第4話 廊下の向こうでは

 回廊は暗褐色の胡桃材と赤薔薇樹マダーズの羽目板が、そら見事な出来映えで、ぬめるような暗さでうろたえていた。

 近衛兵たちは、全力疾走すべきところを、整然と快速歩で突き進む。

 太后姫の寝室はそんなに遠かったのか、わたしの心肺は過度の運動量で、火掻ひかき棒を呑んだようだ。ぜえぜえと恥ずかしい音が気管でく。

 

 ところであのガーランドはどうしたろうか。一応わたしの警護をつかさどっているのだから、そばにいてもらわけなければ心配ではないか。かといって、再びあそこまで引き返すのも大人げないことだし……。

 

 そんなおり、ガーランドの靴音が、背後霊のように忍び寄ってきた。するりするりと接近してくるのは周囲を気遣ってのことだろう。どこか安堵するわたしだった。

 わたしは囁くように、廊下の闇に向かって言った。

「ああ、さっきの秘録筆記者についてだが、頃合いをみて説明しても構わぬが……」

 後ろ向きだが、ガーランドには聞きとれるはずだった。すると、

「さてなんのことでしょう」

 

 それは予想だにしなかった、女の声だった。

 

 振り向くわたしの視界は薄闇の中に、ほんわかと灯る女官の麗姿があった。

 全身を綿毛の医務服で包み、顔の下半分を正絹布で覆っていることぐらいはわかった。右手に水晶片の細工物ランプを持ち、かすかに菜種油の焼ける匂いがする。正絹布はその明かりを下方より受けて、金と銀に照り映え、深紅の唇が透けてなまめかしい。だが発する言葉や瑠璃色るりいろ双眸そうぼうは、艶っぽくはない。それどころか冷厳と碧く光っている。そのうえ……衣服の襞より立ち上る臭いは消毒臭に他ならず、かくれて漂うのは血のにおいだろう。


「ぶしつけなれど、わたくしは尊貴族家仕えの看護女官にござりまする。貴方様はお見受けしたところ隣国の文官殿かと察しますが、これより先は公務とて、お控えなさるよう進言いたしまする。どうかこのまま、自室へご退去なされますよう願いまする」

「まするまする……って、な、なんとな。それではガーランドがわたしを叩き起こしたことをなんとする。彼奴あやつは大公爵の命令を遂行しろと、わたしの背中をド突き、脇腹を警棒でねじったのだぞ。それをまともに受けて、ぢぢぃはこうして現場に向かっているというに──帰れってか」

 胡散臭うさんくさ女官あまめ、キュマイソンと似たようなことを言いよってからに。わたしは女官の平然とした態度が癪に触った。よそ者扱いもほどほどにしろっ! おまえたちの底意はどこにあるんだ。

 

 だが、口惜くやしいことに女官は態度を変えない。いや、むしろ、むかつくほど冷厳としている。ちいさくため息を吐くと、

「そうでしたか。そのようなことがあったことは存じませんでした。ですが、そのガーランドの上官でもあります近衛室長のキュマイソンが、わたくしに命じたのです。ヤ=ジウマ殿を、ご自身の自由意志のもと、引き返すよう進言したまえ、と」

 

 あららら。また実にあっさりと吐露しちゃうのだな。貴殿は。そこは迂遠した表現で、煙に巻くところじゃないのかいっ。まっ、女官があけすけに言うのなら、こっちだって──


「いいかね、くりかえすがね、あいつは、ガーランドはね、ついさっきまではわたしに公務を強要してきたのだぞ。寝入っているわたしをわざわざ叩き起こしてな。業腹ごうはらだったが、それも詮方せんかたなしと思い、こうやって、のこのこ近衛兵の後を追って現場に向かっておろうに……」自分の声がいらだちでたかくなっているのが恥ずかしいが、わたしはつづけて言ってやった。「それが今度は突如とつじょやめろと言うのか。ああ、ええよ。やめてもええよ。でもあとで、大公爵にわたしが報告したあとで吠えほえずらかくなよ」

「ですからそこを〝ご自分の自由意志〟で、と申したので……」女官は一段と鋭くわたしを睨んだ。「キュマイソン室長は、この凶事が予想を超えたものだとお気づきになったのです。この件は極力少数の関係者以外には漏らしてはならぬ……と」

