第10話 狗神達との衝突
人魚神のうち、人間に近い体型をしていればしているほど最初は上手くは泳げないので、ある程度練習を積む必要がある。だが泳ぎのコツを飲み込むスピードは人間よりも早い。
(うらやましいな)
ちなみにみのりは全くと言っていい程泳げない。犬かきのような平泳ぎで5メートルを泳ぐがやっとの状態で、いつもタイムを計る女子生徒の傍らで黙々と練習に励まされていたが、まだ25メートルの壁を突破した事はないのだ。
(プールは嫌。だって泳げないし、バカにされるし……)
泳げないみのりを、いつもクラスメイトのカースト一軍な女子生徒達は冷たい目を持ってバカにしていた。ほんとに練習してるの? とか、どんくさいなどと心無い言葉を彼女にぶつけたのである。
「淵沼さんてどんくさいよね。地味だしキモい」
「ねえ、カメみたい」
カメだって水中を綺麗に泳げるのに私はなんなのよ。と言いたかった。そんな負の感情と記憶がみのりの脳内を支配しているのに気が付いた佑羅は別にそなたは泳げんでもいいのだぞ? とみのりに語る。
「え?」
「ほれ」
なんと佑羅はみのりを抱いて池の中へと飛び込んだ。みのりは驚いて手足をばたつかせるが佑羅から逃れる事は出来ない。
「まずはわしの手を掴むのだ、みのり」
水中で佑羅はゆっくりとみのりから離れていくと、彼女の左手を掴んだ。みのりは彼の言う通りにするとまるで空を飛ぶかのように水中を泳いでいく。
「お、泳げてる……?」
「ああ、バタ足はゆっくりでええ。……うん、その調子だ。よし、手を離すぞ」
佑羅が掴んでいた手を離し、次第にみのりから遠のいていく。
佑羅が遠のいていくにも関わらず、みのりは泳げているままだ。
「……泳げてる」
「そなたが思いつくままに泳ぐと良い。さあ、どのように泳ぐ? 人魚姫? それともイルカ?」
(思い描くなら……人魚姫ね。あんな綺麗な人魚姫……憧れてたな)
みのりは水中を自由自在に泳ぐ人魚姫を頭の中で妄想しながら身体を動かす。潜って底に沈む枝を掴んだ時、胸の中でまた嬉しさが弾けた。
「すごいすごい! 自由に泳げてる……!」
喜ぶみのりに、佑羅がゆっくりと静かに近づいてきた。
「いい感じだな、みのり。それを覚えておくと良い」
「佑羅様……! はい!」
佑羅がみのりを抱きしめる。冷たい水の中とはいえ、少しだけ温度を感じせてくれる。
そしてぱちりと目線があった瞬間、2人は吸い寄せられるようにして口づけを交わした。
「……っ」
唇同士が触れ合っては離れていく一瞬の出来事に、みのりの心臓はどきどきと鼓動を早めていく。
そして佑羅は先に船の上へと浮上し、みのりに手を差し出した。
「みのり。それ以上いれば身体が冷えてしまうぞ」
みのりは差し出された手を受け取り、船へとあがった。
「……少し冷えてきたかも」
先に船に戻っていた綺羅々が大丈夫? とみのりに声をかけた。彼女の唇は少し震えがある。
「はやく温めなければな」
龍神宮の部屋の一角に戻り、温かい温度なシャワーを浴びた。
それでも寒さは収まらないので、火鉢に寄り添いながら女房が差し出したしょうが湯を飲むとだいぶ冷えが取れてくる。
「はあ……ましになった……」
そんなみのりのそばにいた佑羅の元に、文がひらひらと舞い降りてくる。
「なんだ? こんな時に……」
文をばさりと荒々しく広げた佑羅は、書かれていた文面に衝撃を受ける。
「な……」
「どうかしましたか? 佑羅様」
「あ……」
佑羅は言おうか言わまいか迷ったが、彼の脳内にはみのりと綺羅々、女房達の顔がよぎる。
彼女達を巻き込みたくない。そんな考えが佑羅の脳内に降ってくる。
「ああ、いや……なんでもない。他愛もない話よ」
咄嗟に嘘をついた佑羅。みのりと綺羅々はそれ以上何も言わなかったのだった。佑羅の心中は穏やかなものではない。むしろ荒波の状態となっている。
「面倒な事になったのう……まさかあやつも被害を被っておるとは」
佑羅は彼らしからぬ周りには聞こえないくらいの小さな小さな声で愚痴を吐いた。そう、文には狗神の下っ端によって領地を荒らされた神々が佑羅に助けを求める内容が記されていたのである。
