第20夜
レイニアが時計塔へ急行するその時――
ウルスカーナの足元には空の薬莢が。
テムの足元には速度を失った弾丸が。
奇妙な沈黙の中、虚しく転がっていた。
「え、エ、エイ、エイデルッ!? きみ、なに、して――」
「……ちっ……」
エイデルは確かにテムを撃った。引き金は正常に作動した。
問題があるとすれば、テムの目の前に見えない壁でもあるかのように、弾丸が空中で跳ね返ったことだけだ。
直後、銃を握る手に強い衝撃が走り、ウルスカーナは痛みに呻いた。
「残念。私がいる限りそういうのは全部オモチャ同然よ。諦めなさい」
光が差し込まない影に佇む
「……そいつを守る価値なんてないと思うけど」
「それを決めるのは私よ。とにかく無駄な抵抗はしないでちょうだい。これでも精一杯優しくしているのよ。それ以上あなたがその子を傷つけようとするなら、私はあなたを殺さないといけなくなるの」
「…………」
妙な言い回しが耳朶に引っかかる。ウルスカーナの鼻孔は今になって硝煙の匂いを認めた。遅れて、自分が初めて人を殺そうとしたのだということに気づく。
足元から腰にかけて血液が消滅していくようだ。鳩尾の辺りが鉛でも飲んだかのように重く、首より上は軽い。沸騰していた感情が冷めて、理性という固形物が顔を出す。
「こ、ここ、このッ、バカ女が~ッ!」
後味の悪い余韻で動けないウルスカーナをテムが突き飛ばした。
勧告という名の釘が少女の手足を突き刺したように固まっている。
「せっかく人が親切心で助けてあげようと思ったのに、なんだ! 恩を仇で返すだなんてひどい奴だ! 庶民の菌が移ったのか!」
「……はっ。あんたはあたしの誇りを穢したのよ。当然のことを言ってやったまでよ!」
「だ、だから、言っただろ! 君の家族は、君が知らないところで悪いことを――」
「そんなの全部知ってるわよ!」
テムを見上げたまま、ウルスカーナは啖呵を切るように喉を震わせた。
「あたしの家は執行人という使命を帯びている! えぇ、知っているわ!
「……」
テムは黙っていた。目の前で突然人が車に轢かれるのを見て呆然とするように。
「…………」
思考を停止したように口を閉じる。ぱちくりと瞬きをする。
「……………………」
無感情で固まった眼差しでウルスカーナを睥睨したまま――
ガシッ
おもむろに持ち上げた右足で愛らしい顔面を踏みつけて――
ガシッ ガシッ ガシッ ガシッガシッ
踏みつけて ガシッ 踏みつけて 踏みつけて ガシッ
踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて踏みつけて
「ああああああああああああああああッッ!」
両目から滝のような涙を流し、慟哭に似た悲鳴で室内を満たしながら、何度も何度も、許嫁の顔を、何度も何度も、きめ細やかなドレスを、この世で唯一無二の大事な人だと慈しんでいた少女を踏んで踏んで踏みつけた。
「ふざけるなふざけるなふざけるなあぁぁぁ! 僕は由緒正しいデグァリ家の跡継ぎだ! 騙されたぁ!? そんなわけないだろぉッ! 僕は正しい、僕はなにも間違っちゃいない! 君を、君のことだけは助けてやろうと思ったのに、なんだ、えぇ!? 僕の家が終わるだとぉ! ふざけるなぁぁぁぁ!」
髪が汚れ、鼻が折れ、ドレスには土と血の余計な装飾が増えていく。
一つの交友関係――勝手に作られ、冷めきっていたとはいえ――繋がりという糸がぶちりと歪な音を立てながら千切れる瞬間を、ユリアリスは黙って眺めていた。
ため息をつきながら。
「 殺せ 」
ぜーはーと息を荒げるテムが言った。
それは命令だった。ユリアリスに向けての。
「ユリアリス、殺せ。この女を殺せ。こいつは次の世界に要らない」
怨嗟。数えきれない愛情を紡いでいった口から出てきた手向けの言葉は冷徹だった。
ウルスカーナは痛みに悶えながら床に倒れ伏している。もっとも、その柔らかな肌の内側を爆破させることは造作もないだろう。ユリアリスにとって。
