第31夜
『
黒一色で構成されるその広大な建築物を知らぬ者はスィル=クリムにはいない。敷地をぐるりと覆う柵を飛び越える者もいない。一度は警告がある。二度目はないからだ。
警備の厳重さで比類する場所は片手で数える程度だ。この場を訪れる者は誰もが国の重鎮であり、ドアの向こうでの会談が漏れることはない。
「かの戦火に焼かれたここを修繕するのに莫大な費用がかかったらしいな。当時廃した王族らの遺産があったおかげで予算には困らなかったが、もし今この瞬間に大砲でも飛んできて一棟でも吹き飛べば、それだけで数千万ユエルは吹き飛ぶだろう」
密談をするには絶好の場でもあるのだ。
「時計塔を建て直すのにかかる費用はそのさらに数倍だ。珍しい無駄遣いをしたな、ディルファイア」
現スィル=クリム大統領――フェリック=ギエヌが、大統領府の一室で穏やかではない表情でディルファイアを見据える。対するディルファイアは普段と変わらぬ硬い岩のような表情のままだった。
「申し訳ありません、大統領。ですがあの場でユリアリスを逃せば、被害は億では済まなかったでしょう」
「敵は観光名所を壊すのが趣味なのか?」
「いいえ。金銭にはけっして代えられないもの…………人命を失っていたに違いありません」
ディルファイアの傍には執事長のイデアルが。対し、フェリックの傍には誰もいない。
執行人の存在は大統領にのみ知らされる暗部の一つ。歴代の大統領は任期を満了した後も、その暗い刃の残光を明かすことを禁じられている。
何人たりとも、影を太陽の下に引っ張りだすことなどできやしない。
「時計塔の崩壊の方がよっぽど死者を出す可能性が高かっただろう」
「報告書に記した通り、すでに我々の手で時計塔周辺は封鎖しておりました。耳の良いキオとの連携も万全で、事実として、人的被害は皆無です」
「……国民の犠牲がなかった。その点はいい」
もっとも、現場を封鎖していたアレックス達こそが危うく瓦礫に押しつぶされそうだったが。
フェリックは朝刊を静かにディルファイアの前に置いた。
「サーカスはもう少し静かに開くべきだったな。流言飛語がうるさくて仕方ない。客観的事実を述べるべき新聞社ですら荒唐無稽な記事を出すほどに浮かれている」
「私も始めて見ましたよ。ヴェルディがあれほどの技を扱えるとは知りもしませんでした」
「普段の仕事もこれくらい派手にやりたいと?」
「まさか。埋葬屋は隠密であるべきです。誰にも見られないからこそ、死体が消える不気味さが広く知られる。裏切り者やスパイは相変わらずですが、ここ一年間の凶悪犯罪が減少したのが明確な証拠でしょう」
ディルファイアは敬語を使いはすれど、その眼光は味方ではない誰かに向ける温度を帯びている。
対しフェリックはリードを握る主人としての振る舞いはするものの、膝の上で組んだ指が絶えず手の甲を擦っている。
「君の部下が国を裏切った場合、この国は再び戦火に包まれるのだろうか」
「それはありえません。いかに個の能力が強靭でも、人間が人間である限り、独りでは生きていけない。個が集団を滅ぼしてしまった場合、待ち受けているのは人類の根絶です。そして私があの子たちを救った際にまず教えたのはそれです。大統領」
「彼らは戦力を提供し、君は生活を保障する。利害が一致しているわけだ、今のところは」
例えば、ヴェルディたちが普通を求めなくなったら。
例えば、ウィズダム家の権力が失墜し、援助ができなくなったら。
パワーバランスが崩れて国の癌へと変容するのでは、と暗に問いかけるフェリック。
「仮にその協和が崩れた場合は規則通り、軍を動かしていただいて構いません」
「こんな能力を持つ存在に銃器が効くと?」
机の上で息を潜める新聞の表紙には、瓦解した時計塔から天空へと伸びる何本もの奇妙な柱の写真が載っている。
「能力の詳細は以前お伝えしたのと変わりません。そして、人間である以上体力には限界があります。安易に睡眠が取れない緊張状態へ追い込めば、数日で片が付くでしょう。無論、そのような事態に陥った場合は私が先陣を切ります」
「そう言われても私は不安を拭いきれんよ。
