第29夜

「……変ね。地獄って、死体の山と血の河ばかりだと思ってたのに」


 上ずった感想がぽつりと零れる。

 ユリアリスは死んでいなかった。

 その身は刃で貫かれておらず、代わりに、巨大なクッションめいた液体が包み込むようにユリアリスの体の下で揺れている。ヴェルディが咄嗟に生み出した緩衝材だ。


「……ずっと、気がかりだった」


 ユリアリスの両手首を掴み、馬乗りしたままヴェルディが呟く。


「喫茶店で会った時、どうしてすぐに手を引いた。マフィアの屋敷で戦闘したときもそうだ。なぜヒントを口にした。そもそも……君なら、レイニアたちを殺すことは簡単だったはずだ。時計塔を吹き飛ばすのなんて造作もなかっただろう」

「…………ねえ、私を殺した方がいいわよ。でないと私、あなたを殺しちゃうもの」


 ユリアリスは質問への回答をはぐらかした。そして宣言通り、彼女の体内で生じる心拍からなにやらが凶器となってヴェルディの体に穴をあけ、部位を吹き飛ばす。

 痛みを感じる暇がないかのように、ヴェルディはただユリアリスをじっと見つめている。


「嫌なのよ、これ。体が勝手に動いて……ねえ、なにをしてるの」


 音が弾ける。


「ねぇ」


 音が弾ける。


「ねえってば……」


 音が弾ける。弾ける。弾けて、血が散佚し、骨が粉々になり、肉がぐちゃぐちゃに飛び散るごとに、ユリアリスは顔をしわくちゃにさせて、涙をあふれさせていく。


「このままじゃあなた、いずれ死ぬわよ!?」

「なら、この質問に答えてくれ。……なんで、さっき泣いていたんだ?」


 血の刃を心臓めがけて突き刺そうとしたヴェルディが見たもの。


「どうして、あんな悲しそうな顔をしていたんだ」


 ――「バイバイ」


 名残惜しむような、しかしなにか重い荷物を下ろした時のような解放感に満ち足りた笑顔。いっそ晴れやかと表現できる屈託ない表情で涙を眼窩に溜めながら、ユリアリスはそう言った。ヴェルディの鼓膜は確かにその言葉を拾った。


「……嘘いわないで」

「嘘じゃない」

「嘘よ」

「嘘じゃないよ」

「嘘よ!」

「じゃあどうして泣いているんだ!」


 必死に顔を背けるユリアリスの頬を両手で鷲掴み、ヴェルディは強引に視線を重ねた。

 ユリアリスの瞳は赤く充血し、暗闇の中で、水の流れが月明かりに照らされている。

 それは、ヴェルディが初めて見た本物だった。


「これまでの振る舞いはすべて演技だった。そうだろうユリア! そうなんだろう!?」

「……………………」

「……君が一度でも言葉にしてくれれば、私は君をあらゆる敵から守り抜くつもりだった。今度こそ……。もう二度と、君を手放さないと」


 衝動的殺意は本物だった。ヴェルディはまさしくユリアリスを殺すつもりだった。

 勝敗が決する瞬間に曝け出された、疲れ切ったその声を耳にし、すべてを投げ出すような笑みを目にして気づかされたのだ。衝動こそが過ちだった。

 ユリアリスの行動のすべてが、作為的だったのだ。


「教えてくれ、どうしてこんな……私に、君を殺させるような真似をしたんだ……!」

「……知らないみたいだから教えてあげるわ。私はね、毎日投薬されてるの。そのせいであの男に逆らえない。そして、三日以上投薬しなくなると段々と精神が崩壊するようになってるのよ」

「っ……! それは、嘘だろ? なぁ、ユリア。お願いだ、もう嘘をつくのはやめてくれ」

「嘘じゃないわ。それに、今回はあのお爺さんの束縛が緩かったおかげでね、昨日から薬は摂取してないの。だから私は、このままだと二日後に死ぬわ」

「…………」


 ズインが手の内をひけらかしたのには理由があったに違いない。ヴェルディはそう睨んでいた。そう言い聞かせていた。でないと、手足を大地に投げ出してしまいそうで。


「だから、私を救うっていうなら……殺すしかないのよ! 私は自殺できないし、わざと敵の攻撃で死ぬこともできない。全力で戦って敗北しないと死ねないのよ! だから早く殺して! 楽になれるチャンスは今しかないの!」


