回顧録

回顧1

 六十年前――


「静かだな」


 この世には魔女がいる。

 彼女らは息を潜めて生きているわけではない。

 自然に溶け込み、雲のように気ままに悠久の生を営んでいる。

 息を潜めているわけではない。隠れ潜んでいるわけではない。


「ははっ……。はは! 清々するぜ! 口うるせえ親はいねえし、人付き合いもしなくて済むし、結婚だって! …………」


 科学の発展に伴って人間たちに芽生えてしまった自意識――自分たちはこの世で最も賢い生命体だ――そのふんぞり返るような気高さが、瞳を曇らせている。


「……静かだな」


 スィル=クリム西部、ヴァント。地域の五割を占めるギダス山地は、連綿と連なる山々は荘厳で、繁栄した樹海は野生動物たちへ住処を提供している。

 一般人は迂闊に近づくべきではない弱肉強食の場。

 森をさまよう男クルスアイズは、散弾銃一つ持たずにこの地に足を踏み入れ、木々の揺らぎや茂みの擦れに常々怯えていた。


「……あー、そういや、こういうトコには魔女が出るんだっけか。いっそ会ってみてえな」


 そんな自分を奮い立たせるように独り言を呟く。

 ヴァントに根付く地方貴族の長男として生を受けたクルスアイズの十八年間の人生に、己の意志が介入できる余白はほぼなかった。

 作法も、知識も、環境も、交友関係も、婚約者も、すべて与えられたもの。

 クルスアイズは逃げたのだ。その窮屈さから。


「あー……ハラ減った……喉乾いた……」


 どこかに飲み水でもないか。顔や腕に擦り傷を造りながら後悔するクルスアイズ。死ぬつもりは毛頭なかった。ただ自由とは無縁の人生に縛られてきた青年にとって、なにもない自然はとても魅力的に映ってしまったのだ。

 踏み出せば自分の中にあるなにかが変わるという根拠のない前向きさのせいで。


「ま、俺が消えれば婚約も破棄されるだろうし、ムルテガも清々するだろ……」


 ムルテガとは家の繋がりだけで婚約することとなった女性の名だ。

 見た目に不満はない。むしろ申し訳なく思うほど。何度か顔を合わせてもどうも素っ気なく、クルスアイズは結婚後の生活が冷え切ったものにしか想像できなかった。


「ああ……でも死ぬ前に一回、キスくらいはしたかった……」

「したことないの?」

「おひぇあぁッ」


 クルスアイズは情けなく腰を抜かした。

 てっきりまた鳥の鳴き声が返ってくるものだと思っていたからだ。


「ゆ、幽霊……?」

「え、ひっどーい。私のことをあんな未練たらたらのと一緒にしないでくれる? ていうかなに、私の体が透けて見えるの?」


 足音一つなく現れたのは一人の女性だった。

 濃い青色の長髪を片側に束ねている。瞳もまた青い。ドレスのような、ローブのような服を着崩しており、やや目のやり場に困る。服がライトブルーを主としていることもあり、まるで海から陸に上がった異邦人――人魚姫のようだ。


「こげつき……? いや、えっと……」

「…………えっち」

「えっ、あ、いや、なんで!?」

「いま私の胸見てたでしょ!」

「み、見てない!」


 地面にへたり込んだクルスアイズを前屈みになって覗き込むように見下ろしている。

 故に、ややダボダボ気味な彼女の胸部は大きな隙間を生み出していた。


「まぁ私が不用心だってことはわかるけどさー、露骨に見られるとこっちも複雑な気分になるっていうか? 別に見せたくて見せてるわけじゃないんだよねー」

「いや、俺だって見ようとして見たわけじゃ……」

「あー! なんかそういうのムカつく! それに見たことは認めたよね!?」

「あーもうわかった認めるよ! 見えたよ! でも事故だったよ!」

「やっぱり! この変態! すけべ! むっつり!」


 出会って数分もかからず喧嘩を始めた男女は一気にヒートアップしてゆく。

 木々の間をつんざくような大声で。

 他の存在の出現すらも聞き逃してしまうほどに。


「ならなにか隠れるように着れ、ば……あ……」

「だから厚着は好みじゃないって言ったでしょうが! ……なによ、変な顔して」

「いや、君、う、うしろ………………」


 女性の背後から、影――大柄の熊がのそりと聳え立つ。


「グオォォーーーッ!」

「……あ……はは、は………………」


 クルスアイズは今度こそ完全に腰を抜かした。

 膝も震えてしまい、もはや地べたを這いずることもできやしない。


「お、おいっ、君は逃げろ! ここは俺が――」


 それは精一杯の強がりか。誰とも知らぬ女に格好つけても意味ない状況なのに。


「ん、どしたの?」


 呑気な返事。遅れて、重々しい落下音がクルスアイズの耳朶を揺らした。


「……は?」


 クルスアイズは今度こそ立ち上がれなくなった。

 目の前には、熊だったものが真っ二つに割れて内臓やらなにやらやらやらやら――


「…………お゛え゛ぇ゛………………」


 そこにクルスアイズの吐しゃ物がブレンドされ、大自然に濃厚な不快臭が広がった。

 散々な出会いだった。けれどもとても印象的なきっかけであることは違いなく。

 クルスアイズの人生はこの出会いによって大きく変わった。

 女性の名はルクシィ。


 その正体は――久遠を生きる魔女である。


 そしてクルスアイズは遠い未来で〈レヴォルト〉という組織を立ち上げることとなる。




 魔女ルクシィの死をきっかけとして。

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