第21夜
レイニアが時計塔に到着した頃――
トラファルガー大公園では、真っ黒な殻から巨人の腕が飛び出した。
「くそっ!」
渾身の足止めが突破されてしまった。連中はこのまま時計塔へ強行するのだろうか。体を巨大化するダヴィエンツは鎖で拘束できなくもないが、翼を持つザルファルクは止めようがない。
しかし予想を裏切るように、二人の
「なぜ俺たちの邪魔をする。お前もこの世界は変わるべきだと思うだろう?」
「魔女なんて得体の知れない奴に頼るのはおかしいに決まっている!」
「ほう? 権力を盾に殺人を犯すお前は正しいと?」
「法で裁くのが難しい悪人を罰するのはそれが一番手っ取り早いからな。まどろっこしい手順を踏んでいる内に罪のない人間がどれだけ犠牲になると思っている」
壊されたドームをすべて剣に分裂させながらヴェルディは応えた。ダヴィエンツは興味がないのか、あくびをしている。
「罪のない人間か、ハッ」とザルファルクは一笑に付しながら空より異を唱える。
「お前はこう考えているのだろう、欲深く、権力を悪用する人間は殺すべきであり、その者たちから害を被った人間は守ってやるべきだと」
「当然だ」
「では聞くが、罪のない人間などいると思うか?」
「……なんだと?」
なぜあの男はいまさらこんな問答をしてくるのか。
しかしヴェルディはザルファルクの問いを無視できずにいた。
「例えばだ、マフィアは一般人を搾取する。その一般人はまったく罪のない善良さを生涯貫くと思うか? そいつは夜な夜な妻子に暴力を振るっているかもしれない。会社の金を横領しているかもしれない。自分よりも立場の低い人間を虐げているかもしれない。そうは思わないのか?」
「それは私とは関係ないことだ。私は、ヒトをヒトとみなさない悪人を許せない! それだけだ!」
ヴェルディの脳裏に沸々と蘇る、実験の数々。ベルトで椅子に縛られ、なにかを投与され、悲鳴を上げて絶命する子供たち。毎日打たれる注射。結果を得られるまで続く指示の山。
「ではこれはどうだ。先日お前たちが襲撃したディロッツァファミリー、あのマフィアは子持ちの親に借金を背負わせ、その肩代わりに息子を構成員に加えていた。つまりお前があの日殺した者の中には、元々は善良なる一般人だった者も混じっていたというわけだ。心が痛まないか?」
「いいや、まったくだ。そんなことで判断を鈍らせると思うか?」
「そうか。ならばお前はユリアリスのことも悪人の一人として殺すんだろうな?」
「……っ」
「どうした? 顔が青いぞ? 貧血か?」
射殺すような顔つきのまま、ザルファルクが捲し立てる。獲物を虎視眈々と狙う肉食獣の如し。
ヴェルディは咄嗟に反論しようとした。しかし言葉に詰まった。
薬によって意思を捻じ曲げ操られている。ズインはそう言っていた。しかし密室での会話はキオには届いていない。ユリアリス本人に確認を取ったわけでもない。仮にそうなのだとしても、その事情をディルファイアがくんでくれるかはわからない。
「迷う必要はないだろうな。あいつは俺たちとともに多くの人間を殺めてきた。お前がこれまで殺してきた連中と変わらない、いやそれ以上にな」
「……黙れ」
「それともなんだ? あの女だけは特別扱いし、情状酌量の余地があると? それはなんとも都合が良すぎないか?」
「黙れッ!」
周囲に浮かべる数百の赤い剣を斉射する。ザルファルクは高速移動で回避し、ダヴィエンツは全身を鎧のように硬くしてすべての攻撃を防ぎきった。
「お前はこれまで殺してきた連中のことをどれほど知っている?」
「そいつらがどれほどの悪人かは事前に聞いている!」
「そうだ、聞いただけ。お前は自分の眼で確認してはいない。そこがお前の甘さだ。お前はユリアリスのことだけは知っている。いや、過去をもとに美化しているんだ。自分でも薄々気づいてるんじゃないか? 殺す殺さないの判断基準が曖昧だったことに」
