4章 交差する思惑

第30夜

 カツンカツンと、足音が響く。階段を下りる。廊下を歩く。すぐ傍で立ち止まる。

 動作は控えめだ。そのわずかな反響でさえはっきり聞こえるほど、ウィズダム邸が有する地下牢は隠れ場所がない。片側に沿って並ぶ四つの牢屋。その一つは、檻が粉々に砕け、錆びついた赤がぎっしりと隙間なく詰まっている。

 牢屋の中に牢屋があった。


「ヴェルディ」


 手で持つランプが、声の主ディルファイアの影を壁に描く。


「『彼女』はどうだ」

「……相変わらず、一言も喋らない」


 時計塔レミールリクスが倒壊した大事件。その張本人である二人は、鮮血で塗り固められた牢屋に仲良く座している。ヴェルディは腕を組み、ユリアリスは手足を鎖で繋がれて。


 ユリアリスは目を覚ました途端、獣のように暴れて脱出を試みた。

 ヴェルディはただただ守りに徹し、彼女が放つ『音』をすべて防いだ。


 密室での攻防が一時間ほど続いて、ユリアリスは途端に脱力した。疲れて眠ったのではない。蝋燭が芯まで燃え尽きたかのように唐突に。なにより奇妙だったのは、その攻防の最中で口走っていた言葉――「早く殺して」

 自死を願いながら抵抗したかと思えば人形のように行儀良くなって、牢屋の外は朝を迎えていた。


「そっちはどうだ。この子の血液について、なにかわかったか」

「なにもわからないということだけがわかった」

「彼らは元々医者だったんだろ?」

「二年前に君たちの検査をした腕利きだ。ユリアリスの血は君たちと同様に異質だ。強制的に変質したかのように」そして、と続ける「わからないのは、君たちの血にはなく、彼女の血の中にのみ含まれる成分だ。どうやら未知の細菌かなにからしく、まったく解析が進んでいない」

「……それが、この子を蝕んでいるのか」

「可能性は高い。そして薬の効果が切れて副作用が現れるまであと十八時間ほど。その菌の様子を確認しつつ、解析を進める」

「……手間を増やして済まない」


 ヴェルディは歯噛みしながら呟いた。


「いや、彼女は貴重な情報源だ。死なせるわけにはいかない」

「…………」

「私はしばらく席を外す。なにかあればキオを呼びなさい。もうそろそろ起きる頃だ」

「あぁ」


 カツンカツンと、足音が遠ざかる。

 ヴェルディはじっと座ったまま、ユリアリスを見つめた。

 ランプに照らされる美しい顔は、復活の見込みがない枯れ木のよう。

 ユリアリスを助けたくてここまで連れてきた。だというのに、今のヴェルディにできることは吉報を待つことだけ。


「私は……殺ししかできないのか……」


 血を操るこの能力で、なにかできることはないのかと憂いながら――


  ◇


「どうせなんもできないしょ、あいつらは。ボスの洗脳がそう簡単に解けてたまるもんですか」


 窓一つない室内でランターニールが呆れるように言った。

 一人の老人と四人の若者――〈ラ・コトン〉の主要メンバーがそれぞれくつろぎながら話し合っている。彼らの周囲では白衣を着た組織の関係者が作業を行っていた。


「えぇ。ウィズダムの連中がなにやら解析しようと躍起になっていますが不可能でしょう」

「でも、やっぱり制裁は必要よ。裏切り者に生易しい最期なんて駄目よ」

「と言われても、私があの女を連れてくるのは不可能ですよ。番犬のようにヴェルディが見張っていますからね」

「ほんとオーベックの能力って便利だけど不便よね。どこにでもいけて誰でも運べるけど定員は一人。影の中に取り込む時は一瞬だけど元の姿に戻るから無防備。影になっても無敵じゃないし、運んでるとき影の中で抵抗されたら途端に外に出られちゃうし」


