第4夜
歌が聞こえる。
舞踏会の光を背にする気品と、日差しが差し込む森に似た柔らかさを併せ持った声。その歌声を失って二年が経った。あの日を境に、ヴェルディの時間は凍ったまま。
強く強く焼き付いて、熱は痛みとなって、腫れあがって、心の凍傷になった。
――下手? 酷いわね。友達からは好評だったのよ。
地獄の中、苦しみと辛さと苛立ちと無気力感で自我が崩壊しなかったのは、彼女のおかげ。
――なら、ここを抜け出したらもっといい場所で聞かせてあげるわ。
かつてのヴェルディは絶望していた。息苦しさに満ちた牢屋の中で。
同じ暗闇にありながら、しかし彼女は星のように輝き、決して色褪せなかった。
――だから……今度は私を助けてね。ヴェル。
もちろんだ、ユリアリス。絶対、助けるから。だから。
想いは声にならず、泡となって消える。
そういう夢だと自覚してなお、遠ざかる友人の顔に手を伸ばしたい焦燥感がぶわりと視界を焼いてゆく。ぢくぢくと、浮遊感が消えてゆく。
「……………………。……ユリア」
虚空に手を伸ばしたまま目を覚ます。
ヴェルディは毎晩同じ夢を見る。何度も。何度も何度も。二年前から、何度も。
そして同じ数だけ、独りぼっちの朝を迎える。
「……ユリアリス……」
◇
〈レヴォルト〉という組織に特殊な手術を施され、能力に目覚めた人間の総称。
その組織はディルファイアの手によって壊滅した。その際、ヴェルディたちたちは無事に保護された。故に、それ以外の
はずだった。
しかし現に、ヴェルディは新たな
その原因を彼女はすでに掴んでいる。
〈ラ・コトン〉。
ここしばらくスィル=クリムで暗躍する謎の組織。先日のスコットの一件で、その組織が〈レヴォルト〉の後継であることが明確となった。
国の脅威となる存在の排除は執行人であるディルファイアにとっての最優先事項だ。彼の仕事を手伝うヴェルディにとってもそれは同じこと。
ただヴェルディには別の理由もある。
ユリアリス。
記憶に焼き付く、離れ離れになった友人。
ヴェルディはユリアリスと同じ部屋で長い長い実験生活を耐え忍んだ。
出会った当初はろくに口も利かず、時に喧嘩さえもした。しかし破裂してしまいそうな精神を支え合えるのは、共に夜を過ごす同室者しかいなかった。当時のヴェルディが廃人にならなかったのはユリアリスの笑顔と歌声があってこそだった。
現在、ユリアリスはヴェルディの傍にいない。
ユリアリスは〈レヴォルト〉が壊滅させられるほんの数日前に別の場所へ移送されてしまったのだ。その移送先こそが〈ラ・コトン〉なのではないかとヴェルディは睨んでいる。
拘束して投げつけた問いに、ランターニールと呼ばれた女は否定を示した。
分かりやすいくらいに嘘だと分かる、否定を。
この仕事を手伝うようになって、ヴェルディは初めて手ごたえを感じている。
もう少しで、彼女に辿り着けそうな予感を。
◇
「次のニュースです。先日死亡が発表されたスコット=アーリン氏の会社資金の横領について――」
世間はアーリンドレスの件でもちきりだ。ラジオが勝手にその情報を流してくる。
ヴェルディは辟易とした思いでフレンチトーストを口に運んでいた。
「馬鹿な親を持つと大変だな。あんな会社の社長にならないといけないなんて」
「ウィズダム製菓の社長も大怪我したらしいぞ。目の前で殺されてショックだってよ」
「身長二メートル超えの大男だったらしいぜ、『埋葬屋』」
「遺体を袋に詰めて窓から飛び降りたって。道理で見つからねえわけだ」
「そのウィズダムの社長が金を支援するからって、息子は社長になったみてえだな」
「はっ。ブルジョワの硬い絆は素晴らしいじゃねえか」
他の席からひっきりなしに聞こえる伝聞、憶測、嘲笑――
その内容に対してヴェルディがなんらかの反応を示すことはない。
――……さすがに身長二メートルの大男っていうのは話を盛りすぎだろ。
