第11夜

『――てぇ感じだな。マフィアは壊滅。一人も残っちゃいねえ。ただ、ユリアリスがどこに逃げたのかはわかんねえんだ。逃げた途端に音が一切聞こえなくなってな。これもそいつの能力なんかね?』

「こちらの戦力を把握している、と言っていたな。恐らくキオを警戒してのことだろう。ランターニールもそれを知っていたからこそ、密室での戦闘を選択したのかもしれん……」

『他にも依媒キャタリスがいるって言ったが、そいつらは足音を消すような類じゃねえことを祈るぜ。それこそ、音が聞こえなきゃ闇討ちされちまう』

「ガルガラに伝えてくれ。当分は警戒を強めるように」

『了解だ、マスター』


 ヴェルディとレイニアはウィズダム邸に戻っていた。もう夜を過ぎる頃合いで、空の暗闇は薄れつつあり、朝日の訪れを予感させる。風はないが、窓を開けていると背筋を震わせる冷気が入り込んでくる。皆が皆、厚着をしていた。


「にしても、魔女か。どうやら俺たちが相手にしているのはスピリチュアルな連中らしい。なあ親父、昔この国で行われてた魔女狩りってのは本物だったのか?」アレックスは目を細めながら尋ねた。

「俺は学生の頃、『権力者が気に入らない人間を殺すための言い分として利用していた』って習ったはずなんだが」

「アレク、言いたいことはわかる。だが私もその点に関してなんとも言えん。魔女狩りは内乱の要因だった。それによって犠牲になった者も多く知っている。……その誰もが、普通の人間だったはずだ」

「……実際の現場を味わったあんたが言うんなら、いったいどういうことなんだろうな」

「ですがそのユリアリスはこう言ったのですよね? 魔女の死肉に適合することで、人間は依媒キャタリスになると。魔女の死肉とは一種の比喩なのでしょうか」ハンナが言った。

「それは直接敵に聞くしかないね。ともかく、俺たちは家族も使用人も狙われていて、君たちの誰かを……特に、ヴェルディにご執心らしい」


 アレックスが言い終わるや、その場全員の視線がヴェルディに集中する。

 部屋に戻ってからほとんど口を開いていない彼女は、ずっと床を見つめていた。


「ヴェルディ」

「…………」


 ディルファイアに名前を呼ばれて初めて顔を上げる。普段は会話する相手の目線を離さないヴェルディにしては初めてのことだ。


「君が件の友人をずっと探していたことは承知している。私もその情報を探ることを怠ったことはない。そして今日にいたるまでなんの手がかりも得られなかったことは謝罪しよう」

「……いいや、あなたが謝罪する必要はない。むしろ謝るべきは私だ。仕事に失敗したからな」

「……君は、ユリアリスを救うと言ったらしいな。それは本心か?」

「……あぁ」


 ヴェルディの心は雨が降ったぬかるみのようにぐちゃぐちゃだ。

 ディルファイアとの会話一つにすらてこずるように。

 ユリアリスは友人だった。けれども今、敵として立ちはだかっている。

 ユリアリスを救いたい。けれども、悪人であるなら殺さなければならない。

 

「……私を責めるか?」親に叱られる子供のようにヴェルディは訊いた。

「……いいや。責めはしない。君の気持ちも尊重しよう。だが、刃物を向けてくる人間に対話を呼びかけるのは困難極まる。怒りに目を染めている者より、冷静に凶器を手にしているのであれば、なおさらその耳に言葉は届かないだろう」

