第2話【幕間】グラントの去った養成所
グラントがテイラー所長からクビを宣告された翌日。
養成所の掲示板の前には多くの生徒が詰めかけていた。
「これ本当なのか?」
「午後からの演習担当が別の教官になっているから、間違いないんじゃないか?」
「嘘……どうして……」
「本当にグラント教官の意思なのか……?」
掲示板に張り出されていたのは養成所で剣術と魔術の高等クラスを担当するグラント・マクガイヤー教諭の退職を知らせる通知書だった。
辞めた理由については【一身上の都合により退職】と記されていたが、それを真に受ける者はほとんどいなかった。
時計塔の鐘が鳴り、まもなく授業が始まるにもかかわらず廊下のざわめきは収まる気配を見せない。
そんな時、ひとりの女子生徒が掲示板の前を通りかかる。
いつもなら素通りするところだが、今日に関しては人だかりがあったことと、彼女にとって恩人とも言うべき人物の退職を知らせる紙が貼られていたため、スラリと伸びた長い足を止める。
「グ、グラント教官が……退職……?」
信じがたい事実を目の当たりにした女子生徒は翡翠色の瞳を揺らしながら呟いた。
ルネにとってグラントはただの教官というだけではない。
幼い頃に両親を亡くした自分をエルダイン王都にある教会へと連れていき、そこで生活できるよう掛け合ってくれた恩人だった。
いつか自分もグラントのような教官になろうと努力を重ね、平民という立場でありながら厳しい倍率を突破して入学したという経緯がある。
だから、その恩人であるグラントがいなくなった真相を知りたかった。
すぐさまその場を駆け出し、書長室を目指すルネ――だが、そんな彼女の行く手を阻む人物が現れた。
「そろそろここを通りかかるんじゃないかと思っていたよ――ルネ・グレイブル」
「あなたは……ジャレス・ウォルバート?」
女子生徒――ルネの前に立ちはだかったのは署長の息子であり、グラントが養成所を去る一番の要因となったジャレスだった。
「そこをどいてください。私は所長に用がありますので」
「グラントのことをパパに問い詰める気だろう?」
「だったらどうだというのですか? 代わりに息子であるあなたが答えてくれるとでも?」
「行くだけ無駄だと優しく忠告してやっているんだ。パパから聞いたんだが、グラントはどうも自らの意思で養成所を去ったらしいぜ。――おまえを置いてな」
「っ!?」
最後の「おまえを置いて」という言葉を耳にした途端、ルネの表情が強張る。
それを見逃さなかったジャレスは畳みかけるように続けた。
「薄情な男だよなぁ。こんなにも思ってくれているルネを置いてさっさと自分だけ出ていってしまうなんて」
「……私は認めません」
「あ?」
俯いていたルネは勢いよく顔を上げると、大きな瞳をキッと細めてジャレスを睨む。
「何もかもがあまりに急すぎます。あのグラント教官がこのような短絡的な行動に出るはずがない……あなたは何か知っているのではないですか?」
「はっ! 言いがかりはよしてもらおうか」
ジャレスはルネの言葉を鼻で笑い飛ばすと、力任せに彼女を抱き寄せ、耳元で囁く。
「他の教官たちと同じように大人しくパパに従っておけばよかったんだよ。俺の成績をちょっと誤魔化すくらい簡単だっていうのに……これだから平民は嫌なんだ」
「っ! やっぱりあなたたち親子が絡んでいたのですね!」
鋭い眼光で睨みつけるルネ。
だが、ジャレスは止まらない。
「だがおまえは違う。この俺に相応しい知能と美しさがあるからな。……あきらめて俺のモノになれよ。養成所中の男どもが憧れるおまえほどの女が、あんな無職の中年オヤジにべったりなんて勿体ないぜ? もっと自分の魅力を活かして生きろよ」
「……分かりました」
「おっ、ようやく理解したか。――なら、早速その証を見せてもらおうか」
ジャレスはルネの顎に手を添えると、自身の顔を近づけてキスを迫る。
――だが、次の瞬間、彼の顔はルネの放った強烈な裏拳をまともに食らって大きく歪み、「ごふっ!?」と声を漏らしながら廊下をゴロゴロと無様に転がっていった。
「な、何しやがる!」
「それはこちらのセリフです。断りもなく肌に触れただけにとどまらず、自身の顔を近づけてくるなんて何を考えているんですか?」
「お、俺のモノになるって言ったじゃねぇか!」
「アホですか? そんなことはひと言も口にしていません。ただ『分かりました』と言っただけです」
「じゃ、じゃあ、おまえの答えは――」
「さっきの一撃が私の答えです」
涙目の上に鼻血を垂らしながら訴えるジャレスに対し、凍りつくような冷たい視線を送るルネ。
「すぐに追いかけたいという気持ちは強かったですが、ここでさまざまなことを学びなさいというのがグラント教官の教えでしたから残るべきかと思い始めていたのに……あなたの言動で決心がつきました。これ以上ここにいても学べるものなんて何ひとつないようですね」
自分が見下されたと感じたジャレスは怒りに任せて叫んだ。