「うーっ、それではそのなんとかいったな、院内総務だったか、内務大臣だったか。そいつも同意しておられるのだな」

「カッ・クエー大臣でしたらば、まだ未報告なれど、いずれ身形みなりが整えば」

 

 実を言うと、わたしの大脳はかなり冷静さを失っている。ガーランドに叩き起こされて、警棒でド突かれて、なんとかここまで来たら、今度はその上官がやめて引き返せという。そもそも、その事件だか凶事だか、それはなんなのだ! 太后妃の寝室で何があったのだ。ここでキリキリと言ってみろ!──わたしの好奇心の小鬼の怒声は、もう咽喉のどを駆け上がって、すぐそこまできていたが、なんとかわたしは呑み下した。どうせこの女官、肝心なところは口をつぐむに違いないのだから。


 わたしはきょろきょろと、大廊下を押し包む闇を見まわした。

「ここにガーランドの姿がないということは、わたしがその進言を拒否しても、捕縛されることはないということだな。自由意志といったこともあるし……」

「……」

 はじめて女官の目つきにかげりがさした。おそらく、わたしの野次馬根性に本格的に火がつきはしないかと、危惧きぐしていたのであろう。そうそのとおりだ。わたしは、その現場をこの目で見たいのだ。この国の太后妃の寝室で起きた狼藉事件とやらを、この目で見届けてやりたいのだ。文句あんのっか!

 わたしは唾を飛ばして言った。


「ハハハハハッ、吐露しちゃうとだな、この老体を大公爵様が隣国より召還なされた理由はここにあるのだよ。わたしはなんでも見たいという衝動を抑制できない愚か者なのだよ、おそれ入ったろう……」

 

 その言葉の半分も言うまえに、わたしは女官の持っていた水晶ランプをひったくり、小走りになって回廊を突き進んでいた。

 後ろで「ひっ」と女官が可愛い悲鳴をあげたが、それは、ついでにわたしが彼女の胸の膨らみに触れたからだな。実は、こっちにも大変興味があるのだ。若い男が女装しているのではないかと邪推したのだ。だが、失礼した。正真正銘のやわらかな乳房であった。いや、その張り方や胸部の保護衣は、ただの女官とは思えぬものがあった。それは厚物の胸部保護帯というやつだ。当然ながら、エロ祖父ィの痴態を防ぐためだけとは思えぬな。それと血の匂いだ。怪我を負っているのだ、それも深手の忌まわしいやつを……。

 

 とまあれ、回廊の先は、うざったい近衛兵たちの黒い影で塞がれていた。ようやく太后妃の寝室、つまり現場にたどりついたのだ。わたしの姿を水晶ランプと警護角灯で目視した近衛兵が、伝令として奥へ消え入り、入ったかと思ったら、あの近衛兵室長のキュマイソンが飛び出てきた。わたしの前に立ちはだかると、誰の付添いもなく、単身であることを見届け、さてどうしたものかと腕を高く組み、対応を思案している様子だ。


「貴公は独居房どっきょぼうの辛さをご存知あるまいな」


 キュマイソンの目つきは狡猾に光った。

 むろんそれは警告、恐喝、脅かしにすぎない。だがそんなゲスの脅しなぞ恐るるに足りずだ。わたしの身柄は大公爵に擁護されておるのだ。ゆえにこうやって近衛兵たちを押しのけ分け入っても、即時捕縛はできないことになっておるのだ。いや、かもしれんのだ。

「……」

 わたしはキュマイソンなぞシカトして、強行突破に出た。居並ぶ近衛兵の、あっちの足こっちの足を踏みつけて、閲兵式の銀杖メイスを掻きわけ押し分けて、ひと汗、ふた汗かくと、ようやく薄桃色した扉が見えてきた。白鳥の翼を模して造られた両開きの扉だ。太后妃寝室はこの奥にある。 

 ほんのわずかに片方の扉が開いていた。しかし、廊下に寝室からの明かりは差していない。きっと灯明のもとにさらしたくない事態がこの先で起きたのだ。

 

 気づくと、わたしのすぐ後ろにキュマイソンの気配と悪臭が傍寄そばよっていた。きっと腰にさげた剣太刀つるぎだちの柄に手を置き、少しでもわたしの動きにおかしなところはないかと、過敏症のハリネズミになっているのであろう。だがそんなものは臆するに値せずだ。わたしは、はばかることなく、翼扉を肩で押し開けた。

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