ザルファルクたちは反撃しなかった。代わりに口が止まらない。
「そうだな、では俺たちはどうだ? お前は俺たちをどれだけ知っている?」
「あの老人と共謀している時点でろくな奴じゃないだろう!」
「近視眼的だな。俺たちがボスに拾われるまでの生活を知れば、お前はきっとその判断を後悔するだろうな。そして思い知る。『生まれた時点で悪人だった者はいない。白紙の心に昏いインクを落とすきっかけがあったにすぎない』と」
「……時間稼ぎもいい加減やめてもらおうか。無駄話がしたければよその国に行け」
「いいや、違う。俺はこう言いたいんだ、『埋葬屋』。俺たちは争う必要などない。魔女を復活させ、人の心にインクが落ちなくなる世界を作るべきだ。魔女がいれば、お前が人を殺しまわる必要もなくなる」
突然の申し出に、ヴェルディはぴたりと動きを止めた。
この男はなにを言っているのだろうか。本当にそんな世界が実現できるのか。そもそも、争う必要がないのは本当か。そういえば、なぜ私はこの男と戦っているのか。
たった数分で回転させすぎた脳みそに最大級の疑念が芽生える。
「…………」
考える。ヴェルディはただ、考えた。
見上げる先、翼をはためかせる男は至極真剣な顔のまま。
不気味な静寂が落ちていた。
ヴェルディの鼓膜が「なに黙ってんだヴェルディ!」と叩かれた。
『おい、まさかあんな連中の話を信じるわけじゃねえよな!?』
激しい戦闘に集中するとキオの声は届かない。
会話だけに集中しているだけであれば、彼の声は割り込むことができるのだ。
先ほど、ズインを前にして判断に窮していた時のように。
「……当たり前だ。宇宙人との会話は疲れてしょうがない」
肩をすくめてから、ヴェルディは腕を掲げた。戦場に散らばった血液の残滓が上昇していく。
「宇宙人か。俺もまだ会ったことはないな」
「鏡を見たことが無いようだな」
考えるまでもないことだったのだ。
こいつらはディルファイアの友人を誑かした。そしてこれからも多くの命を犠牲にして目的を為そうとしている。根幹は、二年前となんら変わっちゃいない。
なによりヴェルディには確かめなければならないことがある。
――『さっきの演説だけどよ、お前らがいる場所にしか拡散されてなかったぜ』
キオの無事が分かった時に聞かされた、奇妙な情報。
音を拡散したのはユリアリスの能力だ。
それは、つまり。
ヴェルディはありったけの血潮をはるか上空にかき集める。
「せっかくだ、宇宙人よりも面白いものをみせてやろう」
ヴェルディの上空には、トラファルガー大公園一帯を覆いつくすほどの円錐ができあがっていた。
◇
「そんな怖い顔をしなくても大丈夫よ。あなたたちをもうどうこうするつもりはないから」
場違いな感動的再会をユリアリスは傍観していた。明確な隙だったにも関わらず、劇場の舞台を眺める観衆のように。
「お嬢様を傷つけておいてなに言ってやがる、てめぇ」
「その傷は、ほら。今あなたが吹き飛ばしたあのお坊ちゃまがやっただけだから」
「……お嬢様」
「……えぇ、本当よ」
「それに銃を持った彼から守ってあげようともしたわ。これでもまだ信じてもらえないの?」
垣間見せた本音は鳴りを潜め、またいつもの微笑を張り付けるユリアリス。
レイニアの後ろから、ウルスカーナは彼女を見つめていた。
「……私を餌にしてヴェルディをここにおびき寄せるつもりとも言っていたわ」
「……餌ぁ……?」
右手でかざす銃が叫びかける。それを制するように、二人の背後で天井が崩落した。
「そっ。てっきりヴェルが来てくれると思ってたのに残念だわ。あの子が来てくれればお嬢さんには帰ってもらって構わなかったけど。もう少しここに残ってもらうわよ」
「……じゃあ、さっきのクソ野郎のつまらねえ演説は」
「えぇ。あなたたちが――というより、ボスたちがいる場所だけに流したわ」
「…………」
即ち、それは裏切りを意味した。誰の目から見ても明らかに。
