003. 泥濘の遭遇
眼前へゆらりと現れたのは
光沢のある黒い体毛に覆われ、鈍色の瞳を持つ……野犬……?
いや、狼の類か。
こちらの方を一目見て、耳をピンと立てた状態で川辺へ向かっている。
――ザッ
――ザッ
優雅な斜対歩とは裏腹に一歩一歩の音が重く響く。
そして、問題はその体躯。
体高が身の丈以上もある。
もし襲われでもすればひとたまりもない。
今は水面に顔を近づけ喉を潤しているが
口の隙間から時折鋭い牙がギラリと顔を覗かせている。
……逃げなきゃ。
とはいえ、変に動いて刺激を与えるわけにもいかない。
周りの状況も確認したいがそれ以上に、
目を離した瞬間に襲われるのではという恐怖が勝る。
自身が吐いた水、吐瀉物、川の水によりぬかるんだ土の上を
少しずつ、少しずつ、尻もちをついた体勢でじりじりと後ずさる。
水に落ちた時の衝撃で、動く度に鈍痛が全身を駆け巡る。
自然と、呼吸も再び浅くなる。
……生きた心地がしない。
その場から離れるための、数歩にも満たない距離がやたらと長く感じる。
かといって後ろを見ることはできない。
せめて草の生い茂っている所まで――
しかし
そのような姿勢で自身の身体を、その満身創痍の腕が保っていられるわけもない。
痙攣した腕、手首の痛みが自分の意識を裏切り、肘からガクンと崩れ落ちる。
――ドッ
地面に打ち付けられた上半身がその背中から音を響かせる。
途端、頭から血の気がスッと引いていく。
すぐに体勢を持ち直そうとするが遅かった。
その音と様子に反応した獣が頭を低くし、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
すぐさまその場から離れたかった。
もはや形振りなど構っていられない。
――すると
獣が足を止め、地面に鼻を近づけている。
膝から零れ落ちた布に興味を示している。
この隙にと言わんばかりに立ち上がろうとしたが、
獣の様子がおかしい。
先程まで、こちらの様子を伺いつつも敵意までは向けてこなかったが
低く響く唸り声を上げながら牙を剝き出しにし、
恐ろしいまでの形相が布へと向けられている。
鈍色だった瞳がみるみるうちに鮮やかな深紅へと変わる。
――ガッ!
大きな牙が地面へと放り出された汚れた布へ突き刺さる。
その激しい唸り声と共に、先程まで瞼を覆っていた布が見るも無残な姿になっていく。
爪で削り取られ、牙で引き裂かれていく。
それを皮切りに走り出した。
振り向くことももうできない。
追いかけられることになろうとも。
襲われることになろうとも。
草を分け、細い枝に引っ掻かれながらも遮二無二走る。
ただ、そこに居たくなかった。
居てはいけないと感じた。
恐ろしかった。
こわかった。
ただ、ただ走らなければいけないと肌で感じた。
――
細切れになった布を確認し、スッと首を
「アオォォォ――…… ン」
勝ち鬨とばかりに遠吠えが木霊する。
ゆっくりと四足でその体を起こし、何者かが走り去った方へ向き直る。
― その瞳はまだ紅い。
――
――。
……息が切れる。
どれくらい走っただろうか。
腰に巻かれた縄が尻尾のように踊り跳ねながら走り続けた。
そんな縄のことを気にする余裕すらなかった。
……逃げなきゃ。
ただその一心で。
濡れた落ち葉で足を滑らせ、肘をつきもした。
……もう 限界だ。
息も絶え絶えに草を掻き分ける。
脇腹に激痛が走っていて、もう足も碌に動かない。
掠れるような呼吸音、ポタポタと滴る汗。
所々の出血が汗で滲み、傷口が汗で疼く。
……もう どこにも力が入らない……
――後方から物凄い勢いで迫ってくる音を感じる。
視界が狭くなり、その音もまた小さくなっていく。
……再び意識が途切れる。
――
紅い光を棚引かせた黒い獣が小さい標的を前方に発見する。
勢いに乗せ、飛ぶようにその巨躯を走らせる。
そして、その喉元を喰い千切る。
――あと
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