だ。撃った直後、すぐに皮膚感覚に厚みが戻ったが、構え直す間もなく、なにかが体内の奥深く、膨張してくるのがわかった。耳の奥が内圧の高まるにつれてムズムズと音を発している。だが実際のキュマイソンの身体に外見上の変異はない。されど、五感はあきらかにずれている。この強烈な違和感はどこからなのか。歯ぎしりして首を反らすと、そこでようやくキュマイソンは異変に気づく。彼の表現では、それは脱魂現象さながらに、太后妃の体中から青紫の霞が立ちのぼっていく光景であった。

「サー・キュマイソン!」

 ヲ・モリーが叫んだ。姫君を抱いて、もう尊寝室を出ようかしているところだった。が、さすがに斎奇力の疼く者らしく、キュマイソンや太后妃の異変を背中で感じとったらしい。青紫色した霞の正体を見極めようと目を凝らし、息を呑む。だが、キュマイソンは、案ずるな、姫君を守り抜け、凛として言い放った。

 その声力の物凄さ。輝栄一族が天下の宝技と伝わる、音吐爆裂おんとばくれつの秘技であろうか、確かに一陣の突風が奔ったのである。

 

 声力の圧風を背に受けると、一礼の刻も惜しむように、駆け出すヲ・モリー。

 

 そこへ哨兵から連絡を受けた警護兵士が猪突の勢いで現れると、ヲ・モリーの姿を一瞥しだけで、専医団の詰所へと姫君を運び入れた。

 

 専医団は、もともと野戦病院の医師らが在籍する、雅我国最切っての医師団である。泰平の世にあっては、尊貴族家など宮中臣下の医療に従事しているが、そればかりか政道にさえ意見する英傑も揃っていた。

 その猛者医師たちを束ね監督しているのが、齢百歳と聞く筆頭医のアレアーノ術師である。さすがの人間離れした勘の良さは、どこかヲ・モリーにも通じるが、五感どころか六、七と勘を轟かせると太后妃の寝所での異変を察知したようで、たちまち専医団へ、火急の陣を敷くようあの呼子笛

を飛ばしたのだった。


「あなたも負傷しておられるのか!」

 警護兵士が、姫子を運び込む際、ヲ・モリーの背中に刀傷を見つけて問うた。

 ヲ・モリーは無言で強く否定した。いまは姫君の治療を!

 そこへ待ってましたとばかりにアレアーノ術師が、妖怪じみた風体で暗がりから出でる。

 ちらっとヲ・モリーの腕の中を様子を拝見し、ふむっと頷いて見せた。

 何が「ふむっ」なのか、ヲ・モリーも勘の良さで、「はい」とだけ答えた。

 

 ずらりと揃っていた専医団が電光石火の神業で、姫君の創痍をふさいでいるのを確認し、まずは最悪のケースは免れたと安堵のため息だ。すると、警護兵士はヲ・モリーーに軽く一礼し、すぐさま止血消毒剤と消毒綿布を持ってくる。ヲ・モリーは自ら上着をハサミで切り裂き、半裸となって、唖然とするほどの手早さで治療した。止血の具合を見届け、警護兵士が、そのまま聖寝所へ向かうところをヲ・モリーは待てと制した。

 宮廷内、とくに奥舍で大事が起きた場合、近衛室長のキュマイソンに指揮命令権が与えられる。大公爵への報告と内務省への連絡は急務であるが、まずは事態の掌握が肝要だ。それに姫君に深手を負わせた張本人を、キュマイソン自身が取り押さえていれば、なおのこと警護兵士は急がねばならない。そこをヲ・モリーは待てという。はて……? 警護兵士は眉をひそめた。

「ヲ・モリー殿、ここは、そなたに任せ、自分は急行して……」

「もう少しのご猶予を」

「どういう意味ですか! 一刻の猶予も、ここにはありはしません。隊長の指揮を仰がねばならぬのです」

「──では大公爵にご報告をお願いしたい」

「……内務省には伏せておけと?」

 無表情の警護兵が顔を紅潮させた。ヲ・モリーは小さくうなずく。

「今のままでは太后様とはいえ、ただの咎人とがにんとして扱われてしまいます。斬罪は免れません。陸軍にはお渡ししたくないのです」

 〝陸軍〟とあえて言ったヲ・モリーの胸中を察すると、警護兵士は姫君の様子を今一度確認しようとして、医療室へふたたび引き返して行った。

 

 このわずかな時間が、関係者一同のみんなの冷静さを取りもどさせる。


 警固兵はそれでも焦る気持ちを抑えつつ施術室に入ると、すでに縫合は済んで、傷の癒着を促進するという秘草薬の香料をきこめた、薄緑色の包帯を巻きはじめたところだった。こんな大怪我をなんという手際のよいことか。そうだ、専医団には悪いが、陸軍には、治療が手間取ったことを理由にして、報告を遅らせればいい。姫の無事を見届けずして、この場からどうして警護兵が離れることが出来ようか、と。

 