「俺にこんなことをして……タダで済むと思っているのか!?」
「タダでは済まないのですか?」
「当然だ! この俺にこんな屈辱的な思いをさせたことを後悔させてやるよ!」
「あっ、それについては大丈夫です」
「へっ?」
想定外だったルネからの返答に、ジャレスの口から間の抜けた声が漏れる。
「ど、どういう意味だ……?」
「先ほど言ったはずです。『ここで学べるものなんて何ひとつない』と。分かりやすく説明すると、私は今この瞬間をもって養成所をやめて明日からは――いえ、これからここを去る身ですのでこれ以上は言う必要もありませんね」
「よ、養成所をやめるだと!? 正気か!?」
「その言葉はそっくりそのままあなたへお返しします」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
立ち去ろうとするルネの肩を掴むジャレス。
彼の立場からすれば、何があってもルネを自主退所になんてさせるわけにはいかなかった。
ルネは座学も実技も成績優秀で、剣術と魔術の両方に高い資質を持つ未来の英雄候補でもある。
すでに騎士団や魔法兵団からも入団のオファーが届いており、さらにその美しい顔立ちとスタイルの良さから大物貴族の子息たちが婚約者として狙っているという噂もある。
そんな彼女が養成所をやめるとなったら一大事だ。
騎士団や魔法兵団、さらには公爵家をはじめとする有力貴族の子息たちが注目するルネ・グレイブルがエリート街道を自ら放棄する――おまけに自分がちょっかいをかけたことが引き金になったと知られたら責任を追及される恐れがあった。
養成所を去ったルネは間違いなくグラントのあとを追うだろう。
ジャレスは自身が彼へと放った言葉を思い出していた。
『パパが声をかければこの国でろくな仕事にはありつけないんだからな!』
これを聞いたグラントは新たな職場を目指して国外へ出ている可能性がある。
もし、ルネが彼を追ってエルダインから抜けたとなれば自分だけでなくウォルバート家自体が消滅してしまうかもしれないほどのダメージを負う。
それだけはどうしても避けたかった。
グラントにとって最大の誤算はルネが地位や名誉などに関心がなく、グラントのもとで学ぶことがすべてだと考えている点だった。
「お、おい! 俺の話を聞け!」
無視して歩き続けるルネに苛立ちを覚えたジャレスはここでも力に任せて彼女を拘束しようとする。
当然、それで止められるわけもなく、ルネは彼の腕を取ると豪快に背負い投げを決めてみせた。
「ぐはっ!?」
「基礎の護身術ですが、まさか受け身すら取れないとは思いませんでした」
「て、てめぇ……」
背中を床へと強烈に打ちつけたジャレスは痛みに悶えながら咳き込む。その様はまるで地面を這う芋虫のようだった。
「では、私はこれで失礼します。教官を追いかける準備もありますので」
「ま、待て……」
「止めるというなら力づくでどうぞ――ですが、お忘れではないですよね?」
「な、何をだ?」
「私の本職は魔法使いです。こちらは体術よりもずっと自信があるのですが……それでも食い止めに立ちはだかりますか?」
「っ!?」
そうなのだ。
ルネ・グレイブル――彼女は体術や剣術も優れているが、魔法使いとしての実力はそれらを遥かに凌駕するほど。
体術ですらまったく敵わないジャレス程度が放つ脅し文句のひとつやふたつなど歯牙にもかけないのだ。
これ以上妨害するようならば容赦しない。
鋭い眼光の先にある心理を読み取ったジャレスは何も言えなくなっていた。
「力量差を御理解いただけたようなのでこれにて失礼いたします。――ごきげんよう」
ルネは振り返ることなく立ち去っていく。
あとに残されたのは廊下に這いつくばるジャレスのみ。
「ちくしょう……今に見ていろよ……絶対に許さねぇからな……グラント共々必ず後悔させてやる!」
涙目になりながらそう呟くジャレスだが、頭の中はルネが養成所を去った言い訳を考えることでいっぱいだった。
一方、グラントを追うために最低限の荷物をリュックに詰め込んだルネは女子寮を飛び出して裏門へ移動。
守衛に見つかると厄介なので、ひっそりと息を殺して誰にも見つからないように養成所を出たのだった。
友人たちに別れのひと言も告げられないのは寂しいが、それはきっとグラントも同じだろうとルネは予想していた。
きっと、テイラー所長からは生徒たちへ別れの挨拶をする時間ももらえずに追いだされたに違いない。
でなければ自分や生徒たちに何も言わず出ていくなんてあり得ないのだ。
だから、これからはグラントの力になりつつ、まだまだいろんなことを教えてもらおうと考えていたのだ。
「待っていてください、グラント教官! 今行きます!」
こうしてルネの旅は始まった。
――特に目的地のあてなどなく。
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