「かつて絶対的権力を振るい、殿上人と呼ばれていた王族ですら、団結した国民には太刀打ちできなかったのですよ、フェリック」
濡れた火薬のような緊張感が充満する執務室に、凛とした女性の声が響いた。
ディルファイアもフェリックも、開かれた扉へと反射的に顔を向けた。
「タレス? どうしてここに」とディルファイアが尋ねる。
「
「呼んだんじゃない。呼ぶように頼まれただけだ」
「あらあら、つれないわね。私が混ざるのは都合が悪いのかしら?」
「嫌味に聞こえたのなら謝罪しましょう、
肩をすくめながらフェリックが苦笑する。
訪問者は男二人とそう変わらない齢に見える。杖をついているが背筋は真っすぐであり、その場で佇んでいるだけで気品の良さが滲んでいる。目の前に現大統領がいるというのに物怖じしていない。
むしろ、現大統領こそ、肩を強張らせてさえいた。
名を、タレス=アルトリウス。
スィル=クリム初代大統領を務めた女傑。
或いは――四十年前の内乱を自ら計画し、実践し、アルトリウス王家を滅ぼした、王族の末裔。
◇
ディルファイアの隣に座った初代大統領にすぐさま紅茶が出される。
彼女はゆったりとした仕草でティーカップを摘まみ上げ、香りを味わう。
「イデアルの淹れてくれる紅茶がいつも美味しいわ。やっぱりあの時強引にスカウトするべきだったわね」
「お褒めにあずかり光栄ですタレス様。我が主人は美味しいとも不味いとも言わないもので」
「あらそうなの? 困ったものね、料理もお茶も感想を言ってもらってこそなのに……。あら、二人とも一口も飲んでいないじゃない。もったいないわね」
「タレス、変に場をかき乱すのはよしてくれ。私たちには時間がない」
「ここは婦人会ではありません、タレス殿」
「男の人ってどうしてこうせっかちなのかしらね」
音もなくソーサーを置いたタレスが大仰にため息をつく。まるで夫に文句を言う婦人のようなお茶目さ。しかし次に発する、つまりは本題によって、空気が元に戻った。
「ディル。あなたが捕らえた
ディルファイアから説明を受けるまでもなく、ユリアリスの身柄をウィズダム家が預かっていることを知っていると公言したタレス。
ディルファイアはフェリックを見やった。現大統領は首を横に振った。
「相変わらず耳が早いな、タレス。時々こう思うよ。私がいる必要はあるのかと」
「それはもちろんよ。製菓会社を立ち上げても衰えない射撃の腕、冷徹な精神、仲間を束ねる求心力――消えることのない恨み」
「…………」
「人間にはね、仲間が必要なのよ。志を同じにする仲間が」
平和な時代を築くために。清き目的のために、皆が武器を持った。犠牲を下地とした勝利を掲げ、誰もが幸福に浸っていた。それは白昼夢のように消えていった。王権という蓋が壊れ、人間性の底に蠢く欲望が国中を覆ったのだ。
「内乱を乗り越えた味方が、次々と味方ではない立場に移ったわ。大統領として法律を打ち立てつつ、私は兵力を手放すことはできなかった。個人的な、ね」
「妻の葬儀で再会したときの君は、内乱の真っ只中にいるように切羽詰まっていたな」
「えぇ。任期を終えたら二度と大統領選挙に参加しないという決まりだったから、当時の肩書を失った私にできることは限られていたもの……。俯いてしまう私でもわかるくらいビリビリと熱かったわ。あなたの全身から溢れだす復讐の炎は」
「当時は噂が絶えませんでしたね。その仲間を、あなた手ずから葬ったと」フェリックが言う。
「執行人というポジションは、元々そのために?」
「信じてもらえないでしょうけれど、私じゃないわ。内乱に協力してくれた貴族たちは、次の時代の利権をめぐって水面下で争ったのよ。そして、たった四家だけが残った」
「それが
ウィズダム家の名声など及ばないのは言うまでもなく、タレスの影響力に拮抗するほど強大となっていた。
「いざという時は彼らを処すると?」
「執行人の役目はあくまで法で裁くことが難しい悪人を処理することです。政治的な刃ではありません。……まあ、彼らが悪人にならないことを祈っています」とディルファイア。