 オーベックの腕は今も包帯を巻いていた。レイニアに撃たれた傷が疼く。


「あなたが暴れることを得意とするように、私はサポートを得意とするだけですよ」

「は? なによ、もっと包帯を増やしたいってわけ?」

「いやはや、全身がスライムのご令嬢には敵いませんよ。ああ失礼――元、でしたね」

「あんたねぇッ!」

「その辺にしておけ。オーベック、俺はお前に感謝している。お前がいなければ向こうの地獄耳を出し抜くことは不可能だからな」


 ザルファルクの低い声が床を這う。二人はにらみ合いつつも、それ以上のことはしなかった。まるで鋭い影に縫い止められたように。


「ここにいる者は誰しも古傷を抱えている。俺もな。互いに傷つけあう真似はやめろ。今はウィズダム家を滅ぼすことが先決だ」

「……失礼しました、ザルファルク。痛みというのは厄介ですね。調子が狂います」

「じゃあどうすんのよ。夜になったら屋敷を襲うの?」

「いや、襲撃する必要はないだろう。リスクが大きいし、メリットがない」

「それじゃこっちの面子が丸つぶれじゃない! あの女に計画を丸ごと利用されて、台無しにされたってのに!」

「落ち着け。この戦いに面子は関係ない。あえていうなら最後に勝ってこそ面子は保てる」

「私も同意です。奴は遅効性の毒を飲んだようなもの。それなのに獣の巣穴に飛び込む真似をしなくてもいいでしょう」


 オーベックが眼鏡を持ち上げながら同意する。


「ねぇダヴィエンツ。あんたはどうなのよ。暴れたくないわけ?」


 肉を頬張ってばかりで会話に参加していないダヴィエンツに話題が振られる。

 ごくんと肉を飲み込むまでに若干の静寂があった。


「そういうこまけぇことはよくわかんねえからよ、俺はボスが言われた通りにやるだけだ」

「あんたに聞いたアタシが馬鹿だったわ」


 ランターニールの視線はそのまま老人へと移った。


「ねえボス、お願いよ。あの女はアタシたちが殺すべきだと思うでしょう?」

「ボス、私たちは反対ですよ」とオーベックが声を張ると、ザルファルクも頷いた。


 決断を迫られたズインはしばし目を閉じたまま黙っていた。誰も彼を催促はしない。


「……ユリアリスに使っている薬はね、特注品なんだ。先代クルスアイズの血を一滴垂らしたバケツ一杯の水。それに色んな薬草をいれて煮込んだ、魔女の知識による一級品だ」ズインは寝言のように目を閉じたまま続ける「敵を完全に殺しきるまで足掻くように命令してある。防衛本能のようなものさ。そうなれば無駄話をする余裕も消えるさ。拘束されたならそこから脱出するはず。けれど奴は眠った。それはつまり――奴の体は命令を実行できないほどまでに消耗したということさ」

「じゃあ、死んだの?」

「いいや、命令を実行できないだけで命は残っている。そして薬の効果が完全に切れた時、先代の血が暴走し、奴の脳を壊す。トラウマが現実になったような悪夢に散々苦しみながら、自分で自分を殺すようになる。それこそ裏切りの代償さ」


 残酷な副作用を淡々と説明し終えたズインは目を開けた。

 忠実な依媒キャタリスたちでもさすがに肝が冷えたのか、返事をする者はいない。


「だからね、ランターニール。わざわざ出向く必要はないさ。ヴェルディは大切な友達が目の前で狂い死ぬ姿を見ていることしかできないんだからね」

「……分かったわ。ボスがそこまで言うならしょうがないわね」


 赤子を宥め終えたかのようにオーベックはため息をついた。それを悟らせないように得意げな笑みを浮かべる。


「なら一安心ですねボス。時計塔の時のように我々のことをばらされてはたまったものじゃない」

「ああ。ただ気がかりなのは、効力の切れ目と血の暴走の時間差だ。そればかりは検証しようがなかったからね。不誠実だったとはいえ、奴も貴重な依媒キャタリスだった……いや、待てよ」


