第4話 竜の背からの眺め

 気の済むまで笑い合った後に、コーレはお姫様抱っこをしていたビアンカを前におろしてグラウの背に座らせた。


「あの、この方のお名前をお教えいただけますか?」


 娘が恐れげもなく顔を上げてコーレに尋ねてきた。さっき暴漢をなじった時とは打って変わって丁寧な言葉遣いに戻っている。本当に面白い子だ。



アインホルニゲグラウクニッヒデルレルギッェル

「アインホルニゲグラウェ……もう一度お願いできますか?」

「アインホルニゲ、グラウェクニッヒ、デルトレルギッフェル」


 コーレも噛みそうになりながら繰り返すと、ビアンカは口の中でぶつぶつ言っていたが、やがてとても言いにくそうに頼んだ。


「えっと、素敵なお名前ですね。あの、間違えないようにするためにもう一度だけお願いしてもいいですか?」


 コーレは半ば笑い出しながら繰り返そうとしたが、その時にグラウが「ガルッ」と大きく咆えて遮った。


「『もうやめてくれ、グラウでいい』ってさ」

「まあ、有難うございます。良かったです」


 ビアンカがほっとしたように言うと、グラウは「グルルル」と長く呻った。低いかすれ声だ。


「恥ずかしいから、名前を全部言うのは止めて欲しいそうだ。仔竜の時は嬉しかったけど、今になってみると小恥こっぱずかしいって」

「まあ。ですが、お姿に相応しいとても素敵なお名前だと思います」


 ビアンカが大真面目な顔で言うと、グラウはまた呻った。


「お世辞でも嬉しいってさ」

「どういたしまして。グラウさん、私はビアンカと申します。私も乗せていただいてよろしいのですか?」

「ワゥ、グワゥ!」


 唸り声が低く重々しく響く。


「あの、グラウさん、何ておっしゃられたのですか?」


 心配そうに尋ねてくる。グラウが気取った声を出したせいで意図が通じなかったのだろう。


「『もちろん、喜んで』だってさ」

「まあ。良かった!」

「ガルッ!」


 もう一声、今度はいかにも楽しそうに鳴き声を上げると、グラウは翼を大きく羽ばたかせてたちまち空高くに舞い上がった。


「うわ、すごーい!」

「おい、あまり動くな、不意に揺れたら落っこちるぞ!」


 小躍りでもしそうなビアンカの様子にコーレが慌てて注意すると、「グワーッグワーッ」とグラウが不服そうに長い声を上げた。


「今度は何とおっしゃっておられるのですか?」

「『綺麗なお嬢さんを乗せる光栄をいただいて、そんなへまはやらかさない』ってさ」

「グゥオォー」


 グラがもう一度叫ぶと、その背のビアンカが乗った部分が金色に光り、鞍の形になった。柔らかく、肌触りが良い。その上、つかまるための取っ手まで付いている。


「おい、随分と好待遇だな。グラウ、俺にも頼む」

「グワッ」


 コーレの頼みにグラウが短く返すと、ビアンカがクスクスと笑った。


「今のはわかりましたわ。グラウさん、『断る』っておっしゃったんでしょう?」

「……その通りだ。じゃあ、行こうか」


 そう言うと、ビアンカは心配そうな声になって通りを見下ろした。


「あの、マルコ君は大丈夫でしょうか?」

「じゃあ、様子を見てみるか?」

「ええ、お願いいたします」

「グラウ、ちょっと戻ってくれ」


 コーレがグラウに一声掛けると、グラウは「グルッ」と喉で音を鳴らして旋回した。

 通りには、襲撃者連中が街外れの方角へ逃げていくのが見える。野良犬は何とか追い払えたようだ。グラウにつつかれた奴が先頭を走っている。どうやら無事に地上に降りられたらしい。

 もう一度小さく回ると、マルコの家の天窓が見えた。マルコとエッバ婆ちゃんがこちらに向かって手招きをしながら何か言っている。

 速度を落として近づくと、叫び声が聞き取れた。


「コーレ、やったね!」

「偉いよ、コーレ、良くやった! 良い子には御褒美だよ!」


 そう言って、丸くて赤いものを三つ、こちらに向かって投げ上げた。リンゴだ。二つはビアンカの手とグラウの口が受け止めた。もう一つはれたが、グラウが尾の先で軽く弾くと戻って来てコーレの手にすっぽりと収まった。


