第28夜
ヴェルディが空で踊るようになる直前――
レイニアは屋敷に戻るなり意識を失うように眠った。ウルスカーナは傷の手当を受けており、イッシュラーナが付き添っている。時計塔周辺は引き続きアレックスが封鎖していた。人質の救助は完了したが、犯人逮捕には至っていない。心臓を鷲掴みにしていた緊張感が去った父親に迫った次の課題は、包囲続行の言い訳をどうするかであった。
天啓のように、ヴェルディが一方的な指示をキオに送る。キオがどれほど聞き返しても戦闘中のヴェルディが応答することはない。キオは仕方なく、内容をそのままアレックスに伝えた。
『どういう意味だい?』
アレックスが呑気に聞き返した。
そして『赤』が、天を貫き、切り裂いた。天啓は破滅の予言だった。
頭蓋骨の中で地鳴りが生じたように痛みがわなないた。キオは本能的に『耳』を閉ざす。屋敷全体を異質な慟哭が揺さぶった。凶暴な獣の叫び声を何重にも重ね合わせたかのような轟き。その波動で人間を吹き飛ばせる質量の渦。慌てて能力を再開したキオが拾ったのは、さざ波のような困惑であった。
『な、なあ、あれ、なんだ……?』『でっけぇ……』『これ、どこから……え、中から……?』『アレックス様、あれは……』『宇宙人でもいんのかよ!?』『……ヴェルディなのか……?』
「旦那、おい旦那! どうした! なにがあった!」
「……キオ、外を見なさい」
「えぇ?」
呆然と呟くディルファイアの声につられてキオは窓の向こうを見た。
それは人によって別々の姿に映るだろう。時間の止まった噴火。深海の水だけを使った噴水。怒った神が用意した磔。終わりの始まり。しかしキオたちにとって、その血塗られた剣は見慣れたものだった。
遅れてヴェルディの意図を察する。
「旦那! そこから離れてくれ! いますぐに!」
『もうとっくにやってるよ!』
ウィズダム邸からは時計塔を視認することはできない。
しかしキオには見えない場所での出来事が手に取るようにわかる。
崩壊の音がボロボロと届いてくる。
『まったく困ったものだよ!』と、アレックスは愚痴をこぼした。
『埃が落ちるならもう少し早く言ってほしいよ! 後で説教だ!』
結論から言えば、人的損害はなかった。
時計塔には見事な崖が完成していた。つい先ほどまでの荘厳さはなく、痛々しい瓦礫の山が道路に積みあがっている。周囲の建物にもその余波は届き、逃げ惑う声が交錯していた。一帯を一変させた真っ赤な一閃はものの数秒で消えた。たった数秒で、このありさまだ。
もう大丈夫だろうか。誰かの呟きを否定するように、崩壊した時計塔に何本もの蝋燭が立った。まだ厄災のバースデーパーティーは終わっていない。
キオは聞いていた。はるか上空で交わる、二人の
「敵との戦闘の余波で、この威力か……」
キオの報告を聴き終えたディルファイアは感心するように、慄くように言った。
「あの膨大な質量を受けてもなお敵は生きている。そして今なお戦闘は続いている。ヴェルディがこれほどの力を発揮しても、なお……」
「バースデーケーキに刺した蝋燭が燃え上がってるみたいな光景だって言ってんぜ。ああ、ほんとだ。なんだよあれ。あいつ、あんな芸当隠してやがったのか」
「……今回ばかりは隠し通すのも不可能か」
「なんだ、俺たちが実は超絶テクニカルなパワーを持ってるって公表すんのか?」
「そんなことをしたら私たちは一生警察と逃走劇を続ける羽目になりますよ」とハンナが冷静に指摘する。
けれどもハンナは理解している。茶化すようなキオの振る舞いは、少しでも自分を理性的にさせるための薬だ。緊張感を抱けば抱くほどに視野は狭まる。狭まれば狭まるほどに能力の効果も衰える。
ハンナ自身もまだ骨身が冷えるような感覚を残していた。
ヴェルディの本領。その欠片を覗いてしまったがために。
「アレが我々の身内の仕業ではないという風に世論を誘導する。この際だ、陰謀論でもなんでも活用しよう。『立てこもり犯から娘を救うために道路を封鎖したら偶然にも摩訶不思議な塔が時計塔から生えた』。……頭が痛くなってくるな」
「でもよ、ありゃあ……どんだけ頭のいい教授様でも説明のしようがねえだろうな」
「事実は小説よりも奇なりなんて言葉があるけど……ほんと、そうなのかもね」
「事情を知らない人なら神か悪魔が降臨したと捉えるでしょうね」
「
「でもよ、当の本人たちはそんなの全然気にしてねえぜ」
