第12夜

 時は遡り――

 現場から離れたユリアリスは空を飛んでいた。宙を跳ねていると表すのがより的確であるが、その原理が分からぬ者の瞳に映る現実はまさに飛行であった。


「…………」


 頭上を通り過ぎる白いローブに気づく者はいない。真夜中で人気がほとんどなく、なにより彼女は無音だった。空は凍てつくように寒く、けれどそれを気にせず金糸が風でたなびく。

 街灯に照らされた大通りは静かだが不気味ではない。影に濡れる屋根や尖塔の方がむしろ、まるで隣国からやってきた自分を串刺しにしようと迎え撃つ幽鬼のよう。


 この国は装飾されている。


 どの建物も高くスリムで、窓ガラスは大きく、なにもついていない屋根はほとんどない。車やバイクの交通が活発で、道行く人は快活だ。裏路地の荒廃を覆い隠すように。

 

 ユリアリスは懐かしさに近い感情を抱きつつそう分析をしていた。

 彼女はこの国の出身ではない。しかし確かに、これは帰郷であった。


  ◇


 路地裏に建つ小さなあばら屋。人の気配がないことを確かめて中に入ったユリアリスは床を開けた。地下に続く隠し通路を。カーペットで隠され、簡単には見分けがつかないよう細工が施されている。

