第3夜
心臓がある部位を根こそぎ穿たれれば人間は息絶える。
常識は、この空間において無意味だった。
ヴェルディはディルファイアを庇うように立ち上がっている。
向こう側が見える綺麗な空洞はすでに塞がっていた。
「なんだ、なんなんだお前はぁ!」
「社長どいて! そいつ普通じゃない!」
スコットの仮初の秘書、ランターニールが動く。目標はヴェルディ。彼女がいる限り、ディルファイアを仕留めることはできないと判断したのだろう。
滑らかにくねる両腕がスーツの中から這い出る様はヒュドラの如く。半透明の腕は水で構成されていた。内部が薄く輝き美麗。先端は蛇の口となり鋭利。
ヴェルディは不動だった。必死の一撃が再び迫っているというのに。
「腕を伸ばす奴が言うな」
二頭の蛇が食らいつこうとしたその時、いくつもの赤い影が宙を横切る。
それはヴェルディが血液で造った長剣だった。一昔前の騎士が握っていたかのような装飾まで復元した剣が液状の腕に突き刺さり、貫き、勢いのまま切断する。
腕を斬られたというのにランターニールは苦悶の色一つ示すことはなく、腕は一瞬で元の姿に戻った。
「厄介ね、血を操る能力って!」
「なぜ知っている?」
「さぁ? なんででしょうね!」
ランターニールの両腕が裂ける。先端が二つに、二つは四つに、四つは八つへ、終わりなき枝分かれを瞬時に遂げる。針地獄の花束が二つ、二人を圧し潰す。
「お前も
花束を包み込めるほどの赤い盾が顕現する。莫大な面積の赤と刺々しい殺意の無色が激突し、衝撃が反響する。残響が消える前にヴェルディは動き、四本の鎖にて敵を拘束した。
「質問に答えろ」と、ヴェルディが盾の後ろから出ながら、
「ユリアリスという名前を知っているか」と訊いた。
「……ユリアリス?」
ランターニールは一瞬だけきょとんとした表情を浮かべた。
それは次の瞬間、歯を剥き出しにした嘲笑へと変化する。
「知らないわ! そんな女!」
否定の言葉と共にランターニールの首はバネ仕掛けのように伸び飛んだ。
腕が伸ばせるなら首もありか。
ヴェルディは心の中で舌打ちしつつ、反射的に長剣を生み出して迫りくる顔を両断した。女の顔はあっけなく断ち切れた。その肩透かしな幕切れの理由は、バケツの水をひっくり返したように水浸しになった床が物語っている。
「……分身か?」
「本体がいるはずだ、探せ、ヴェルディ……っ……」
「あなたを置いていけるはずがないだろう」
油断させて反撃の機を狙っているのか。
ヴェルディは周囲に気を配るが、もう自分に突き刺さる殺意はない。
ヴェルディはおもむろに剣を投げ飛ばし窓を割るや、「逃げた敵の足取りは追えるか?」と空に向かって訊いたが、返事は芳しくなかったらしく、小さく舌打ちした。
「…………」
静寂が充満していた。すべてが終わったと言わんばかりに。
床に突き刺さった血の直剣が霧散する。床に残った傷痕がちぐはぐな模様となって残っていた。落ちたままの銃弾と大きな水たまり。これほどの騒ぎがあっても誰一人として様子を見に来ないところから、スコットがわざわざ呼び出した理由を理解する。
だから二人の仕事は、まだ終わっていない。
◇
「〈レヴォルト〉。非合法な実験によって超越的な能力を持つ人間を作り出していたあの組織を、私は二年前に壊滅させた。悪夢が終わる。そう思っていたよ」
ディルファイアがこの裏家業を任されて三十年以上が経過している。
最も凄惨な事件が何だったかと問えば、彼の脳裏には必ず〈レヴォルト〉での光景を思い出す。味方に死傷者はいなかった。しかし、施設では夥しい犠牲が生まれていた。
その屍の山から
「しかしまだ悪夢は終わっていない。あの外道どもの意志を継いだ組織が存在している。その新興組織の名は〈ラ・コトン〉。そしてあの女も
超常的な能力を身に宿す人間の呼称。強制的な実験で烙印された、不名誉な栄光。
ヴェルディが死から復活したのも能力のおかげ。
「……そこまでお見通しなら、わざわざ俺の誘いに乗る必要なかったじゃねえか。俺がグルガーを利用したことも知ってたか?」
「グルガーはアーリンドレスの従業員らに恐喝を繰り返していた。私たちを誘う口実を作り、会社の敵も消した。褒められた方法ではない。だがこの国ではおかしなことでもない」
「ハッ、俺を責めねえのか?」
「もし私の部下を脅す者がいれば、手足を縛って地下牢に招待するからな。私も君と同じだ、オットー。私は正義感を振りかざすために来たわけではない」
降参したスコットは、メッキが剥がれたかのような口調になっていた。
簡易的な止血を施したディルファイアは座したままスコットを見つめている。自分の足を撃った敵に向ける者とは思えない、柔らかな眼差しで。
「なんだ。執行人なんて呼ばれててもただの人間じゃねえか」と、スコットは嗤った。
『執行人』