「ッ! あの子だって、私たちと同じ被害者だぞ! 望んでこんな体になったわけじゃない! 説得すればきっと、きっとわかってくれるはずだッ!」


 ヴェルディがディルファイアに向かって声を荒げたのも、初めてだ。

 なにより、他者を思っての発言をここまで必死にすること自体――

 アレックスを含め、誰もがその光景を傍観していた。

 ある種の警戒心を滲ませたまま。


「……人間の感情というのはわからないものだ、ヴェルディ。旧友たちが私を、国を、裏切ったように」

「…………」

「……かつての内乱で、私たち国民軍が最も多くの死傷者を出したのは、どんな時だったと思う?」


 ディルファイアは答えを待たず、理由を明らかにした。


「一度降伏の意志を示した敵兵、或いは貴族による反撃だ。嘘を信じ警戒を緩めた者から死んでいった。敵の言葉を素直に受け入れた者が不幸な目に遭ったのだ」

「あの子は、そんな……」

「ヴェルディ。私は君を、ガルガラもキオも、ハンナもレイニアも信じている。それはこの二年という歳月をかけて培った信用があるからだ。その信用は――冷たい言い方になるが、互いの利益を補ってきたことに由来する。我々は君たちの力を借り、君たちは安寧を得るために私たちの権力を用いる。もしどちらかがそれを反故すれば、今こうして無防備な姿を晒すような真似はできん。ルナを君と会わせることもなかった」


 重々しい言葉はせせらぎのように淀みない。

 波紋は瀑布のように重厚で、聴く者の脊髄に染みる。


「その信用は恐怖による支配や報酬による懐柔では決して得ることはできない。時間をかけた対話を前提としたからこそ、私たちの特殊な関係は今日まで存続してこられた」

「…………」

「私のような無力な人間からすれば、君たちは手放せない拳銃を常時握っているに近い。それは敵の依媒キャタリスも同じだ。しかし君たちと連中の決定的な違いは、信用の有無だ。ゆえに、警戒を向けなければならない」

「…………」


 ヴェルディは黙ったままだった。

 耳を傾けているのではない。

 言葉が出ないから、口を閉じる以外の選択肢がない。


「…………今日はここまでにしておこう。各自、今日知り得た情報は頭に入れておくように。ハンナ、ヴェルディを送ってあげなさい」

「かしこまりました、マスター」


 居心地の悪さが最高潮になった辺りでディルファイアは言った。

 誰もの表情が険しい。部屋を退出して、肩にのしかかっていた重みが消えて気づく。

 これほどの失敗は、初めてだった。


  ◇


「煙草を吸いたければ一人で吸う方がいいだろ」

「そんなつれないことを言わないでください。こんな寒空にメイドを一人にさせるなんて、あなたはいつからそんな非情になったんですか?」

「吐いた煙を嗅がせるそっちの方が凶悪だぞ」

「まぁいいじゃないですか。苦みを味わえば、悩みも多少は薄れるかもしれませんよ」

「……別に、悩みなんて」


 裏道まで送られたヴェルディは、しかしヘビースモーカーから解放されずにいた。

 黄色いスイセンの花が明け方の風に吹かれて頭を揺らす。とても花を見て和める心境じゃない。

 口ごもるヴェルディをよそ眼に、ハンナは慣れた手つきで取り出した煙草を咥えた。

 愛用するジッポーで火をつけるのは様になっているが、メイドらしくはない。

 そしてなぜか裏門の傍には脚付きの灰皿が設置されている。


「ここ、私の休憩スポットなんですよ。それにストックはたくさんありますから、ゆっくり聞きますよ」

「……あんたの肺は真っ黒なんだろうな」


 ヴェルディの嫌味を耳にしても眉一つ動くことはない。クールな横顔は、しかし寒空の下にいるからか小刻みに震えていた。肩の震えにあわせて一つ結びの銀糸も揺れる。


「すみません、風を防ぐ壁みたいなの作ってもらえませんか。流石に寒いです」

「あのなぁ……」


 二人の姿が見えないほど高い、四方を囲む衝立を生成する。庭師が日々手入れをかかさない景観が無機質な赤に埋め尽くされる。


「庭が好きなあんたでも寒さには勝てないか」

「もちろん。煙草じゃお腹が膨れないのと同じです」

「なら煙草じゃなくてマフラーでも持ってくればよかっただろ」

「まあまあ。それで、あなたのご友人はどんな人なんですか?」


 至近距離から、雄黄の輝きが眼鏡越しにヴェルディを見つめる。

 煙草の臭いに目を細めながらも、ヴェルディは懐かしむように語った。


  ◇


 当時、ヴェルディたち六人は二人一組で牢獄に幽閉されていた。

 数少ない実験体だったため、食事はしっかり出された。しかし、研究員たちが彼らを人間として扱うことはなく、時間があれば能力の測定のため、実験を繰り返してばかりだった。場合によっては戦わせた。機械の性能を比較するように。