実態が不明瞭だった『埋葬屋』に肉付けされた情報が、少々気がかりではあった。ヴェルディとしてはそのような情報を広めるつもりはなかった。アーリンドレス本社から抜け出すには、二人は被害者を演じなければならなかったのだ。
「まっ、服を売る店なんてどこにでもあるんだ。ちょっと長く続く企業がどうなろうと俺達には関係ないことよ。はっはっは」
「…………」
ディルファイアは事件直後に病院にて弾丸を摘出し、現在は屋敷で安静にしている。
ヴェルディはずっと気になっていたことを訊いた。
なぜわざわざ負傷したのかと。スコットに事実を突きつけ、速やかに処理するべきではなかったのかと。
――「優位に立った人間は口が軽くなる。オットーから〈ラ・コトン〉に関する情報を引き出すためだ。ヴェルディ、覚えておきなさい。殺すことは簡単だ。だが殺せば情報も命と共に砕け散る。我々の仕事は国の脅威を根本的に排除することだ。雑草を取り除く時は根っこごと引き抜くだろう?」
――「君に仕事の斡旋を始めてそろそろ二年が経つ。殺しの腕は文句ない。そういった技術を磨く段階だろうな」
――「安心しろ。わからないことは私に聞きなさい。この命がある限り、君に教えられることはすべて教えるつもりだ」
――「忘れるな。人の命の重みとは、どれだけの情報を握っているかだ」
情報。
グルガーに依頼主の名前を明かすよう強要したように。
しかしディルファイアの指す情報は、ヴェルディにとっての情報とは定義も密度も異なっているように感じられた。
学のない自分には彼の考えなど理解できるはずもない。
以前の彼女ならすぐに手放していただろう。
けれども、もう二年が経つ。
〈レヴォルト〉から救われて、仕事を憶えて、二年が経つのだ。
ウィズダム家の情報網にユリアリスの足取りが引っかかることは一度もなかった。
暗がりで燃える焚火がゆっくりと色を強めていくような不安が、ヴェルディの背中を炙っている。
◇
「なんだか浮かない顔だね。味付け薄かった?」
「……いいや。ガルガラ、お前の料理はいつだってこの国で一番だ」
「最高の褒め言葉だね」
フレンチトーストを平らげてしばらくぼーっとしていたヴェルディの耳朶を、ガルガラの柔い声がノックした。
男の中でも特に高身長に分類される背丈。引き締まった細身、青みがかった黒髪と深い緑の眼差しは、森の奥に聳える古木のような印象を与える。注文を捌いて暇ができると、ガルガラはこうして話しかけてくる。落ち着いた声音は嫌いではなかった。
「……ここも開店してそろそろ二年か」
「ん? あぁ、そうだね。あの日から……自分の道を歩き出して、もうそんなに経ったんだね。幸せな時間ってあっという間だよ」
「道、か……」
喫茶店を営む男二人。
ここにはいない、ウィズダム邸に仕えるメイド二人。
そして、殺し屋一人。
「ねえ、ヴェルディ。君は……ちゃんと周りの風景を楽しめているかい?」
「急になんだ?」
「いやね、君は……そうだな、見えない物に注視して、見えている物がぼやけているみたいな。心ここにあらずって感じがするんだ」
「ちゃんと料理は味わってるよ」
「それはどうも。たださ……風が吹いたらどこかに行っちゃいそうな雰囲気が漂うんだよ、君からは」
「……私はどこにもいかないよ。いや……いけないんだ。お前もわかってるだろ」
「…………」
最後の言葉を、ヴェルディは視線をそらし、ぼそりと呟いた。
ガルガラはなにも言わなかった。
「あー、そういえば、明日はデートだよね」
「…………あっ」
「もしかして忘れてた? 駄目じゃないか、お姫様に怒られるよ」
二人を隔てるどんよりとした空気が吹き抜けていく。
これがいつものやり過ごし方であった。
「忘れてない。ちゃんと覚えてるよ」
しかし今回はわざとらしさのない、純粋な憂慮がヴェルディを震撼させていた。
嵐が来るのだ。ヴェルディにとっての。
人間は天気と喧嘩はできない。故にその人は、そのお姫様は、ヴェルディにとっての嵐だった。
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