初代大統領よりディルファイアに任ぜられた業。国に害を為す悪人を処分することを許された肩書き。製菓会社の相談役の裏の顔は、血に塗れている。
「〈ラ・コトン〉について知っていることを話してくれ」
「お前がぜんぶ喋ってくれたじゃねえか。それに俺は出資しただけだ」
「では魔女とはなんだ?」
ディルファイアの声は重く、訊き方は淡々としている。
ヴェルディはそれでも意外に感じた。言葉の端々から憂いが漂っていたから。
「とんでもねえ力を持った、神様みてえな人らしいぜ。俺も最初は半信半疑だったけどよ……目の前にいるじゃねえか、魔女みてえな奴が」と、ヴェルディを睨みながらスコットは言った。
「なあディル。俺たちはなんのためにあの時戦ったんだ? 自分だけが貧乏から抜け出すためか? マフィアがのさばる国にするためか? 違うよな? 皆で幸せになるためだ。なのになんで利益が傾くんだ? ブルジョワなんて、実態はあんときの貴族共と変わらねえ。スラムは荒れて、孤児院で育った子供は搾取されるのが当然だ。おかしいだろ、そんなの。そんで一番おかしいのは俺だ。俺は、自分がまたあの頃の生活に戻るのが怖くて……おかしいって、声を上げることもできやしねぇ……貴族の屋敷を襲った頃みてえな威勢が、出ねえんだ……」
「……私は……」と言いかけてから、口を噤み、「つまり、魔女がいれば、人間の不幸は消えると?」とディルファイアは訊いた。拳を固く握りながら。
「クラリシアも、シェイドも、ルゥも。皆が同じことを言っていた。君も信じているのか? まさか当時横行していた魔女狩りが本物だったとでも言うのか」
「それは知らねえよ。でもよ、そこの女みたいな奴がいるなら……賭けたくなるだろ。絶対強者が安寧を保証してくれる世界ってやつをよ……」
ぷつりと会話が終わる。
胡坐をかき、床を見つめるように項垂れるスコットは口を閉じた。もう話すことはないと言うように。
「君の家族がこの件と無関係であることは調査済みだ」ディルファイアは自力で立ち上がった。「会社は業績不振を免れないだろうが、立ち直るまで援助すると約束しよう」と、脂汗を滲ませながら、誓った。
「……お前ってほんと、つまんねぇ奴だよなぁ」
スコットは笑いながら呟いた。呟いてから、顔を上げる。憑き物が取れたような、悟ったような、覚悟を決めたような。なにかを託す者の顔だった。
「でもきっと、そういうところが俺は、好きだったんだろうな」
懐からリボルバーを引き抜く。ライフルよりも握り慣れた愛銃だ。
銃を向ける先は常に悪人と決まっている。
無抵抗に見上げる一人の男に向ける右腕は、微かに震えていた。
機械的な処罰がそれを覆い隠す。
指先一つで、今度こそすべてが終わった。
煙がのぼる。
ディルファイアは放心したように、けれどもじっと耐えながら、亡骸を見つめていた。
時間が許すまで。
この場限りの哀悼を。
◇
「ヴェルディ。……彼を、埋葬してやってくれ」
「いいのか?」
「でなければ我々だけが生きているのが不自然になる。遠慮はしなくていい」
「…………」
ヴェルディは言われるまま、物言わぬ亡骸へと触れる。
スコットの額から零れた血液へと――
次の瞬間、スコットの肉体は消滅した。
彼が身に纏っていた衣服は風船が急激に萎んだようにまっ平になった。
これこそ、『埋葬屋』が警察に足取りを掴まれない最大の理由である。
血液を操る能力は、殺しにおける最大の懸念――
死体の隠蔽をいとも容易く成し遂げてしまえたのだった。
「魔女、か……」
「私たちが追っている組織はメルヘンチックな思想をお持ちのようだな」
「御伽噺の魔女にも残忍な性格の持ち主はいる。〈ラ・コトン〉が影に隠れて密かに犯した所業が可愛く見えるほどにな」
ディルファイアはここ最近、〈ラ・コトン〉という組織を追っている。未だに所在は掴めていない。その組織に誑かされた友人を処理するたび、彼の心はゆっくりと削れていった。
しかし今回、初めて敵の
彼は歩み続けなければならない。
「……ヴェルディ。すまないが肩を貸してくれるか」
「最初から強がらなければよかっただろう」
「いや、なに。……ここから帰るには、怪我人であると素直に伝えるべきだろう?」
「……たしかにな」
ディルファイアは悪人だ。
これまで多くの命を殺めてきた。
国のために。
これからも多くの悪人を刈り取っていく。
守るために。
執行人が故に。
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悪人は埋めるに限る~生き別れの友人を探して裏家業に没頭していたらその友人を殺すことになった女の話~ ね。 @nero-hikikomori
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