それはなんの手間ですらない。
「悪いけどそれはできないわ。ごめんなさいね」
しかし返ってきたのはさらりとした拒否。赤いドレスが翻るような返答。
「……は?」
「聞こえなかった? お断りよ。その子は殺さないわ」
「……僕の命令をきけ」
「いつから私があなたの部下になったのかしら? それとも……試してみる? どちらが上なのか?」
「ぼ、僕はデグァリ家の跡継ぎで――」
「パパとママから与えられたその肩書きは、私の力を防げるのかしら?」
微笑みを棄てたユリアリスの深紅の眼差しがテムを冷たく射抜く。
それだけでテムは戦意を喪失したようにへたり込んだ。
「その子は寄せ餌よ。ヴェルをここに招くためのね。その子が生きている限り、あの子は取り戻しにやってくる……。ああ、そういえばキオって名前だったかしら? 聞こえているんでしょう? ヴェルに伝えてちょうだい。可愛いお嬢様と一緒に私が待ってるって」
まるで雲に話しかけるかのように空を仰ぎながら、ユリアリスが言った。
「……裏切るのか、僕を……」
「裏切るって、忠誠を誓った相手に逆らうことよ。私にそんなものあったと思う?」
「……ふざけるな、どいつもッ、こいつもッ、僕を馬鹿にしやがってぇ……!」
アンデッドのように頭をふらつかせながら立ち上がるテム。
しかし彼はユリアリスに殴りかかるほど馬鹿ではない。
むしろ反対側――ウルスカーナの手から零れ落ちた、漆黒の塊がある方へ。
「余計なことをしなければお家に帰してあげるのに」
「黙れぇ! 僕の邪魔をするなぁ!」
世界は自分のために回っている。
そんな思い込みが崩壊した少年の理性は熱した鉄のフライパンのように焦げていた。
ユリアリスの視線を無視して、一歩ずつ拳銃との距離を詰める。
「…………」
ウルスカーナは、その光景を黙って見ていた。テムに拳銃を突きつけた時の勇ましさはもはやない。火傷のようにじんじんと骨に焼き付く痛みが恐怖を生んでいた。
「あなたのことは私が守ってあげるわ。感謝してもいいのよ? ……ああ、でも敵対者に守られるって屈辱かしら。ねえ、いまどんな気分?」
「……黙りなさいよ」
「名誉ある家に生まれた人でありながらなにもできず、守られることだけに甘えてきた自分が恥ずかしくない?」
「黙りなさいって言ってるでしょうッ!」
癇癪を起こした子供のような叫び声が聞こえていないようにテムは歩き続けていた。
「大声をあげても、私が黙っても、何も変わらないわよ?」
「さっきからなんなのよあなたは!」
「別に。こんなプライドだけのお嬢様にヴェルを独り占めされていたって思うと腹が立つだけよ」
「っ……」
これまでずっと湛えていた微笑。それが作り物に見えてしまうほどに荒々しい炎が瞳に宿っているようだった。淡々と、けれども一言一言に明確な殺意が込められている。
数歩距離を詰めてしゃがみこんだユリアリスの視線から、ウルスカーナは不思議と抜け出さなかった。
「泣いたってなにかが変わるわけじゃない。現状を打破したいというならね、行動するしかないのよ。言葉をどれほど取り繕ったって無意味。あなたを見ているとほんとうにイライラするわ。あなたに付き合わされているあの子が可哀想になるくらいにね」
ついにテムが拳銃を拾い上げた。ウルスカーナはもはや少年の行動など眼中になく、節々を蝕んでいた痛みは氷で冷やしたように薄れていた。
「でも安心しなさい。あなたには利用価値がある。だからあの男からは守ってあげるわ。……よかったわね、あなたはその身に流れる血のおかげで色んな人に愛されて」
「……なんのつもり?」
「お嬢様には庶民の皮肉も通じないのかしら?」
「ちがうわ。あなた――」
「おいッ! なにごちゃごちゃ喋ってるんだ!」
生まれてからずっと腹の探り合いをする世界で生きてきたウルスカーナは、ふと燃え盛る紅蓮の中に別種の感情を見出した気がした。
まるで檻の中から快晴の空を見上げる鳥のような――
「どけ、ユリアリス! 邪魔だ!」