「残りもんだけど、完熟だからね!」

「婆ちゃん、ありがとう!」「ありがとうございます! いただきます!」


 楽しそうに手を振るマルコとエッバ婆ちゃんに向けて手にしたリンゴを高々と掲げて礼を言ううちに、二人の姿は遠ざかって行った。


「あの様子なら、大丈夫そうですね」

「ああ、あれだけの騒ぎになったんだ。すぐに衛兵が来るさ。それに、マルコをどうこうしたところで、あいつらには何の得も無いだろう?」


 コーレはリンゴを服の袖でひと拭きし、かぶりついてから答えた。グラウは既に自分の分をかみ砕いて芯ごと呑み下してしまっている。ビアンカもコーレの真似をしてリンゴを丁寧に拭いている。


「それはそうですね。無事でいてくれると嬉しいです。コーレさんに会えたのはマルコ君のお蔭ですし。あの、もしよろしければ、次に会われた時に、私からのお礼を伝えていただけませんでしょうか。助けていただいて有難うございます、と」


 そして嬉しそうにひと口かじってから付け加えた。


「それから、リンゴ、とても美味しかったです、とも」

「ああ、伝えておくよ」

「こうやって丸ごといただくのは生れて初めてです。とても美味しいものですね」

「それは良かったな。それより、あんたのお供は大丈夫か?」

「はい。たぶん、自分でマクシミリアンさんの所へ行くと思いますので、そこで落ち合えるかと」

「じゃあ、師匠の所へ行くかぁ。運び屋の仕事はきっちりと果たさないとな」


 そう言うと、ビアンカが躊躇いがちにこちらを上目遣いで見上げて、おずおずと尋ねてきた。


「あの、コーレさんはその後にも運び屋のご用があったりするのでしょうか?」

「いや、別に何も無いけど」

「本当に?」


 本当も何も、王城でじっとかしこまっているのが嫌で逃げ出してきたのだ。何か用があるはずもないのだが、この娘にはそれは知る由もない。「ああ」と短く答えると、おずおずと頼みごとをしてきた。


「でしたら、少しお願いがあるのですが」

「何だ?」

「この荷物に、お国の様子を空から見せていただけませんでしょうか。貴方とグラウさんのお時間がある間だけで構わないのです。こんなに高くからお国を眺める機会は二度と無いと思うので」


 ビアンカはリンゴをちびちびとかじりながら、目を伏せている。自分では、無理な頼みをしていると思っているのだろう。だが、コーレにとっては憂さ晴らしのついでに過ぎない。


「俺は別に構わないけど。グラウ、お前はどうだ?」

「ガルッ」

「……何と?」

「また、『喜んで』だってさ」

「有難うございます!」


 お荷物が身を屈め、嬉しそうにグラウの背に頬を擦りつけると、でかい図体のグラウも満更でもなさそうに体を揺らす。目尻を垂らしていそうだ。


「お礼はどうすればよろしいですか?」

「うーん、ご褒美はもうエッバ婆ちゃんにもらったからなぁ」


 コーレは肩を軽くすくめて返しながら考えた。しばらく一緒に過ごすのなら、いちいちこの二人の間で通訳するのも面倒だ。どうするか。


「じゃあ、運賃代わりに血をもらおうか」

「血、ですか?」

「ああ、一滴でいいんだ。そこの尖った鱗の先をそっと指先に刺して。それとも、痛いのとか血を見るのとかは無理か?」

「いいえ。女は殿方より血や痛みに慣れていますから」

「お、おう」


 どう返事をしてよいかわからずに戸惑ううちに、ビアンカは何のためらいもなく手を伸ばすと小指の先で鱗をちょんと突いて僅かに傷つけると血を絞り出した。真っ赤な、綺麗な血の色だ。グラウに声を掛けると長い首を捻って顔を近づけ、舌を伸ばしてその血を舐め取った。そのついでに、荷物の頬も一舐めした。