 ヴェルディは機械的に日々を過ごすうちに精神が摩耗していった。

 けれど、ユリアリスは違った。

 彼女は眠る前のわずかな自由時間にて、毎日歌っていた。


 ――「……なんで歌なんか歌うんだ」

 ――「生きるためよ」

 ――「今だって生きてる……生かされてるだろ」

 ――「いいえ、それじゃ死んでるのと一緒よ。生きがいがない人生なんて死んでるのと一緒よ。私はね、生きてここを出て、歌手になるの。だから歌い続けるわ」


 ヴェルディは最初、それを煩わしく思った。口論したこともある。だが段々と聴き慣れると、それは娯楽のない地獄の中で、唯一の楽しみとなっていった。

 それはもはや生きがいだった。そしてそれは唐突に奪われた。


 ――「いや、離してよ!」

 ――「ユリアッ! おい、なにをするんだ! その子をどこに連れて行く気だ!」

 ――「ヴェル! ヴェルッ!」

 ――「ユリア、待ってろ! 私が助けるから――」


 いつもとは違う時間帯に、いつもとは様子の違う研究員が現れ、有無を言わさずにユリアリスの手を取った、あの瞬間をヴェルディは覚えている。流れていく光景をただ見ていることしかできなかった自分の情けなさを覚えている。一度だって泣いたことのなかったユリアリスの悲痛な顔を、覚えている。


 忘れることができずにいる。


  ◇


「感情表現が上手くて、あんな地獄の中でも活発だった。なのに……今日会ったあの子は、別人だったな」

「それは、たしかに情が湧くのも仕方ありませんね」

「だからといって、あの子だけを特別扱いするわけにもいかないだろう。ディルファイアの言い分は間違っていない。私だって理解してるんだ。だけど……今まで殺してきた連中と違って、私はあの子のことを知っている。だから、躊躇った……」

「マスターは大統領の命に従って動いています。つまり私たちはマスターの牙。牙が獲物を喰らうことに疑問を持つ必要はありません。ナイフや拳銃が感情を持たないようにね」


 ハンナは煙を頭上に吹きながら淡々と返事をした。すでに六箱目に突入している。


「ですが、その疑問はあなたに芽生えた変化なのでしょうね。良くも悪くも」

「悪いだろう。現に仕事に失敗した」

「私が小学校の教師だったって話、したことありましたっけ?」

「いや、初耳だ。煙草臭いって苦情が絶えなかったんじゃないか?」

「でしょうね。あなたは私たちとそういう話をする暇もないくらい仕事に没頭していましたから。そんなあなたとこういう話ができるようになれて、私は嬉しいですよ」

「…………」


 ハンナはほとんど表情を変えず、抑揚も淡々としている。ほんとにうれしいのか?

 ヴェルディは問いかけるようにじっとハンナを見つめた。


「当時の私にとって、教師の職責は勉強を教えることでした。ですがレイニアと出会って思い知りました。ただテストで高得点を取らせることには何の意味もないと」


 吐いた煙が消えゆくさまを見上げるハンナは、どこか自嘲気味に言った。

 語尾が間延びするレイニアと違い、ハンナは振る舞いだけはしっかりしている。他のメイド同様の仕事をてきぱきとこなし、依媒キャタリスとしての能力を日常の中で使うことはない。煙草を吹かすことは呼吸と同義である。

 ゆえにヴェルディは新鮮に感じた。この人はこんなに口数が多かったか、と。


「この世界には、何も知らない子供が多すぎる。知らないというのは不幸なことです。知らないということは、知ることで得られる選択肢を喪失したまま、人生を歩むことを強いられるんですから」