「連中が保有する戦力は軍に匹敵するというのに豪胆だな」
「二年前の私ならこのようなことは言えませんでしたがね」
「でも皮肉よね。平和を願って、私たちは血を流した。法治国家を樹立して、だけど武器を手放せずにいる。後遺症なのかしらね。私の血に流れる野蛮さが消えることがないの」
「……全員がそうではないだろうが、内乱を経験してしまっては仕方あるまい」
ディルファイアが執行人を任されてから、部下はゆっくりと、しかし着実に増えていった。元軍人、元警察、元傭兵――あるいは、内乱後に一度は別の道を歩んだものの、血濡れた道に戻ってきた者。
執事長イデアルを見やる。彼は無言のまま苦笑した。
「現実は悪役を倒しても平和にはならない。また別の悪役が生まれるだけだ」
ディルファイアがそう言うと、皆の脳裏に、懐かしみたくもない苦労が思い浮かぶ。
「治安を守るために立ち上がった自治体がマフィア化していったわね」
「内乱の終わりに乗じた密入国者は絶えなかった。おかげでスラムができました」
「会社が増えて競争が激化し、格差ができた。出生率が爆発的に伸び、結果捨て子が増えた」
「そしてそういう子たちが次のマフィアや犯罪者になるのよね」
「改善するよう努力はしています。警察の仕事が尽きる日はない。予算を確保しようにも、面倒ごとを見て見ぬふりをする政治家は多い」
「存じています大統領。誰もが生まれてからずっと不満を抱えています。しかし――」
「「「あの頃よりはよっぽどマシ」」」
三人の陰鬱とした結論が重なり、疲れたような笑いが散らばった。イデアルもまた、三人に同調するように笑っている。
「だが魔女なんて規格外の存在からすれば、人間の努力など些事なのだろうな」
「本当にたった一人で世界を変えられるのならば、ですが」
「あら、魔女? 急に御伽噺なんか始めてどうしたの?」
タレスもそこまでは拾っていなかったらしく、フェリックの許可を得て、ディルファイアは敵から得た情報を伝えた。
そして大きな遠回りを終えて、話は本題に戻る。
「それは……とにかく敵の戦力を削げたのは大きいわね。でも敵は、なぜこんな回りくどいことを? その気になればいつでも魔女を復活させられるのでしょう?」
事の重大さを理解したタレスが声を忍ばせる。
昔話に熱が入ってしまうのは年寄りの悪い癖だとフェリックの顔に書いてある。
「自分の手駒を失いたくないだけ……ではないだろう。魔女の復活のその先を見据え、こちらの
「
「私も考えましたが、それならユリアリスを使えばいいだけです。わざわざ薬を用いて服従させていたわけですから、こちらに喧嘩を売る必要はなかったはずです」
「その情報をユリアリスから聞き出せればいいのだけど」とタレス。
「可能性は低い。彼女の血液に含まれていた未知の成分の解析は……おそらく、間に合わない」
暗い見通しが沈黙を模る。
重要な手がかりをみすみす不意にしてしまうのは悪手であると、この場にいる全員が理解している。そこに感情は、つまり憐れみや情けといったものが介入する余地はない。
「君の部下のヴェルディは、たしかそのユリアリスという女と既知の仲らしいな」
「ヴェルディはユリアリスを探すためだけに私に協力していたと言ってもいいでしょう」
「ユリアリスが死亡した場合、その腕が鈍らないといいな」
「ちょっとフェリック、そんな言い方はあんまりよ。あの子たちにも人としての感情があるのだから」
「ですが充分な懸念材料でしょう? 狩人は獲物を失っても弾丸を捨てません」
狩人は時として、自分のために人を撃つこともできる。
「……ご安心を、大統領。ヴェルディがこの仕事を初めて一年以上が経過しています。常人ならなんらかの罪悪感を抱いてもおかしくないほどに、彼女は人を殺めてきた」
淡々とした声音が、タイプライターのように紡がれる。
唯一表情が伺えないイデアルこそが、その音色の奥底をくみ取っている。
「大切な存在を失ったとしても立ち上がります。私の部下はね」
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