「きゃっ。うふふ、くすぐったいです。いきなりですわね」

『失礼。挨拶代わりのつもりだった』

「あらっ」


 ビアンカが驚きの声を上げた。コーレにも覚えがある。

 グラウの太く重々しく、それでいて明るい唸り声がいきなり言葉となって頭の中に響いたのだろう。あの時、こいつと出会った時には自分も驚かされた。


「これで、俺がいちいち通訳する必要はなくなったな?」

「はい!」

『一滴だと効果は一日ぐらいか。まあ、十分間に合うだろう』

「グラウさん、嬉しいです。改めて、よろしくお願いいたします」

『こちらこそ』


 グラウが嬉しそうに返事をすると、ビアンカは「うふふ」と楽しそうに笑う。片頬にえくぼが浮かぶ、いい笑顔だ。助けた甲斐があるというものだ。せっかくだ、少しおもてなししてやるか。


「じゃあ、行くとするか。どこに行きたい?」

「お任せします。王都の街はさきほど見ましたので、それ以外で。お国のみなさんの暮らしの様子がわかるところがいいです」

「へえ、変わってるな。景色が綺麗な場所とか言うのかと思ったけど」

「あ、もちろんそういうところも見たいです。皆さんが誇りに思っておられるところですね」

「ふうん。よくわかんないけど、ま、いいか。じゃあ、行くぞ」

「はいっ」

「グラウ、まずはショーネル湖だ。いいか?」

『いいとも』


 グラウは小さく旋回して師匠の所へ真っ直ぐに向かっていた進路を変えた。傅役の子爵閣下に見つからないように王城の上を避けて旋回し、まずはその背後にある山地を目指す。


 速度を上げ高度を上げると風が冷たくなり、さっきの鬼ごっこで走り回って熱をもった顔を冷やして心地よい。グラウが飛びながらふざけて体をひねってくるりくるりと回ると、大空と大地が何度も上下に入れ替わる。その度にビアンカはキャッキャッと楽し気な声を上げている。本当に怖がらない、肝っ玉の据わった娘だ。それはそうか、何人もの刺客に追われていてもまるで怖がる素振りは見せなかった強い娘だものな、確かに「柔らかくて強い」だなとコーレは一人合点した。


 薄絹のような雲の中を飛ぶと、グラウの翼からも絹糸を束ねたような雲が後ろに伸びていく。コーレがグラウに合図を送ると、心得たとばかりにその場でぐるりぐるりと何度も旋回を繰り返す。何度目かの後についっと高度を上げたところでコーレがビアンカに下を見るように促した。首を伸ばしてグラウの体越しに見下ろすと、そこには今の旋回の航跡が筋雲となり、五弁の白い花を描いていた。


「まあ! 何て素敵なんでしょう……可愛いミミナグサの一輪のよう」

「グラウから、歓迎の贈り物だそうだ」

「グラウさん、有難うございます!」

『どういたしまして。貴女の美しさには敵わないが』

「まあ。それはどうも。グラウさん、きっと女性におもてになるんでしょうね」

『残念ながら、そうでもない。コーレと同じにな』


 それを聞いてビアンカがコロコロと鈴の音のような声で笑う。二人もつられて一緒に笑いながらさらに高度を上げ、大きな雲の中に入る。霞を通して見る太陽は、七色の輪を周囲に帯びながら柔らかく輝く。雲の上に出れば、下はまるで白い綿畑だ。地上にいては見ることのできない景色に、ビアンカが何度も感嘆の声を上げる。グラウとコーレも楽しそうな笑いで応じる時間がしばし続いた。


 やがて行く手に山脈が見えてきた。

 その急な斜面には背の高い樹が競い合うように並び立っている。巨木が枝葉を大きく広げて覆う緑深い森の間を縫って走る何本もの小川は、ところどころで切り立つ崖から滝となって流れ落ち、その飛沫が色鮮やかな大きな虹を映している。高度を落としてその輪をくぐって後ろを振り返ると、虹はどこへいったのか跡形もない。滝の飛沫が日の光を浴びて白く輝いているだけだ。空を見上げれば、青色の中に溶け込むように白い鳥がやじりの形の編隊を組んで、はるか彼方を目指して羽ばたいている。それを追ってまた徐々に高度を上げていくと、前方には険しい稜線が見えてきた。そこに向かって吹き上げる上昇気流に乗って一気に高くに舞い上がると、稜線の向こうの景観が現れた。そこに広がっているのは、この国で一番大きい湖だ。