 ズインは笑みを取り消し、机を凝視するように目を伏せた。考えを巡らせるときによく見せる仕草だ。

 結果が良い物であれば笑顔で顔を持ち上げる。そうでない場合は……。

 皺だらけの顔を固くしたまま、彼は仲間を見渡した。


「すまない、皆。前言撤回だ、やはりユリアリスは回収しよう」

「ボス!」と吠えたランターニールが椅子から立ち上がる。

「アタシは嬉しいけど、一応理由を聞いてもいい? ほら、変な顔してるオーベックのためにも」

「こほん、失礼ですよランターニール。ですがボス、たしかに私も気になるところです」

「ボス、リスクを犯す必要はないだろう?」


 ザルファルクまでもが身を乗り出して問う。

 ズインはザルファルクの瞳を真正面から受け止めつつ、静かに切り出した。


「奴は、束の間とはいえ自由を得るかもしれない」

「なぜそう思う?」

「薬の効果が切れれば暗示が解ける。それから先代の血が暴走を始める。あの女の血管という血管を浸蝕するんだ。……わかるかい? 浸蝕しきるまでの間、奴は自由だ。自我を取り戻してしまう。その時間がどれほどかは、私でも予測がつかないよ」


 数秒か、はたまた数分か。ユリアリスはどんな情報をも開示できるようになる。

 そして彼女の隣にはヴェルディがいる。

 ユリアリスを救おうと躍起になっているヴェルディが。


「……もしかするとユリアリスの命は助かってしまうかもしれない」

「なんで? あの女がボスの薬の治し方を知ってるっていうの?」

「いいや、そうじゃないよ」ズインは首を振ってから、自分を落ち着かせるように言葉を紡ぐ。

「君たちには教えたね。魔女と同じく、依媒キャタリスの能力も想像による影響が大きいと。でもね、ヴェルディたちにはそれを教えなかったんだ。必要がなかったからね。能力の使い方を指定した。でもユリアリスが自我を取り戻し、それを伝えた場合、どうなると思う?」

「……想像により、連中の戦闘力が向上する可能性は高いでしょう。ですがこちらだって負けませんよ。それに、イメージを膨らませろと言われてもそう簡単にできることではないでしょう?」


 能力の扱いにおける練度において〈ラ・コトン〉の面々はゆるぎない自信を有している。

 ズインが危惧しているのは、彼我の差ではなかった。

 ザルファルクは一つの結論に辿り着いたのか、


「……ボス、あの女は血を操る依媒キャタリスだったな?」と深刻な面持ちで訊いた。

「そう、ヴェルディは血を操る。今は殺すことにしか用いていないけどね。ユリアリスは血の作用によって死ぬ。もし、ヴェルディが血を操ってなにかしたら」

「待ってよボス! たしかにあの女は殺しても死ななかったけど、そんなことってあり得るの!?」


 ランターニールの動揺が波紋し、一同は押し黙った。

 もしもヴェルディがユリアリスを治療できてしまったら。

 敵意を失ったユリアリスは、必ずやヴェルディの味方をするにきまっている。

 戦力差が傾く。


「んで、どうすんだ? 俺はいつまでここで大人しくしてりゃいいんだよ」


 ダヴィエンツが呑気な声を上げた。少年は体を動かしたくてしょうがなかった。図らずもその願いが叶うこととなる。


「今日中に、薬の効力が切れる前に屋敷を襲おう」


  ◇


 一方、地下牢にて。

 

