第5話 なにがあったのだこの寝室で──
その広さは、睡眠をとるだけで、どうしてこの広さが必要なのか。わたしは小首をかしげた。
向かって左側には、ほとんど明かりはなく、底知れぬ闇が広がっていた。その闇を塞き止めるように、貴金属の縁取りが照り映える衝立てが、部屋を二つに分け隔ているのであった。
宝物館かと見紛うほどの什器の数々だが、なおも
そこに居合わせた人員は、近衛兵を外せば十人ほどだった。上位廷臣もいるのだろうが、すぐ目についたのは太后妃その人だった。天蓋寝台から離れ、絨毯に直接坐っておられる。北山岳地方の
そのすぐ横で、太后妃をかばうように寄り添っておいでなのは、ほっそりとした小顔の貴婦人であった。お召しになる夜着からして、やはりこちらも高位の貴族と推察されるが、わたしには想像はつかない。
そのとき、うふぉん、と空咳が左手のほうであがり、振り向くと、キュマイソンと同じ、だが階級章の派手な軍服を着た、なんと小太りなマント
わたしは軽く一礼してやった。
すると、背後にいたキュマイソンが素早い身のこなしで、マント狒狒へと参じた。つまり、よく似た軍服ということは、このマントヒヒこそはキュマイソンの上官、つまり近衛部隊長閣下なのだとわたしは推察を重ねた。
渋面をなおもつぶして、ねじって、握りつぶした将軍閣下は、キュマイソンの言葉を聞きながらも、片時もわたしから目を離さない。
なるほど、
その奥手のほうで、他の文官たちと立ち話をしている英姿こそが、大公爵様であらせらるぞ。そのお方が、むくれたマントヒヒ閣下の横に歩みより、すぐにわたしの姿を認め、こちらへ来るよう手招きなされたのであるな。
神々しいまでの目力であった。常に公国の行く末を案じ、国民の幸福だけを願う者の、慈愛に満ち満ちた目であった。
だが、そのときだ、ふと、我が小鬼魂の
──何!
わたしは思わず、小首を傾げた。小鬼魂よ、おまえ狂ったのか! よいか、大公様は、小国とはいえど、歴史ある公国の現最高権力者であるのだぞ。そのお方にむかって「油断なされるな」とはなんぞや。馬鹿も大概にしろっ。
いや、まてよ。あの目は、あの目つきは……。
そのとき、どんっとわたしの背中を拳で叩く者がいた。弾みで、わたしは息を吸い込んだ。どうしたことだ。わたしはこの部屋に入ってからというもの、一度も呼吸をしておらんかったのだ。
「どうなされたヤ=ジウマ殿、せっかくの大公様のお声かけではありませか……」──声の主はガーランドであった。
どうっと汗と息と咳が噴き出した。一瞬だったが、大公爵が怒り心頭に発して、キュマイソンに命じ、やつの剣太刀が、わが脇腹をずんべんばらりと断裁した──その光景が過ぎったのだ。あの剣太刀の錆びになっていたかもしれぬだ。
だがよく視れば、さすがに〝慈愛大公様〟と民衆から愛称で呼ばれるだけはある。かすかにわたしに頭を下げて、感謝の意を表しておられるではないか。一体、小鬼魂は、なーにを見たのだ聞いたのだ。おまえもボケたか腐ったか。それともそろそろ引退か。
わたしは止まらぬ冷や汗を手刺繍のハンケチで拭きながら、なんとか大公爵様の御前に到達できた。すると、
「ご苦労をかけるな。ガーランド君の姿が見えぬが、どうしたかな。ヤ=ジウマ殿の警護役だったはずだが」
──ときた。えっ、あいつはどこに行ったのだ。あいつが後ろにいたのじゃなかったのか?