ここ最近、神域では大きな戦こそないもののこのような小競り合いはたまに起きていた。佑羅は文の差し出し主を助けに、自ら現場へ行く事を決めたのである。
(この2人を争いに巻き込む訳にはいかん。特にみのりは人間。何かあってからでは……)
神々の戦いにおいて人間は何もできないに等しい存在である。人間はこれまで銃などの武器を発明してきたが、それらは神の前では全く意味をなさないのだ。
(……今日の深夜に龍神宮を発とう。これは女房達にも内緒にせねばな。女房達は必ずみのり達に教えてしまう)
佑羅の目の前では、彼の苦悩を知らぬみのりと綺羅々が楽しそうに会話をしていた。
「みのり、しょうが湯美味しい?」
「あ――綺羅々にはまだちょっと早いかも。独特な感じだから」
「へえ……独特なのはちょっとやだ」
みのりと女房達と綺羅々はしょうが湯についての話に花を咲かせている。その話の輪の外から、佑羅は寂しい目で彼女達を眺めていたのだった。
◇ ◇ ◇
深夜。この日、綺羅々は別の部屋で夜勤の女房が見守る中眠っていた。みのりもぐっすりと眠っている。
(皆、眠りについたな)
自室のベッドから物音を立てずに起床した佑羅はさっさと白い寝間着から普段着である中華風と和風が降り混ざったかのようなモノクロな色合いの服に着替える。
(式神は用意しておくか)
自身の力を仕込んだ白い人型の紙のタイプの式神を服の袂の中に忍ばせると、廊下に宙を浮いたまま移動しそのまま一気に空高くへと浮上した。
浮上していく姿はその名の通り龍のよう。戦闘機が飛行するくらいの高さまで浮上した佑羅は、文を書いた神が住まう山城へ向けて猛スピードで飛んでいく。
「よし、ここだな。急降下せねば」
降下すると山城の天守に武装した神々が詰めかけて戦闘態勢に入っているのが見える。
「
「佑羅……! 来てくれたか!」
秋魈は
「大丈夫か?」
「ああ、襲われた領地内のうち戦えない者はこちらへと避難している。だが夜襲があるかもしれん。佑羅も備えよ」
「そなたの山城は鎧袖一触。そう簡単に落城するような城でもなかろう!」
佑羅が秋魈を励ますべくいつもの陽気で大きな声音で語るが、彼の顔は暗いままだ。
「ああ。それはもちろん理解している。だがな、あやつら下っ端とはいえしつこいのだ。諦めるという事を知らんのか……」
秋魈はぎり……と口の中で歯を噛んだ。そして苦虫を噛み潰したかのような顔を佑羅に見せる。
「ここらでいっそ根絶やしにしたい所なのだが、それにしてもあいつらは耐久力が高い。このままでは時間がかかる一方になってしまう……」
腕組みをする彼へ、佑羅は何かを考え付いたかのように人差し指を立てた。
「だがここで根絶やしにすれば狗神の上のもん達も黙ってはおらんだろうな。どれ、ここはひとつ人質を取って交渉してみるのはどうだ?」
佑羅からの提案に秋魈は小さく首を左右に振った。
「佑羅。それはもう実践している。しかしながらそいつらは俺達には関係が無いと切り捨てられた。だからこちらとしても処刑するより他なかったのだ」
「冷酷非情だのう。下っ端とはいえ同じ狗神であろうに」
「本当だ。容赦なく切り捨てる様は駒同然。こちらとしても許す訳にはいかぬ」
「……ではそこを利用してみるとするか。のう、秋魈」
佑羅の話の意図が理解できなかった秋魈は怪訝そうにどういう事だ? と佑羅に質問する。
「あやつらは仲間を平気で切り捨てる者だと伝えるのだよ。そして内部の瓦解を狙うという寸法だ」
秋魈はなるほど。と握った右手の下を左手で叩いた。
「やはりそなたを呼んでよかった。そなたは見かけによらず頭もキレる」
「わしをバカにしてもらっては困るな。なんせわしは百戦錬磨の龍神だからな」
がはははっと笑う佑羅。秋魈は彼に鎧を着るように伝えたが佑羅はこのままで良い。と返す。
「龍神の鱗はそれこそ鎧袖一触。簡単に攻撃を通す訳がないわい!」
「そうだな、そなたはこれまで何度も狗神の群れと戦ってきた。その実力を思う存分見せてくれ」
「おうよ。言われんでも見せつけてやるわ」
すると秋魈の元に足軽風の見た目をした神が現れ、ひざまずく。
「申し上げます。狗神達がこちらへ夜襲を仕掛けてまいりました!」