「すごーい」


 一気に開けた眺めに、ビアンカがまた感嘆の声を上げている。

 上空の澄んだ空をそのまま鏡映しにした青く透明な水。飛ぶ千切れ雲は、水面みなもにメレンゲの塊を浮かべたように映り込み、湖の上を滑るように動いて行く。

 ビアンカはその光景にひたすら見惚れている。

 グラウに合図を出すと、相棒は高度と速度をぐっと下げて水面すいめんすれすれをゆっくり滑空する。その影に驚いて、水の中に群れなして泳ぐ小魚が逃げてゆく。ビアンカが身を乗り出したので落ちないように後ろから支えてやると、手と体を思い切り伸ばして湖面に触れた。指先で白い飛沫しぶきが上がり、小さな波が、鏡のような湖面を二つに割りながら広がっていく。


 しばらくそうして遊んだ後にまたグラウが高度を上げると、ビアンカが感激した声を弾ませた。


「本当に綺麗な湖ですね」


 しみじみと周囲を見回す娘に湖の名を教えてやる。


「ショーネル湖だ。知っているか?」

「評判だけは。ですが、こんなに美しいとは思いませんでした。あの建物は?」


 湖を囲む森の中のあちらこちらに豪勢な白い別荘や旅宿が点在しているのが見える。この湖は貴族や金持ち達が夏に訪れる避暑地だ。そう教えてやると、ビアンカは反対側の湖岸に固まって建っている何軒もの小さい小屋を指差した。


「あちらの小さいおうちもですか?」

「あれは漁師の作業小屋だな」

「漁師さん?」


 小首を傾げるビアンカに、その小屋の前の湖岸に泊められている小舟の群れを指し示す。


「ああ、この湖は、秋になるとマスが獲れるんだ。その漁師が、漁期の間だけ寝泊まりする小屋だな。ムール貝を取る漁師もいる。今は禁漁期間で湖に出ていないが、季節になるとあの舟がアメンボみたいに湖面を滑って行き交うのが見られる」

「マスとムール貝ですか。美味しいのですか?」

「ああ。マスの干物を焼いたのはこの国の名物料理の一つだ。ムール貝は蒸し焼きだな。ただ、処理が下手だと臭いからな。良い料理屋を選ぶことだな」

「自国で消費するだけですか? 他国へ売ったりは?」


 次から次へと質問が飛んでくる。そう言えば、商人の娘とか言っていたな。親の仕事柄、普段からさまざまな情報を得るように言われているのだろうか。あるいは、彼女自身が他国の産物に興味をもっているのだろうか。


「残念ながら、マスはそれほど沢山取れるわけじゃないんだ。取り過ぎると、数年先には取れなくなってしまう。いなくなってしまわないように、漁期を決めて、漁師当たりの匹数も制限しているんだ。貝の方は保存がきかない。だから、どちらもこの湖に近い王都周辺で殆ど食べられちまうな」

「そうなのですね。それで、この王都の名物料理になっているのですね」

「そういうことだな」

「では、漁期以外の時は、漁師さんは何をしていらっしゃるのですか?」

「大概は、普段は農業をしていることが多いな。うちの国は農作物のできがあまり良くなくて、農民の多くが副業を持っている。その一つがここの漁師なんだ」

「まあ、そうでしたか」

「何なら、次は農村を見に行くか?」

「よろしければ、ぜひ」

「グラウ、頼む」

『わかった。ここから近いのは宰相領だな。それでいいか?』

「ああ」


 答えると、グラウは一度高度を上げた後に大きく旋回してショーネル湖を後にした。

 湖から流れ出る同じ名前の川に沿って飛び、この国で最も大きな滝であるグロッセル滝がある大きな崖を超えれば、行く手にあるのは宰相侯爵の領地だ。



 大地の傾斜が緩やかになり、森林が切れると目の下には一面に平地が拡がる。流れを緩め、川幅が増したショーネル川の両側に、四角く区切られた緑の畑が連なっている。その様子を見た娘が呟いた。


「小麦畑でしょうか。良く茂っていますね」

「こんな高くから見ただけで、良くわかるな」


 コーレが驚いて声を上げると、ビアンカは少し慌てたように答えた。


「あの、えっと、それは一応商人の娘ですので。父の商会は様々な商品を手広く扱っておりますので。麦もその一つですから。父の産地視察について行ったことも何度もあります」

