第2話 青年と竜

 コーレを背に乗せて飛ぶこの灰色の竜は、コーレが子供の頃からの相棒だ。この竜の角から作られた角笛を吹くと、すぐに飛んできてくれるのだ。

 竜は普段は王城の背後の切り立った崖から続く峰にいる。そのさらに奥地は、魔物が多く棲まう魔境ゼルツァメヴェルトと呼ばれる地域に繋がっている。


 竜の背に乗って空を行くと、心地良い風が顔に当たる。コーレは右頬に走る大きな傷痕を撫でながら、王城で傅役にがみがみ言われながら過ごすことになった経緯を思い起こした。



 コーレは王子だが、嫡出ではない。国王の正妃は王太子を産んだ後に亡くなってしまった。王の子が一人だけでは、国の将来が心許こころもとない。そう心配した臣下に薦められ、国王は複数の側室を持った。その一人がコーレの実母だった。彼女は廃れた貴族家の娘だったが、昔のかすかな縁故を辿って王城で働いていたのを国王に見初められて側室となった。


 幸いと言うべきか不幸にもと言うべきか、側室たちは次々と王子を生み、コーレは第四王子だった。

 何が不幸かと言えば、多ければ多いで国の悩みの種ともなるのが王子というものだ。そのそれぞれの母の生家である貴族家が勢力争いを始める。中には我が孫を次代の王とするために、他の王子を亡き者にせんと企む者も出てくる。ごたごたとした争い事の中でコーレの母が亡くなったのを機に、国王は後ろ盾となる貴族のいないコーレを逃がすことにしたらしい。王城から消えさせることで、次の国王争いから外れたことを明示したのだ。


 コーレは乳母に連れられて秘かに王城を離れた。乳母は彼の身分を隠すために他の町から移って来たと装って、城下の下町に住み着いた。

 コーレはそこですくすくと育った。下町のことで遊び仲間には荒っぽい者もおり、それに染まっていくことを恐れた乳母は、街外れに隠棲していた元王城勤めの賢者の所にコーレを連れて行った。どうやら教育費を出しても暮しに困らない程度の金は、国王の手の者から遣わされていたらしい。


 コーレが『師匠』と呼ぶ賢者マクシミリアン師は国王が若い頃の導師だったそうで、どうやらコーレの事情を全て知っていたらしい。腕白小僧だったコーレに人としての礼儀作法と生きるために必要な知識を教え、万やむを得ない時にだけ使うように言い聞かせた上で、自分の身を守るための術を仕込んだ。

 師匠はコーレにいろいろと教え込んだ後は、椅子に縛り付けるよりは責任のある仕事で経験を積ませた方が良いと思ったらしく、あちらこちらに届け物の使いに出されるようになった。

 命じられるままに手紙や荷物を届けると、届け先ではコーレのような子供相手でも嬉しそうに礼を言われる。その笑顔を見ているうちに、彼は物運びが好きになり、街の人々からの依頼も請け負うようになった。貰える駄賃で買う玩具や駄菓子も大好きだったが、それはまあ、別の事だということで。



 今、彼を背に乗せてくれている相棒と出会ったのも、師匠に言いつかった運び屋の仕事の途中だった。


 ある雲行きの悪い日、山間に住む師匠の姉のところへ急ぎの手紙を届ける道中で、山道の脇の草むらの中に血だらけで転がっているまだ幼体の竜を見つけたのだ。

 顔の深い傷、そして全身のあちらこちらからも血を流している。まだ短い角の片方は折れかけて、翼も何か所か破れている。コーレに気付いても弱々しくうごめくだけで、逃げることなど到底無理そうな様子だ。

 獣か魔物にやられたのか、仲間内の争いで傷ついたのか、どこから逃げてきたのかもわからない。まだ少年の両腕の中に納まるほどの大きさの仔竜の回りには、親もきょうだいも、仲間の一匹も見当たらなかった。いたのは、近くの木の枝の上に留まって嫌な目でこっちを見ながらガーガー騒いでいる二匹の大ガラスだけだった。


 コーレは戸惑った。竜など、近くで見たことがなかった。時たま、遠くの山々の上の空を飛び回っている姿を、遊び仲間達と怖がりながら遥かに眺めたことがあるだけだった。


 だが、こいつはどう見ても竜だ。まだか細い骨と薄い皮膜で形作られた翼、全身を覆う鋼色の鱗、細く突き出した口から覗く鋭く尖った牙の数々。


 どうしようか。コーレは迷った。両手の中に納まりそうな幼体だと言っても、竜は竜、魔物の中の魔物だ。普通に考えれば関わり合いにはならない方が良いに決まっている。放っておき、そっと立ち去るべきか。そう思った時、竜の仔が弱々しく身動みじろぎ、目と目が合ってしまった。その瞬間に心が決まった。