「撃ちたければどうぞ。撃てば撃つだけあなたの威勢も減るでしょうけれど」
「ッ~~~~!」
地団太を踏むテム。その足音を鳴らす床の下が、微かに震える。
その正体をウルスカーナはよく知っている。彼女は愛されているから。
「……テム、今のうちに銃を下ろしておいた方がいいわ」
「はっ! その女が守ってくれてるからって調子に乗るなよ!」
「いいえ、違うわ。あたしは最初からこの人のことを当てになんかしてないもの」
よろよろと立ち上がり、ウルスカーナはユリアリスの傍を離れる。銃口が足取りを追う。
あの子が来る。
「あたしはね――守られることには自信があるの」
今にも崩れ落ちそうな足腰を叱咤して、ウルスカーナは立った。駆け出しの淑女にもプライドがあるのだ。
急に強気な姿勢となった女を黙らせようと、テムが指を引こうとして。
鍵をかけたドアを蹴破る獰猛な破壊音が、すべてを塗り替えた。
「なんだ、えッ、あ――」
馬のいななきのようなモーター音が空間を埋め尽くした。床を踏み抜く勢いでタイヤが滑る。狙ってやったかのように、ブレーキをしないまま、ソレは呆気に取られていた一人の男を全力で轢き、壁へ吹き飛ばした。
その流れを利用してターンしながらバイクの中より大きな筒を引き抜く。バイクの主は間髪入れずに撃ち抜いた。走行音すらも貫く発砲は、あっけなく見えない壁に防がれる。
それは単なる時間稼ぎ。
ユリアリスに向かって一直線に走るバイクは加速し続け――操縦者は迷いなく飛び降りた。
「やだ、野蛮ね」
ユリアリスが指を鳴らすと、バイクは進行方向とは真逆に吹き飛ばされ、一瞬にして鉄屑となった。中からは弾薬やら小銃やらがぼろぼろ零れ落ちるが、どれも粉々である。
「お嬢様ッ!」
十秒あったか。むしろそれよりも長く感じられた、一瞬の強襲。
バイクから飛び降りた歳の変わらぬ少女が、大切な主を抱きかかえて距離を取る。
顔の傷、乱れた髪ドレスの惨状。問答無用で銃を引き抜こうとした腕を、
「お嬢様、お怪我を……! あんのクソアマァ! いますぐぶちのめして――」
「レイニア」
華奢な腕が引き留めた。
「レイニア、あたしは……あたしは弱いわ」
「急になにを、言って」
「弱いのよ。テムを撃とうとしたけどあの女に止められた。それで銃を取られて、なにもできなかった。テムに何回も踏まれた時、痛みで体が固まったの。怖かった。あなたに……散々偉そうなことを言ってきたあたしは……守られることが当たり前なくせに、こういうことに首を突っ込みたがる、大馬鹿なのよ……」
今しがたの強がりが、精一杯。
ウルスカーナは後悔していた。自分にはなにもできない。それなのに、なんでもこなせるような錯覚を今に至るまで信じて疑わなかった。自分一人じゃ、同い年の男の子一人に抵抗することもできなかったのに。
こんなうぬぼれた自分を、誰が好き好んで守ってくれるというのか。
「いいえ、違うっす」
これまでの自分の行動を悔いるように頭を垂れるウルスカーナ。
主人の言葉を、普段とは異なる装いのメイドは一蹴した。力強く。
「お嬢様は強いっすよ。お嬢様があの時あたしのことを救ってくれなかったら、今のあたしはいなかったっす。銃が撃てるあたしよりも、お嬢様の方が何百倍も強いっす!」
馴れ馴れしい敬語を扱う、メイドらしかぬメイド。
彼女の言葉に裏も表もないことを、メイドの主は理解していた。誰よりも。
「なにを吹き込まれたのか知りませんけど、見ていて下さいお嬢様。あなたに救われたこの命で、あなたの強さを証明してみせますから」
人形のような無表情の眼差しに精一杯の献身を湛え、自分の腕を掴む手を優しくほぐし、大筒のような銃器、ショットガンを肩に掛けながら立ち上がる。
ケープの下から得物を引き抜く頃には、一切の穏やかさ、日常の気配が抜け落ちており。
二丁拳銃が、悪人を見据えている。
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