「そうなのか。まあ、麦はどこの国でも取引量は多いだろうからな」

「はい、そうなのです、はい」

「この一帯は国でも有数の小麦の産地だ。憶えておくと将来、役に立つんじゃないか」

「はい、そうします。有難うございます、はい」


 なぜだかわからないが、娘は赤らんだ顔にしきりに手で風を送っている。そんなことをしなくても、今は空を飛んでいるのだから風が当たりっぱなしのはずなのだが。

 コーレがそう首を捻っていると、娘は声を弾ませた。


「この様子ですと、豊作が期待できそうですね」

「この一帯はな」


 肩を少しすくめながら返すと、訝しそうに問い掛けてきた。


「この一帯は?」

「ああ」

「そうでないところもあると?」

「そういうことだ。すぐにわかる」


 しばらく飛び小さな丘陵を越えると、景観が変わった。丘陵の反対側では整然と四角く区切られていた畑が、こちらではいびつな多角形になり、畑と畑の間には薄茶色の地面が剥き出しになっているところも多い。



「……こちらは作物が違うようですね。何も植えられていない所も」

「ああ。大麦だな。ここらは小麦の実入りが悪い。年によっては、収穫が蒔いた種の数倍にしかならないこともあるんだ。仕方が無いから別の作物が植え付けられている。他には蕪とか、大根とかだな。雑草もろくに生えない荒れ地も多い。この付近だけでなくさっきの丘のこちら側はどこもこんな感じなんだ」

「そうなのですね」

「大麦は小麦より値段は随分下がるからな。ここの住人たちは困っているんだが、原因がよくわからないんだ」

「土が弱っているとか?」

「そうかもしれない。知り合いの農夫のおっさんに話を聞いたことがあるんだが、小麦どころか大麦も続けて作付けをすると、何年目かにはまるで苗が育たなくなるそうなんだ。それで、毎年作物を変えるんだが、世話のしかたも違うし、収入も読めないしで、随分と嘆いていた。あそこを見てくれ」


 コーレが指差す方を見ると、何区画かだけ、色の違う畑がある。緑の色が濃く黒っぽいが、やはり艶も勢いもなく、生え方がまばらで隙間から地面が見えている。


「あそこで、クローバーを増やしているんだ」

「クローバーですか。土を肥やすために?」

「ああ。実はここら辺一帯は、亡くなった第二王子に与えられていた土地だったんだ。与えられていたと言えば聞こえはいいが、実際には、国王が王子の力量を試すために任せていたんだそうだ。王子がいなくなった今は、別の王子が引き継がされた。それで師……導師の意見を聞いて土地を肥やすクローバーを試しているんだ。もしうまくいけば、苗を農家に分ければいいと思って。だが、やっぱりうまく殖えてこないんだ」

「では、単に土の養分が足りないということではなさそうですね」


 そう言った後に、娘はコーレの方を不思議そうに振り返った。


「それにしても、コーレさんは色々な事情をとても良くご存じなのですね。農業にもとてもお詳しいようですし」


 ビアンカに詮索するつもりは無く単純な問いなのだろうが、コーレは狼狽した。しまった、ボロを出したか。ビアンカの明るい声を聞くのが楽しくて、いつの間にか、気心の知れた仲間とおしゃべりをしているような気分で喋り過ぎてしまっていたのに気付かされて、大慌てで誤魔化そうとする。


「いや、まあ。運び屋の仕事であっちこっちへ行ってはそのついでに話を聞かせてもらえるし、師匠の茶飲み話の相手をしていると色々なことを教えてくれるし、そんなこんなで、聞くだけはいろいろ聞いているから。大したことじゃないんだ」

「いいえ」


 娘が笑顔で強く首を横に振ったのでどきりとする。


「知っているだけでも凄いことです。それに、コーレさんがその方々のことをご心配されているというのも、伝わってきますわ。お優しいのですね」


 どうやら追及するつもりは無さそうだ。笑顔も明るく、こちらを探るような視線も無い。コーレは内心でほっと安堵の息をついた。それに気づく様子もなく、別の質問が来た。


「水はどうなのですか?」

「水か? この辺りには大きな川が無いから、雨水と井戸水頼りだな。さっきの丘とあっちのザルツェン山に挟まれたこの地域は雨が少ないが、干害を年中心配するほどでもない」