「そういうことだから銃を下ろしてもらえない?」
ユリアリスは壁に背を預け、空を見上げていた。
主人の帰りを待つ忠犬のように。
しかしレイニアが警戒を解くことはない。
奇妙な沈黙という名前の糸が張っていた。
レイニアがなにもしなければ、ウルスカーナと一緒に逃げられる。
ユリアリスからは確かに殺意も戦意も感じられない。
それでも――レイニアにとって、銃を下ろすという選択肢は安全ではなく逃避を意味しているようだった。
「ユリアリス、なにをしているんですか」
どこからともなく男の声がしたのは、糸が断ち切れる寸前のことだった。
◇
「ああ、オーベック。ちょうどよかった」
「……これはどういう状況ですか? なぜミスターテムが倒れているのです? そこの女二人を制圧しないのはなにか理由があるのですか? 例の演説が終わったら二人を連れてここを離脱する手筈でしょう」
「ああごめんなさいね。ちょっとアクシデントがあったの。私はここでヴェルが来るのを待つわ。組織の敵であるヴェルを倒すために」
「……あなた、なにを」
「それと、さっきのテムの演説はどこにも流してないわ。あなたたちがいる公園にしか届けていない――だから、仲良しの新聞社がどれだけ頑張って新聞を配っても意味ないわよ」
「なにを、言って――」
ユリアリスは透明人間と会話しているようだった。少なくともレイニアとウルスカーナの瞳にはそう映った。しかし、遅れてレイニアは気づく。ユリアリスの視線の先――少し離れた床に浮かぶ、不自然な影を。
それと同じものをトラファルガー大公園で見たことを思い出す。
「ああ、そうそう」と、ユリアリスが声を張り上げた。
「多分だけど、あなた今、影の中にボスを取り込んでいるわよね? あなたが取り込めるのは一人だけ。そして取り込まれている人間は外に出してもらわないと声を発することができない。だから、外に出ないとボスは私に命令の変更をできない。でもムリよね? だって……目の前に私たちの敵がいるものねぇ?」
「……なにをべらべらと――」
「私は組織の皆様方に手出しできないけど……ねえオーベック! あなたは影になっているとき無敵ってわけじゃないのでしょう? 例えば、影に石を投げたり、銃弾をねじ込んだりしたらどんな結果になるのかしら!」
「っ!?」
悪戯成功。
そう言わんばかりに赤い瞳を細めるユリアリスの鼓膜を銃声が殴った。
銃弾はユリアリスの視線の先、不自然な影が浮かぶ床を穿った。
「ぐ、ぅぅぉ……! お、覚えておけユリアリス! 裏切り者には相応の罰が待ち受けているぞ!」
「えぇ、楽しみにしてるわ」
愉快げな返事とともに、オーベックと呼ばれた男の気配は途絶えた。
「……最期にあなたの素顔が聞けてよかったわ」
ぽつりと呟かれた言葉は誰に向けた者でもなかった。
それは銃声によってかき消されるほどにか細かったから。
「あら、情報提供してあげたのにまだ私を信用してくれないの?」
「……いいや、お前は情報源だ。知ってること全部吐いてもらうぞ。ご丁重におもてなししてやるよ、お屋敷でな」
カンッ、カンッと鉛玉が床を跳ねる。
レイニアは背負った銃器ではなく、あくまで二丁拳銃をユリアリスに向けている。
ウルスカーナは崩落した瓦礫の後ろに身を潜めている。
「ふぅん? いいの? 当たり所が悪いと死んじゃうわよ?」
「安心しろよ、加減してやる。お嬢様にこんだけ傷を負わせた時点でてめぇも同罪だ。死なねえ程度の血で償わせてやるよ」
鮮やかな桃色の髪を陽炎のように揺らめかせながら、一歩、二歩。
「まあでも――うっかり脳天ぶちぬいちまうかもなぁ!」
姿勢を低くし、突進するように駆け出す。導火線は燃え尽きていた。
レイニアが立っていた場所では、見えない火薬が炸裂していた。
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