 作り笑顔で堰き止めていた本音が決壊したように、ユリアリスの喉が引き攣る。


「楽にさせてよッ……!」


 一言を。そのたった一言を。

 二年越しに、命がけで、ユリアリスは言うべき相手に伝えることができた。

 今こうしている間にも、ヴェルディの体は破壊と再生を繰り返している。


「…………」


 今この場でユリアリスを手にかけるしかないのか。それ以外に方法はないのか。自分はなんのためにここにいる。一方的な攻撃を浴びながらヴェルディは歯ぎしりした。

 それは痛いからではない。

 この子が自分の意志で殺人を犯していないことさえ証言が取れれば……。

 そこでヴェルディは思い出す。ユリアリスと対峙した理由を。霞んでいたのだ、あまりに致命的な事実を知ってしまったがために。

 自分は怒りに駆られてここに来た。けれども怒りは、灰となった。


「……キオ、お前がこの会話を聞いていることを願うぞ」

「なにぶつぶつ言ってるのよ」

「ユリア、君は……つまり、望んで殺してきたわけじゃないんだな? 今日のことも、自分の意志ではなかったわけだ。君は服従を強いられていたんだ」

「……だったら、なによ」

「……よかった」

「……は?」


 ヴェルディが一人納得するのを見てユリアリスは呆気にとられた。


「それなら君は悪人じゃない。罪がゼロにはならないだろうが……私たち執行人が殺すべき悪人じゃない。だから私は君を殺さない。……殺さずに済む」

「なにを、言って」

「それに君はまだまだ多くの情報を知っているはずだ。〈ラ・コトン〉に関する情報を。だから君の身柄は拘束させてもらう」

「……ふざけな、いでよ。なに勝手なこと言ってるのよッ!」


 ユリアリスが吠え、ヴェルディの腕が吹き飛んだ。


「私はあなたに復讐したくてここに来た! そしてここであなたに殺されることで、あなたに消えないトラウマを植えつけられる! そのために、今日まで、私はッ……! それともなに、薬物中毒みたいに自我が壊れた私を鑑賞でもする気なのかしら? すっかり金持ち連中の快楽思考が染みついたみたいねぇ!?」

「ちがうよ」


 体のあちこちを破壊されてもすぐさま再生しながら、ヴェルディはずっとユリアリスの顔を包み込んだまま離さず、その眼差しを受け止めている。


「私は君に生きてほしいんだ。ユリア」


 口づけができそうな距離で、ヴェルディは自分でも驚くほど優しい声音で囁いた。

 その想いこそ、殺意で煮えたぎらせていた心臓の中に詰まっていた本音だった。


「……無理よ、できっこないわ、そんなこと」

「私は諦めない」

「無理よ! ねぇ、私をこれ以上苦しめたいの? あなた、やっぱり私が嫌いなんじゃないの!?」

「違う、違うよユリア。そうじゃないんだ」


 後ろに大きく顔を引きながら、「私はもう、独りきりの朝は嫌なんだ」と告げた。

 そしてヴェルディは、ユリアリスの言葉を遮るように、額を強く打ち付けた。

 石と石がぶつかりあうような鈍い音が大きく響き、ユリアリスの体はぐったりと倒れる。

 ヴェルディの体がそれ以上破壊されることはなかった。

 意識を失ったユリアリスに向けて、最後に一言、ヴェルディは我儘を囁いた。


「君と一緒に朝を迎えたいんだ」


 ずっと恋焦がれていた、一途な想いを。


  ◇


 都市エヴァーグを騒がせた一連の騒動は一旦の幕を閉じた。

 時計塔レミールクリスの荘厳さを傷つけた爪痕は痛々しく、復旧の目途はたっていない。天を貫く真っ赤な巨塔はもちろん、鮮血を全身に纏って飛行する人間や有翼の人間などの目撃情報が相次ぎ、市井の至る所で陰謀論やでたらめな噂話が沸き立った。

 その赤黒い人影こそが埋葬屋で、奴は悪人を懲らしめる義賊などではなく、国に害をもたらす犯罪者だったという言論までもが現れさえもした。

 そういった大きな騒ぎのおかげでウィズダム家にあまり注目が集まらなかったのは不幸中の幸いか。


「今回の件について大統領に報告しなければならなくなった。敵が強大すぎたとはいえ、少しはしゃぎすぎたな。ヴェルディ」

「すまない、ディルファイア」

「謝らなくていい。もし敵を退けられなければ、人命にまで被害が及んだはずだ。無論、反省点はある。〈ラ・コトン〉との戦闘は今後も起こるはずだ。対策を練らねばな」


 倒壊した喫茶店はすぐに立て直るわけにはいかないため、ガルガラたちはしばらくウィズダム邸で暮らすこととなった。ウルスカーナは許嫁が家族ごと姿を消したため学友たちから質問攻めに合い、レイニアは失ったバイクなど装備の回復で忙しい。ハンナだけはいつも通りで、庭を眺めながら煙草を吸う時間が増えたくらいか。


「それで、彼女の様子はどうだ?」

「……人形みたいに、なにも喋らない」

「君は彼女をどうしたい?」

「……できることなら、生かしてあげたい。この子は私の友人だ。二年も離れ離れだったが、やっぱり、私の大事な友人なんだ」

「…………」


 アレックスは会社の業務をこなし、イッシュラーナは婦人会やお茶会などの集まりで政治的な闘いを繰り広げていた。ディルファイアは全力で敵の動向を探っているが、目立った情報はない。


「彼女は純粋な悪人ではないにしろ、罪人ではある。しかしいま話し合うべきは精神の崩壊をどう止めるかだ。君が抜き取った彼女の血液を解析中だ。その報告次第といったところだが」

「ここの使用人はみんな優秀なんだろ?」

「どれほど優秀といえど、人間のできることには限りがある」

「だがズインは人間だ。すすんで依媒キャタリスになるわけがない」

「その点については同意する」


 そしてユリアリスは現在――

 ウィズダム邸の地下牢にて、ヴェルディが作った血の牢屋の中に幽閉されている。一時は暴れ出したものの、今は能力を行使する素振りがない。

 ヴェルディはユリアリスの傍にいる。物言わぬ人形のように黙りこくる友人と対面しながら、牢屋の外にいるディルファイアと会話していた。


「ともかく、結果が分かり次第伝えよう」

「頼む」


 ディルファイアが協力してくれるのは、ユリアリスの頭脳に眠る敵組織の情報を聞き出すためだ。必要な情報を知り尽くせば、銃声が最期を告げにやってくる。


「ユリア。私は諦めないからな」


 不気味な沈黙に立ち向かうように、ヴェルディは断言した。


「私は君を、死なせはしない」


 或いは、自分を奮い立たせるように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る