037. 狼人の悪夢




――



――。



――……て。




――……な……遠く……! お……い!




――……ィ! お前……はや……ろ!




――……さん。






――……にいさん……。








 ――― タスケテ ―――








――ガバッ!!




何かに引っ張られるかのように、何かに突き飛ばされるかのように


寝床から物凄い勢いで飛び起きる。



目は見開き、呼吸は荒く、手は震え、身体は硬直し、


獣人に備わっている汗腺という汗腺から冷や汗と脂汗が止めどなく溢れていく。



胸の鼓動が全身に血液を送り、脈打つのを感じる。



網膜へとこびり付いた悪夢の残像が現実を認識することを阻害する。




喉の奥から低く響く唸り声は全てを拒絶し、


その剝きだした牙、その鋭い爪は何物をも切り裂かんとしている。




「ラウル! 大丈夫!? ラウルっ!!」




悪夢にうなされていたラウルを心配し、横で必死に声を掛けていたリリナ。


飛び起きたあとの尋常ではない様子に涙目になりながらも懸命に声を掛け続ける。




「もう大丈夫だから! 私だよ! ラウルっ!! 気づいてっ!!」




 ― 頭が痛む。吐きそうだ。



   ……夢?



   ……夢……か。




   ……そうだ……リリナ……。




「……リリ――」




まだ意識が混濁しているが、傍らで必死に声を掛けている少女を見る。






 ―――タスケテ






銀髪の少女が灰毛の少女と重なる。






――刹那。




リリナには何が起こったか分からなかった。


胸元に強い衝撃を受けたと同時に


身体が宙を浮き、視界が物凄い速度で遠ざかる。






悪夢を散らすために振り抜いた左手に鈍い感触が残る。


気付けば既に為す術も無く宙へと飛ばされている少女。




向かいの寝床に足が掛かり、


比較的柔らかい所へ身体を打ち付けるがそれで止まる勢いではない。



打ち付けた勢いで身体が跳ね上がり、


寝床の上の布を巻き取りながらそのままの勢いで壁へと激突する。



――ドンッ!!



という衝撃音と共に、小さな体は床へと力なくドサリと落ちる。




先程まで不明瞭だった頭から一気に血の気が引き


今現実で起こった出来事をまざまざと見せ付けられる。




呼吸が荒くなる。手が震える。



今何をした? この手が? 彼女を?



認めることができない。信じることができない。


まだ夢であって欲しいという願望も否定される程に


鮮明に目の前の現実を叩き付けられている。




「――っ!!」




普段冷静を装っているその姿からは想像もつかない程の


慌てぶりで寝床から転げ落ちる。



足が思うように動かない。


焦りと混乱で意識と身体がちぐはぐになっているかのようだ。



床を這いつくばりながらも少女の元へと急ぐ。




「リリナ……! リリナぁ……!!」




呼吸が荒くなっていたからか、声が掠れる。



布の上に倒れ込んでいた少女は朦朧もうろうとしているようだが意識はあるようだ。




「リリナ……!」




触れようとするが、その手は先程この少女を突き飛ばした手だ。


思わず躊躇ちゅうちょし、わなわなと震えている手をゆっくりと引き戻す。




焦点がまだ定まっていないように見えるが、こちらに気付いた少女。


何かを言おうとしているようだが声が出てこない。






――胸元への強い衝撃で呼吸ができなくなっている。




 呼吸をしようにも空気が入ってこない。


 これまで意識をせずにできていたことが。


 吸うことができない。吸い方が分からない。




――苦しい。



――息が、できない。






 ――でも






 ― 私を叱った後、ひどく申し訳なさそうな顔をしていた。



   私と笑った後、ひどく物憂げな表情をしていた。




   きっと、辛いことがあったんだ。



   きっと、悲しいことがあったんだ。




   私が、そばにいなきゃ。



   何か、できるわけじゃないけど。



   そばに、いてあげなきゃ。





   助けてもらって、優しくしてもらって。




   わざとじゃないのは、分かってる。






   だから――






這いつくばり、今にも感情が溢れ出してしまいそうな狼の顔を


胸元にふわりと抱き寄せる。 




にこりと微笑み、優しく撫でる。


と。と。




これを伝えるために。


その前に意識を失う訳にはいかないと。


呼吸がままならない状態で、衝撃で身体が強張りつつも。




きっと。


何もしなければ


優しい狼の獣人は目の前からいなくなってしまう。



何故かは分からない。だが、そう確信があった。






視界が白んでいく。






――そして、意識が途切れる。



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