「ヴェルディも必死なんでしょう? なりふり構っていられなくて」
「ああいや、そうじゃねえんだハンナ」
謝罪するように手をひらひらさせるキオは首を傾げながら弁明した。
遍く音を拾いきる耳で事実を知ってもなお理解できないと言わんばかりに。
「なんつーか……奴さん、すげぇ楽しそうに喋ってんだよなぁ……」
◇
バンジージャンプがおままごとに思えてしまう高高度にて、彼女たちは命のやり取りをしている。落下死という可能性を一切除外した上で。
「ほらほら、捕まえてみてよヴェル! そんな遠回りしてたら一生追い付かないわよ!」
「ちっ……!」
時計塔の真上で炎が燃え上がっている。
天へ伸びる四本の柱。それらの先端を分裂し、捻じ曲げ、交差させる。
夜空には赤い網目のジャングルが完成した。ユリアリスを捕まえるわけではない。鎖の足場を増やし、可動範囲を増やすためだ。
それでもなお、届かない。
鎖を伸ばす。体を引っ張らせる。距離を詰める。
鎖を伸ばした時点で行き先がユリアリスに知られてしまうため、容易に距離を稼がれてしまう。両の手で鎖を操っても、なお。
「がら空きね」
そして見えない爆弾が、文字通り音速を伴ってヴェルディを破壊する。
「ぐふっ……!」
腕がもぎれ、足を欠損し、腹に穴が開き、頭が弾け飛ぶ。
「っ……!」
その痛みを飲み込みながら深紅の剣を投げつける。敵の逃げ道を絞るために。
致命傷を食らいながらも復活する女と擦り傷を重ねながら笑う女が空中で踊っている。
「高すぎるのも考え物ね! 呼吸がしづらいわ!」
「なら地上に戻ろうか。地に足をつけるほうが落ち着くだろ!」
「嫌よ! まだ二人きりでいたいもの! あなたの五感すべてを、今だけはッ、独り占めしたいの! 私だけでね!」
鎖で飛ぶ女とステップで闊歩する女が空中で踊っている。
「ちゃんと私を見てよヴェル! 今から殺そうとしている相手を! あなたはこれからもたくさんの人を殺すのでしょうけど、どれだけの死体を積み重ねても、その頂上には常に私がいるってくらい、目に焼き付けて!」
「……私は、ずっと探していた。ずっと助けたかった! だが……手遅れになった以上、お前は悪人の一人にすぎない! お前を殺して、未練を絶つ!」
「えぇそうでしょう、お友達を傷つけられてカンカンに怒ってるんでしょう? でも忘れないでね! それでも私はあなたを愛しているわ! あの暗闇の中で、あなただけが私の縁(よすが)だった!」
「だったらなんで私たちは殺し合わないといけないんだぁッ!」
「覚えていてほしいのよ! 火傷みたいに、ヒリヒリ痛んで、無視できないように!」
音と血がぶつかり合い、壊しあい、傷つけあう。
ヴェルディは方向転換し、ユリアリスがいない真上へと飛ぶ。ユリアリスに背を向けて、遁走するように。その声から耳を塞ぐように。
「忘れないでね! 私はあなたのこと、嫌いになったことなんて一度もないのよ!」
その言葉を記憶の中にいる綺麗なユリアリスが口にしてくれたら。
そう思うたびに、ヴェルディの頭の裏で黒い靄が霞み、濃くなり、拡散する。
目の前で歪な愛情を吐き出しているのは、狂った光で瞳を爛爛とさせるイカレ女。
殺すべき敵。
「――黙れッ!」
鮮血のジャングルの頂上まで飛んだヴェルディは、その歪な世界を構成する枝葉のほとんどを吸収し、一つの形へと収束させる。
一匹の蛇――スィル=クリムの国土を丸呑みできてしまいそうなほどの巨大な蛇が、奈落の底のような夜空から大きく深い口をあんぐりと開けてユリアリスへと襲い掛かる。
一瞬にしてユリアリスの姿は巨体の影に隠れてしまった。
蛇の肉体がボコボコと湧き立ち、破裂してしまうまでの僅かな時間だけ。
「ほらほら、そんなんじゃまだ殺せないわよ、私はぁ!」
落下するヴェルディに向かって一気に空を駆け上がるユリアリス。
感動の再会を果たした恋人を抱きしめるように距離を詰め、思い切り掌を振り上げ、すれ違いざまに至近距離から音の弾丸をお見舞いした。
四肢が砕け、肉片が散り散りになる。
それでも、どこかしらの部位を起点として埋葬屋の肉体はすぐに蘇生した。
「あはっ! あなたってほんと、殺し甲斐があるわねぇ!」
「…………」
殺意に満ち満ちていたヴェルディの心の隙間に、逡巡が生まれる。
愛しているのなら、どうして私の仲間を傷つけた。どうして私を攻撃する。どうして――仲直りがしたいと言ってくれない?