 警護兵士は微苦笑を浮かべ、軽い足取りでヲ・モリーのもとへと戻った。

 その妙な笑みを見て取って、ヲ・モリーは合点した。警護兵士といっても、尊貴族家をお護りするのが本務のはず。尊貴族家にとって不利な状況は、たとえ不正行為であろうとも、彼らは払い退けようと考えるのだ。

「では今から、自分は隊長のところへ走ります。その後、近衛兵室にもどり、班長に隊長からの命令を伝え、その後、再び隊長に近衛兵の配備に関して尋ね……ともかく今、内務省は壁の向こうで寝ていてもらいましょう」

「我儘な思い、お察しくださり恐縮であります。危殆きたいに瀕した今、たった一つの掛け違いでも事の順番を違えれば、取り返しのつかない事態を招きかねません」

 ヲ・モリーは背中の痛みを堪えつつ、自分より若く見える警護兵士に笑みを贈った。

 その心意を警護の者は汲み知るったようだった。

「肝に銘じて」

 軽く一礼して警護兵士が立ち去ると、専医団の筆頭医アレアーノ術師が、ヲ・モリーのところへ入れ違いに現れた。暫定的な経過報告だった。しなびた鷲鼻に藍色のマスクをぶらさげ、いささか疲労の色も深い皺に滲んで見えた。天下に知れる医術界の長老でも、ただでも生後まもない嬰児の重創治療は想像を絶するものがあるのに、そのうえ患者が世継ぎの姫子となれば、自身が生きた心地はなかったであろう。

 筆頭術師の双眸は、水晶ランプの揺らめく明りを受けて、のぼせたように顔を染めていた。

「まずは姫君様のお命を運んで下さったことに篤く御礼いたします。あと微数刻わずかな遅れをとっておれば、運命は変わっていたことでありましょう……。宮廷医として尊貴族家をお護りするのが至上命令の我ら、どんなときでも、たとえそれが最大限の悲劇であろうとも、慌てふためくことのないよう、常日頃から平常心を努めておりました。が、今、そんな思いは絵空事の暗愚だと思い知らされました」そこでアレアーノ術師は感慨深く目蓋を閉じた。「姫君様の生命力は、天がお認めになった証拠あかし。超越神の秘力すらかなわぬものです。われら専医団には、尊貴族家のお命救えぬときは、償いとして、この両の手のどちらかを切断し、大公爵様へ献上するという代々の習わしがござります。それが慈愛大公爵の血を受け継ぐ方ともなれば、片手だけでは足りますまい。一家揃っていかなる処遇に付せられましょうぞ。されど姫君は、死の淵から舞い戻られた。我々の命のみならず、皆の家族をも助けて下さったのでござりまする。これこそは感謝の極みというものでありましょうぞ」

 見ればアレアーノは盛大に洟を垂らして泣いていた。そして盛大に洟をすすりあげると、静かに言った。

「……それで、この事態を専医団として、陛下にはどうお伝えすればよいのでしょうか。キュマイソン様にもまだ何も伝えておりませぬが」

 ヲ・モリーは、どうして専医団の長が、乳母役の自分にそんなことを訊くのかと、問い返そうと思ったが、あらんかぎりの熱情と意気をこめて、アレアーノ術師の心を凝視した。何が彼女の心眼に映ったのか、ヲ・モリーは両手の指を硬く組んで尋ねたのであった。

「姫君様は本当に、大丈夫なのですね」

 一瞬、その問いの真意に戸惑うアレアーノだったが、確かめるように、深々とうなずいた。

「はい。この一命にかけて。ですが……それが姫君様が、この後、ご成長した暁には、封緘宗祀様に御変異なされるか、という御質問でしたら、それは残念ながら愚昧のわたしには読めません。医術にも踏み込めない域界いきかいというものがあります。まして姫君様の向かう世界は広すぎますし」

「専医団……いや。宮廷医すべてが尊貴族家を支える指命を与えられているのでしたら、どうかわたしの願いを聞き入れて下さい」

「かなうものでしたら……」

「姫君の包帯を命名式までにとれませぬか。いや、とれるようにしてほしいのです」

「何をか言わんや! 乳母殿もあの傷は、よっくご覧になったはず。もともと専医団に籍を置いている者として、順調にいって二満月、いや雨期開うきあけまではかかることは自明の理。命名式まで残すところはあと十と五日。その間になにをしろとこの老ぼれに申すのでしょうや」

 いきり立つアレアーノが、ふたたび巨大な鼻から洟汁を流してヲ・モリーに迫ったとき、不意に現れたのは、あの間の抜けたガーランドだった。どこでどうこの事件を嗅ぎつけたのか、ふらりと専医団の施術室に入ってきたのだ。むろん、姫君の様子を知れば、キュマイソンのところへ駆けつける。駆けつけたところで思いつく。尊貴族家の大事件発生を知らさなければならない人物が、もう一人いたことを。そう、隣国から、アクタガワニスタンの山高知を踏破すべく、わざわざ二頭立ての驢馬の馬車を用意した男がいたことを……。そいつは長旅の疲れのせいか、深酒のせいか、いまだ羽布団に沈んでいるらしい……ことを。

 ──て、そいつはわたしのことだな……

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