 暗闇の中、ゆっくりと階段を下りてゆく。そして暖色が彼女を出迎えた。


「誰にも見られてないだろうな?」


 出迎えた男、ザルファルクの声は冷たい。ランプの明かりが凍り付きそうなほどに。


「一仕事終えた仲間に労いの言葉もないのかしら?」

「……ふん」

「ちょっとあんた、なんで手ぶらなのよ! あのヴェルディとかいう女の死体くらい持ってきなさいよ!」

「負けたのが悔しいなら自分で討てばいいじゃない、ランターニール」

「はっ、別に悔しいわけじゃないわよ! ただ次の作戦が楽になるんだからそうした方がいいに決まってるでしょ!」


 窓のない空間に甲高い声が響いた。キンキン響く声音で表情が揺らいだのはユリアリスだけではない。

 スコットの秘書を演じていた時のスーツ姿と打って変わって、ランターニールの装いは真っ白のゴシックドレスだ。赤毛の髪は丁寧な編み込みがなされている。


「まぁまぁ、その辺にしておきましょう。本命は来週。私たちはその時に確実な成功を収めればいいのです」


 諭すように剣呑な空気に会社員風の男が割って入る。名をオーベック。

 手足が長く、細く、スーツを纏う姿は風に揺れる葦のよう。我儘なお姫様を宥める執事のように、オーベックは眼鏡の位置を直しながら嘆息をついた。

 そんな居心地の悪い空間で、一人の少年は食事に夢中になっていた。


「ダヴィエンツ、あまり食べ過ぎないでくださいね。あなた一人の食費は日を追うごとに増しているのですから」

「んぐ、んぐっ……だってよ、ここの飯うめーんだもん。しょうがねーだろ」


 会話に一切参加せず、骨付き肉を手放さない少年の名はダヴィエンツ。


「アタシは嫌いよ、こんなとこ。空気は汚いし、人も建物もどれも鬱陶しいし」

「証拠はすべて消したか?」とザルファルクが訊いた。

「計画遂行のためにもわずかな失敗すら許されないからな」

「もちろん。誰も生き残っていないわ。といっても、ほとんどはあの二人が処分してくれたけど」

「なら、いい。マフィアなんて生き物は家畜と同じだ。目の前の損得で物事を判断し、何事も暴力で解決できると信じている。ああいう連中は使い捨てるに限る」


 地下の空間は窓が一切ないことを除けば素朴な民家をまとめたような様相だ。広いテーブル、大きなソファ、整列する燭台――しかし、楽しいお喋りに興じる者はいない。

 石像のように固まった空気に、その時一人の男の声が弾んだ。


「ご安心下さい、ミスター。敵の能力は元々把握しています」と、ユリアリスが返事をする。

「特にあのメイドさんは銃を使わないと戦えないようですから。なおさら私たちの敵ではありませんよ」

「油断するな。敵も我々と同じ依媒キャタリスなんだぞ」

「わかっているわ。でも私たちはボスのおかげで効率的に能力の強化をしてきたもの。力押しなら負けないでしょ?」


 ザルファルクがなおも反論しようとしたところで、男がまた質問した。


「……えぇ、ボスはまだ別のアジトにいます。ですが当日は合流しますよ。オーベックの能力はあなたもご存じでしょう?」

「ねぇあんた。もしかしてアタシたちを疑ってるつもり?」


 男は目の前の女から明らかな侮蔑を感じ取り、声を荒げた……荒げようとした。

 男の上半身に絡みついた水は鋭利な刃となり、喉笛を押さえつけたからだ。


「アタシらの方こそ、あんたのこと完全には信用してないんだからね?」


 ランターニールの低い声が男の眼前で囁かれる。

「やめろ」と、低く唸るようなザルファルクの一声で、拘束は霧散した。

 変形していた彼女の腕は元に戻っていた。ごく普通の人間と遜色ない姿へ。

 男は口を閉じることも忘れて尻もちをついていた。


「ミスター、申し訳ありません。確かに我々の間にはまだ確固たる友情は結ばれていないかもしれません。ですがご安心ください。気持ちの行き違いはあれど、我らは同志。魔女の統治する時代を共に迎える仲間であることは変わりありません。あなたが物的支援をしてくださったのですから、我々は必ずや成果を献上してみせましょう」


 やや大げさな身振り手振りを交えながらオーベックが彼に近づき背中を支えて起こした。

 立ち上がってなお、男の膝の震えは収まらない。


「これまで多くの同志が犠牲になりました。故に我々はかのウィズダム家の悪行を世間に知らしめなければならない! 計画は成功します。そのための準備は万全ですから、あなたはノアの箱舟に乗った気持ちでいてください」

「ノアの箱舟ってなんだ?」

「とても頑丈な船って意味よ」

「へぇ。ならそりゃ俺のことだな。俺すっげぇ頑丈だしよ。オーベックはひ弱だけど」

「こらダヴィエンツ」


 決め台詞は残念な結果になったものの、オーベックの饒舌っぷりによって軋轢はほとんど取り除かれていた。

 風が吹いて、塵がどこか遠くに消えるように。


「オーベックの言う通りです、ミスター」


 ザルファルクの重々しい声が響く。

 オーベックの演説とは真逆で、短くも、芯の通った声は、聞く者の心の底へ沈み、冷え固まったマグマのようにのしかかる。


「我々はこの世の不条理を正さなければならない。我ら〈ラ・コトン〉の悲願、魔女の再誕を契機に、世界は一変する」


 その眼差しは地獄の底に蔓延る泥のように曇っていながら、神様を信じる純真な少年のように真っすぐだった。


  ◇


「ユリアリス、これを」

「……えぇ。ありがとう」


 会合は終わった。オーベックが男を送り届けに出かけると、ザルファルクは一本の注射器を手渡した。容器の中の液体がランプの光を禍々しく反射している。


「ふんっ。自らを縛る薬をもらって礼を言うなんて、つくづくお前は壊れている」

「かもしれないわね。でもこれがないと私は本当に壊れてしまうもの。それに、今回の作戦を起用してもらえる程度には信用されてるのでしょう? これからも為すべきことを為すだけよ」

「……お前は余計なことをする必要はない。ただ、ガキ共の子守りをすればいい」


 吐き捨てるようにザルファルクは言った。

 ユリアリスは、受け取った薬品をまじまじと眺め……それをドレスに仕舞った。


「……安心して。私は余計なことはしないわ。あなたたちにとっての敵を排除するだけだもの」


 ユリアリスは、ヴェルディに向けていたのと同じ温度で笑っている。

 笑って、嗤って、微笑って――

 壊れたラジオのように、ずっと同じ微笑を湛えている。

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