背中で冷たい風を受けながら、ぼんやりとしている意識に発破をかける。
どんな事情があれど、奴は自分の意志で仲間を傷つけた。レイニアを殺そうとしていた。怯えるウルスカーナを手にかけようとしていた。それを許すわけにはいかない。
「……代償を払わせてやる」
蛇を生み出すために足場のほとんどを吸収してしまったが、幹は健在であり、天空にまで伸びている。
ヴェルディは両手から鎖を伸ばして、左右の塔へと繋げると、すぐには飛ばず、重力に従ってその身を落とす。
そして、スリングショットの要領で勢いをつけてからその身を弾丸として撃ち放った。
「甘いわよ!」
単に鎖で体を引くよりも圧倒的な速度。
しかし無防備であることに変わりはない。
ユリアリスは全力で迎え撃った。
そのすべてが、突然視界を遮った真っ赤な壁に阻まれる。
「なっ……!?」
壁に隠れてどうするつもりかしら――
「まあ……壊しちゃえばいいわよねぇ!」
渾身の一撃を拳に乗せ、景色のお邪魔虫を叩き壊した。
その向こう側にいるであろうヴェルディもろとも破壊するつもりで。
しかし、粉々になった壁の向こう側は、星のように灯りが連なる街が広がるばかり。
「どこに――」
そしてユリアリスは気づく。
スリングショットの要領でヴェルディが己を飛ばした時に使った土台。二本の塔はまだその形を残しており、それはどちらも今自分がいる高度よりも上へ伸びていることを。
仰げば、一つの人影が。
「甘かったのは私みたいね!」
瞬時に迎撃と移動へ移ろうとしたユリアリス。
その判断は正しい。ヴェルディは懲りずに近接戦を試みているのだろう。長い戦闘で疲弊しつつも、人生で最高の時間を過ごして昂る意識は最適なルートを算出していた。
算出してしまったのだ。
周囲に聳える塔がどろどろに溶け、ユリアリスの四肢を固く拘束する鎖になるとは思いもしなかった。
「かかったな、ユリアリスッ!」
「甘くみないで、こんなのすぐ壊して――」
ヴェルディが攻撃を仕掛れば障壁を即座に形成していただろう。そうであったならば、こんな単純な拘束に引っかかることもなかった。
慌てて鎖を壊していくも、刻一刻とヴェルディの姿は大きくなり、もはや回避はできない距離まで肉薄された。そしてヴェルディという
「……もう少し遊びたかったけど、ダメみたいね」
意志とも本能とも異なる、植えつけられた防衛本能は迫りくる脅威を排除しようと試みる。
頭を砕き、腕を壊し、肩を穿ち、胸を弾いて足を粉にする。
そんなもの、バケツの中の一滴と変わらない。
死の命運から逃れられないと分かると、堪えていたありとあらゆる願望が喉を締め付け、眼球を焼いた。これまでの演技をかなぐり捨てた本当の、心の底からの本音を。
「――――」
星々が煌めく夜空にて。
赤い死の刃が、時計塔へ落下する一人の女を突き刺す。
そして二つの人影が、半壊した指定文化財へと墜落した。
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