「よし佑羅、出番だ」
「おう、ちっと暴れてくりゃあ……!」
佑羅は勢いよく山城から外に飛び出すと、両手をぱちんと合わせて夜襲を仕掛けてきた狗神の下っ端達に巨大な水塊を落とす。落とした水塊は狗神の下っ端達に当たって花火のように弾けた。
「うわああああっ!」
びしょぬれになった狗神の下っ端達はぶるぶると犬のように身体を震わせ水を飛ばす。だが佑羅の攻撃はそれで終わりではない。
「ほれ、これでも喰らうと良い」
一瞬で狗神の下っ端達を佑羅が召喚した水の檻が地面から生えるようにして覆った。
「な、なんだこの水の壁は!」
「ぐっ、冷たい……それに分厚い!」
水の檻の壁は人が5人分はあろうかという位の分厚さを誇る。更に壁の中では水が時計回りにかなりの速度で流れていた。当然ながら狗神は水中では呼吸ができないのでこの距離を息を止めて進むと言うのは無理だろう。
「くそっ、このままでは前へと進めないぞ!」
「どうすりゃいいんだ!」
うろたえる狗神の下っ端達を、佑羅は真上からにやりとした笑みを持って眺めていた。彼の姿は術により、狗神の下っ端達には見えていない。
「ずっとそのままでおればよい。ああ、そうだ。あやつが言っていた事を試してみるとするかの」
佑羅は急降下すると水の檻に閉じ込められている狗神の下っ端のひとりを後方から首を腕でロックし、そのまま上空へと連れ去っていく。
「わあっ! 誰か! 放してくれ!」
「放したら死んでしまうのではないか? それともどうなるか試してみるか?」
「ひっ! 誰だ! このようなふざけた真似をしているのは!」
彼には佑羅の声しか聞こえていない。それが彼をよりパニックに至らしめている。
「おおい、戻って来たぞ」
佑羅ののんびりとした声に秋魈が彼のいる方向へと振り向いた。
「おい! 連れ帰って来たのか?!」
「おう、こっからそなたが言うように、狗神達が味方を見殺しにするのか確かめたくてのう」
佑羅に抱えられた狗神の下っ端はジタバタと抵抗するも佑羅から逃れる事は出来ない。黒髪は振り乱れており、顔は汗まみれだ。
「……なるほどな……では、そのようにしてみるとするか」
「おい! ここは山神の城か?! 仲間や我らが主達が放っておくと思うなよ!」
必ず助けに来るはずだ! と何度も叫ぶ狗神の下っ端に対し、佑羅は残念だがそなたはこれから人質になってもらう。と凍り付くような低い声音で語り掛ける。
「ひっ! な、なんで龍神がここにいるんだ……! しかも龍ヶ池の佑羅だと……!」
「おお、そういえばさっきは姿を消していたのを忘れておったわ。ははは」
「じゃあ、あの水の攻撃はお前が……!」
佑羅はああ。そうだ。と全く悪びれもせずに反応した。
「くそっ……!」
佑羅は狗神の下っ端を離すと水の枷で両手両足を縛る。
「暴れてもええようにせんとな。秋魈、もっと拘束した方がええか?」
「そうだな。もっと縛り上げておこう。いや、このままの方がいいかもしれん」
朝を迎え人質である狗神の下っ端のひとりは、そのまま別の場所で待機していた彼らを率いている隊長の元へ、撤退を条件に突き出す事になった。
しかし隊長は上へと報告すると言ってどこかへと消えてしまったのである。
「なあ、もしかしてこれは……切り捨てられたという事かの?」
「やはりな。佑羅の言うとおりだ」
「では、あやつらにこの事を伝えるとするかの」
佑羅は人質を抱えて自らが閉じ込めた狗神の下っ端達へと向かう。
「誰か!」
彼らはまだ水の檻に閉じ込められたままだ。佑羅はそこへ上からお――い! と声をかけてみる。
「なっ! あれは……龍神!」
「おい! 龍神がいるぞ!」
「もう、俺達はここで終いか……」
「そなた達に教えたい事がある。そなたの隊長はここから逃げ出した」
彼らの間で一気に動揺が広がった。
「そう、なのか……? 隊長が……?」
「嘘だろ……? 信じないぞ!」
「あやつは消えた。もう2度と戻る事は無いぞ。そなたらは良いように使われた駒よ」
彼らの士気は佑羅の目論見通りがくっと下がる。
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