狼狽するわたしの手を握り、大公爵はあらためて、ゆっくりと首を垂れた。
わたしは真っ赤になって、失礼ながらも公爵の相貌を覗き込んだ。
すると、へばりついた疲労や
青年期までは、さぞや高い頬骨に蒼い影も
「大公爵、願わくば、この
大公爵は深くうなずいた。
「なるほど忠義者だなヤ=ジウマ殿は。我が尊貴族家の名折れにならぬよう、漏れなく、しかも簡潔明瞭に筆記のほどを頼むぞ……」
「我が命と才にかけて、ご満足のいくよう励む所存にごさりまする」
そのときだ、「我輩はアンター・ハ・タレ近衛兵部隊長である──」と出し抜けにマントヒヒが面と向かって人語を吐いたのだ。「第三次斎奇力人討伐戦で才覚者ありと隣国三国にも誉れをいただいたアンター一族の末裔ぞよ。それはともかく、一国民として、貴殿のご活躍に期待をしておりますぞ」
思ったより優しい声だったが、惜しいことに顔は怖い。近衛部隊といえば大公爵を護るために組織された先鋭部隊で、アンター・ハ・タレ近衛兵部隊長が最高責任者になっている。しかし見たところ、こいつはただの表看板であって、実務的にはキュマイソンが指揮権を握っておるのであろうな。
わたしは一つ
「将軍閣下にはご挨拶も遅れて申しわけありませぬ。ガーランド氏と同席のうえ改めてご挨拶など……」
適当にしゃべっていると、そこへ、翼扉から二つの人影が、するりと寝室に入ってきた。
一つは太后妃のもとへ、一つは、まっすぐこちらへ進んでくる。どこでこのタイミングを測っていたのか、不意打ちのタイミングだった。振り向く大公爵に深々と最敬礼して見せたのは、あのガーランドだった。そして太后妃のまえに
ガーランドは今一度わたしに向かって、するどく視線を飛ばし〝よけいなことを口走るなよな〟と以心伝心して来よった。わたしがうなずいて見せると、大公爵に向き直り、
「殿下、さきほどカッ・クエー内務大臣が院内総務をつうじて、この事態を聞き及んだようです。そのため事態の揉み消しは難しくなりました」
「なんとしたことぞ。どこから漏れたのだ」マント・ヒヒ閣下が真っ赤になって目を剥いた。
「おそらく専医団の関係者ではないかと。いずれにしても──」
「そうか──」ここで大公爵は視線を落とした。眉間に苦悶の色が広がった。「では近衛兵たちを引き下げる必要があるな」
「はっ。できますれば」ガーランドは怒りの相で続けた。「もし内務大臣が太后の身柄の拘束措置を要請してきた場合、ここは陸軍の管轄内ですから陸軍憲兵が入ってきます。しかし、妃様は家世ともども
「もうよい、君の法務執行講義をこの
「ですが──」そこに入ってきたのはキュマイソンだった。出番を待っていたのか唾を飛ばして早口だ「まだ捜査もしてもいないのに、太后妃を容疑者扱いするとは言語道断。いかにして彼らがその証拠をつかんだのか、まさか斎奇力者が覚醒したのぢゃあるまいに! 陸軍憲兵の犯罪捜査力なんぞ濡れ衣を
「キュマイソン隊長殿!」それはガーランドの耳障りな声だった。「言葉を
見れば、いつのまにか、キュマイソンとガーランドは横並びになって、殿下と対峙しておった。信義を問う忠臣を絵に描いたような二人だが、いささか殿下の前では薄っぺらい。大公爵は
「ほう、間違いと申すか。だがな
「ですが、暗き、おぞましい凶兆を──」キュマイソンはちらりと太后妃たちのほうを見た。「ここで陸軍の横暴がまかりとおることがあれば……」
その口を、児童のごとく手のひらで塞いだのはマントヒヒだった。さすがに近衛兵の隊長としての迫力はある。ゆるゆると首を横に振ってみせると、キュマイソンは悔しそうに
そう、閉じたといえば、太后妃は心を閉ざしたと大公爵は言っていたが、さぞかし精神的に、どえらいダメージを食らったのであろうな。遠目からでも、今にも消え入らんとするていどの気力しか感じられなかったな。
と、そのときだ、キュマイソンとガーランドが声をそろえて、「封緘宗祀様に幸あらんことを!」と半ば叫びながら
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