 革靴の音が遠ざかって間もなく、別の足音が訪れた。

 胃袋に鉛を流し込んでぐるぐると回転させた心地の中、ヴェルディは瞼を持ち上げる。


「ヴェルディ、起きてる?」

「あのオーベックとかいう下衆がいつ襲ってくるかわからないからな。眠れないよ」

「だろうね。だから来たんだ。代わるよ」


 淡々と告げるガルガラに気遣いや配慮は感じられない。同時に、殺意も。


「……お前はユリアをどう思っている?」

「どうって?」

「この子はウルスカーナやレイニアを傷つけた。普通に考えれば……憎いだろう」


 自分がしていることは仲間への裏切りに近い。ある意味この瞬間こそ、ユリアリスを殺す絶好の機会だ。

 ヴェルディは警戒を露わにした。仲間に向けて。


「純粋に心配してくれているんだろう。お前は料理に情熱を注ぐ男だ。だが……今の私にとって、この子から離れるのは、お前から両腕をもぎ取るに等しい」

「確かに。喫茶店を爆破されても、厨房は屋敷にもあるからね。もし腕を失ったら僕は迷わず時計塔から飛び降りるよ」

「答えてくれ。この子を……どう思ってるんだ」


 血の牢屋はわずかな隙間があるだけで、四方を壁で囲っている。ガルガラからはヴェルディの顔はまったく伺えない。それでも、今にも眠ってしまいそうな喋り方が精神の限界を物語っている。


「フライドエッグとスクランブルエッグ、どっち派なのか気になるね」

「……なんだって?」

「肉はなにが好きか。あと焼き加減も。もうお酒は飲めるんだっけ?」ヴェルディの返答も待たずにガルガラは言葉のスープを浴びせていく。「野菜の好き嫌いとかはあるのかな。話を聞く限り栄養失調の気配はなさそうだから、たぶん新しい組織でも食事は出されてたんだろうけど。あの時食べさせられた料理は最低だったじゃないか。もし過去にタイムスリップできるなら、あれを作った連中を一人残らずミンチにするね」

「私が聞いてるのはそうじゃなくてだな――」

「怨んじゃいないさ。だって、ぜんぶ命令されてたんでしょ?」


 アイスピックが氷を割るように、回答が突き刺さる。


「君たちのやり取りはキオが聞いてたからね。大体の事情は把握してるつもりだから」

「……皆が皆、同じではないだろう」

「かもね。だけどユリアリスの存在を知ってから時々こう考えるんだ。もし一緒に救われてたなら、僕は彼女にも料理を振舞ってたんじゃないかなってね」

「…………」


 ユリアリスを生かして連れてきたことへの各人の反応を想像して初めて、ヴェルディは思い知った。

 屋敷に来てから一度も、仲間たちのことを気にかけていなかったことを。

 ユリアリスのことで頭がいっぱいだった。ディルファイアに一度でもレイニアたちの容体を聞いただろうか。ヴェルディは情けなさで喉が詰まった。


「……あー、ていうかごめん。本音を言うとね」と、ガルガラは吐露した。

「さっき朝食を作ったから感想を聞かせてほしいんだ。キオはなんでも『美味い』しか言わないから参考にならないし。君は素直な評価をくれるからさ。頼むよ」

「……たまに、お前が羨ましくなるよ」


 気の抜けた感想を小さく呟いてから、ヴェルディは入り口を開けた。

 ランプの光すらもひどく眩しい。見上げれば、淡白な笑みがあった。

 ユリアリスがまた暴れる可能性やオーベックが侵入する想定などを説明すると、ガルガラはいつもと変わらぬ調子で請け負ったのだった。


「大丈夫だよ。この間爆発を防いだばかりだし、ゴキブリ退治には慣れてるからね」


 ◇


「……はぁ」


 地下牢を出たヴェルディを出迎えたのは、眩しい朝日とハンナだった。


「そんな汚れた格好で食事をさせるわけにはいきません」と断言した彼女に連れられ、ヴェルディは一人、使用人用の風呂に浸かっている。

「汚れを落としたら最低でも二十分は湯につかりなさい」と言いつける姿はメイドというより母親だった。


 さっさと食事を済ませてユリアリスの傍に戻りたいのに。

 まんまと二人の策略に引っかかったヴェルディは、しかし願いとは裏腹にバスタブから立ち上がれずにいた。

 ウルスカーナの誘拐から始まり、ザルファルクたちとの混戦、黒幕との邂逅。足止めをし、さらにユリアリスと空の上で争い、休むことなく牢屋で彼女と過ごした。


 本能が安らぎを求めていた。血の匂いと暴力に慣れはしても、休息は不可欠だ。

 例え暗示によって強制されようと、欠かすことはできないだろう。


「……ユリアも、お腹空いてるのかな……」


 物言わぬ友人を思い浮かべながら湯船に身を任せるだけで、胸が痛んだ。

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