「ザルツェン山ですか? あの、有名な岩塩坑のある?」

「ああ、そうだ。良く知っているな」

「それはお国の有名な産物ですもの。私の国だけではなく、周辺の諸国にも輸出していますよね」

「ああ。その収益が王家の、というか、国の重要な収入源の一つだ」

「もしかすると、そのせいかもしれませんね」

「そのせい? 何がだ?」

「小麦が茂らない理由です」

「小麦が? どういうことだ?」

「ひょっとすると、土に塩味が多いのではありませんか? 塩に弱い作物は多いですから。小麦やクローバーもかなり塩には強い方ですが、それでも酷くなると良く生えなくなりますから」

「そうなのか。じゃあ、大麦は塩に強いからまだましだということか」

「はい。そういうことになりますね」

「だけど。大麦は安いからな。他に何か、塩に強い作物を知らないか?」

「そうですね。菜種とか甜菜とかはどうでしょうか。穀物ではないので食糧には向きませんが、油や砂糖に加工できれば、高く売れると思います。ただ、加工場所を造って職人を雇うのに、随分と資金が掛かりますわね」

「そのへんは陛……平気かどうか、上の方の人が色々考えるんだろうな。俺も、師匠に今のを話してみるよ。もしよかったら、詳しく教えてくれないか?」

「コーレさんに教えるのは構いませんが、今はそんなに時間がないですよね。でも、またの機会があるかどうか……」

「いや、無理を言ってすまない。気にしないでくれ。それにしても、良く知っているな」


 ビアンカが申し訳なさそうな顔になり、コーレは慌てて話題を移した。

 コーレも小さい頃から師匠から色々なことを教わったり、王城に引き取られてからは導師達の厳しい詰め込み教育を受けたりして様々学んでいる。グラウと一緒に畑のネズミ狩りをした時には、お礼にもらった果物を食べながら、農夫たちに作物の事や耕作のことなどを教えてもらったりもした。それを活かそうとして、亡き次兄が手掛けていた土地で農夫にいろいろと試してもらっているのだが、なかなか上手くいかない。この娘は俺と大して変わらない年齢だろうに、自分以上に農業に詳しいのに驚いた。


「商人の娘って、そんなにいろいろ知っていないといけないのか?」


 尋ねると、ビアンカの顔色が変わった。蒼くなった後に今度は赤くなったと思うと、勢い込んで喋り出した。


「あ、いえ! あの、私も父以外に、教育係の者がいて! いろいろ取引先に付いて行って交渉や相談の場に陪席したりして! ですから耳学問に過ぎないんです! 決して詳しいとかそう言う訳でなく! そうだ、あの、よろしければ! 塩に強い作物とか、土の塩味を和らげる方法とか、あ、さきほど、ムール貝が取れるとおっしゃっていましたよね! 確か、貝殻を細かく砕いたものを撒いて水を多く用いるのも良いはずです! 教育係に聞いて資料にまとめてお渡しします! お師匠様にお言付けすればよろしいですよね!」

「お、おう。 そうしてくれると助かる」


 怒涛の勢いでまくし立てる娘に押されて、コーレは思わず身を引いてしまう。まだ何かを言おうとして喉に引っ掛からせて咳き込み、「コホッ! コホッ!」と苦しそうにしているのを見ていると、ひょっとすると自分と同じように何か事情を抱えているんじゃないかと思いあたった。若い娘が他国に供の者と二人だけで来て、変な奴らに襲われているんだ。そりゃ、何かあるに決まっている。

「大丈夫か?」と尋ねてビアンカの咳が治まるのを待ってから言った。


「なあ、これ以上のことは尋ねないから、安心してくれ。お互いに詮索はしない、ということでどうだ?」


 提案すると、ようやく咳が止まったビアンカも頷いた。


「はい! 折角の楽しい空の時間を、変なことに気を使いたくないですよね! それでお願いいたします」

「そうだな、そうしよう」


 お互いにコクコクと頷き合っていると、グラウが楽しそうな声で口を挟んで来た。


『お前ら、仲良しだな』


 そう言う顔は見えないが、きっとニヤニヤ笑っているに違いない声だ。


「あら、グラウさんも仲良しでしょう? 違うのですか?」


 あざとく悲し気に作ったわざとらしい声に、グラウが『あはは』と笑ってから答えた。


『もちろんだ。仲が悪い者をこの背に乗せたりはしない。なあ、コーレ?』

「ああ。こいつは気に入らなければすぐに振り落とすから、気をつけた方がいい」

「まあ、大変。嫌われないように気をつけます」


 そして三人で声を合わせて笑ううちに、景色が変わった。

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