「私はあんたの生徒じゃないぞ」

「あなたもレイニアも子供ですよ、私からすればね。ヴェルディ、あなたはやっと疑問を抱いたんです。疑問は別の視点をもたらすことがある。私はあなたを応援しますよ。私にできるのは、できるだけ多くの選択肢が選べるようにしてあげて、どれを選ぶのかは自分次第。屋敷の守りはお任せください。あなたは、あなたの為すべきことに専念すればいい」

「……ディルファイアの意志は変わらないだろう」

「私たちはマスターに救われ、協力しています。対価として報酬ももらっています。なによりこの生活はウィズダム家があってこそ。ですが奴隷ではありません。思考を放棄しなければならない、なんて命令はされていませんよ」

「……アダムとイブに林檎を食べさせた蛇みたいだな」

「ひどいですね。これでも老婆心から申し上げているのに」


 特に傷ついた気配もなく、薄く笑うハンナ。凛とした微笑みは不敵にも見え、それは単に顔立ちが良いだけで、彼女がニコチン中毒メイドであると知っているヴェルディには滑稽に映った。「ところで」と改まって切り出した彼女は、至極まじめにヴェルディを見据えた。


「あなたの昔話を聞いて思い出しましたが――あの頃、私たちは能力を使って連中を懲らしめることができませんでしたよね。散々実験されるうちに上達していっても。それはなぜだったのでしょう?」

「なんでって、それは……」


 思い出そうとするだけで今も怖気がよだつ、けれど忘れることは決して叶わぬ過去。

 泥のように全身に纏わりついて洗い流すことのできない苦汁を断片的に思い出す。

 ヴェルディはなんども牢獄を破壊しようと企んだ。その願望を実現することは一度となかった。体が動かなかったからだ――なぜ、動かなかったのか。


「……毎日打たれていた、あの謎の薬品のせいだろう」

「えぇ。その度に頭が重くなって、思考が濁り……時間の経過によって段々と晴れて、また濁らされた。マスターに救出されてからは、あの感覚は一切なくなりましたよね」


 それは独特で、呪術的で、およそ一般的には使われることのない配合だった。その成分がもたらすのは――服従。


「……まさか、ユリアリスはそれを今も打たれて……?」

「あくまでも可能性の話です。マスターに言っても仮定の域を出ませんから……ヴェルディ。そのご友人ともう一度お話するべきでしょう。私たちは知らないことが多すぎます」

「……なあ、なんでそこまで気にかけてくれるんだ」

「おや、おかしいですか? それとも怪しまれてます?」

「両方だ」


 フィルターのぎりぎりまで吸った煙草を灰皿に押し付けながら、答える。


「言ったでしょう。知らないことは不幸だと。それに……」言葉を探すように一呼吸挟み、

「二年前、なぜユリアリスだけが連れ去られたのか。その理由が気になるだけですよ。ですが私にできるのは、なるべく多くの選択肢を用意してあげることだけです」


  ◇


 知らなければ、選択肢は減る。

 ハンナの言葉を頭の中で反芻しながらヴェルディは帰路についた。

 霧がゆっくりと晴れていき、太陽が顔を覗かせていた。そろそろ街が目を覚ます。靴磨きの少年がいない広場も、ショーケースの中身が空のパン屋も、六時まで鐘を待機させている時計塔レミールリクスも。朝日が眩しい寂蒔に、たった一つの足音だけが木霊する。


「…………」


 ハンナとの会話はたしかにヴェルディの不安を和らげた。

 同時に、新たな疑問も芽生えさせた。

 この二年間――彼女はずっと暗い地獄の中にいた。

 陽の光をのうのうと浴びていた自分とは違って。

 その過程に煮詰められた憎悪は、紛れもない本物なのではないか。

 救いたいというこの願いは独りよがりなのではないか。


 知ることで、かえって現実の非情さを目の当たりにするだけなのではないか。

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