 竜の仔はすぐにその目を閉じた。もう全てを諦めたとでもいうように。その全身が震えている。恐怖か、今流れている血を失った寒さのためか。放っておいたら、もう長くはもたないだろう。枝の上にまた一匹増えて、コーレが去るのを待っている大ガラスどもがいなかったとしても。


 そうはさせない。俺は運び屋だ。こいつも運んでいくべき先がある。依頼主は俺だ。こいつが助かったら、俺自身に報酬を出そう。俺は弱い者を見捨てない男だという自負と自信、それが最高の報酬だ。


 コーレは自分にそう言い聞かせて、両手を竜の仔の下に差し入れた。力を込めて持ち上げる。傷口に触ってしまったのか、竜の仔が身を捻ってコーレの腕に噛みつき、顔を目掛けて爪を揮った。二か所の鋭い痛みを懸命に耐え、思わず放り出しそうになるのをなんとかこらえると、頬と腕から血が流れ出す。血と血が混じり合って、竜も人もあちらこちらが血まみれだ。これ以上暴れられると、手がもたない。コーレは、低く呻りながら懸命に体をよじり羽ばたきを続ける竜の仔に必死になって声を掛けた。必死になったところで、人の言葉が竜に通じはしないだろう。そう思いながらも、精一杯の力を込めて。


「大丈夫だ、何もしない。いや、手当てをしてもらえるようにしてやる。だから、一緒に行こう。俺はお前の味方だ。俺を信じろ。頼むから、静かにしているんだ。これ以上、無駄に力を使うな」


 だが、竜の仔は動きを止めて力を抜き、体をコーレの手にゆだねた。それと共に、コーレの頭の中に『わかった、頼む』という弱々しい声が響いた。驚いた。思わず周囲を見回したが、他に誰かがいるはずもない。この手の中で眼を閉じた竜が言ったに違いない。


「引き受けた。いいか、気持ちをしっかり持て。諦めるんじゃないぞ。必ず助けてやるからな」


 そう言って立ち上がると、コーレは走った。山道を駆け上がり、坂道を駆け下る。両側から伸びた草や木の枝が顔や体に当たるが、両手は塞がっていて払えない。払うつもりもなかった。ただひたすら、走った。黒い雲で覆われていた空がさらに暗くなり、また先を急ぐ。降り出してきた雨に竜の仔が少しでも濡れないように抱え込み、体を前に倒す。滑って転ばないように足元だけを見ながらまた走った。走るうちに訳もわからずに泣けてきても、息が切れて咳き込んでもひたすら足を動かした。目的地に着いた時には、頭から足まで雨だか汗だか涙だかわからないものでずぶ濡れで、肩でどれだけ息をしても目の前は蒼く昏いままだった。


 目の前の扉を叩こうとしたが、手が使えない。


「マグニカさん、俺です、コーレです! 開けてください!」


 叫びながら頭を扉に叩きつけて音を立てる。何回かの頭突きの後にいきなり扉が開き、コーレは家の中に転がり込んでしまった。それでも竜の仔は胸の中に抱きかかえて落とさない。


「うるさいねえ。コーレ、いったい何の騒ぎだい」


 その家の主、師匠の姉であるマグニカは、人目を避けて王城の裏手の山中に住んでいる。元は王家の侍医で、師匠と同時に引退したそうだ。


「マグニカさん! こいつを! この子を助けてください!」


 そう訴えると、マグニカは俺の手の中の傷だらけの竜をじろりと見た。


「また厄介なものを持ってきたもんだね。竜の仔を盗むとは無鉄砲にもほどがある。悪いことは言わない。どっかに捨ててきな。親竜に見つかったら、あんた、命はないよ」

「違う! 盗んで来たんじゃない! 道端で苦しんでいたんだ! お願いだから、何とかしてやって! こいつと約束したんだ。助けてやるって」

「竜の仔と約束? 本当かい? 嘘じゃないだろうね」

「嘘じゃない! 誓ってもいい!」

「母上に誓えるかい?」

「誓える! 誓う!」

「そうかい。ならばいいだろう」


 そういうとマグニカは家の奥に向かって人を呼んだ。


「アンジェシカ、湯を沸かしとくれ。大鍋に一杯だ。それと薬草と包帯に、毛布も頼む。それから、後で使いに行っとくれ」


 家政婦のアンジェシカさんの「はーい」というのんびりした返事が聞こえて、マグニカはこちらに振り返った。


「二人分の治療費は高くつくよ。当分の間、無料で運び屋をしてもらうことになりそうだねえ」

「それはいいけど、二人分って?」

「お前もだよ。その頬と手の傷、浅くはないね。痕が残るだろうから、覚悟しておきな。何日かはここに泊ってもらうことになる。母上とマクスには知らせておく。自分の養生も兼ねて、その子の世話をしてやりな」


 その後、コーレは濡れた服を脱がされ毛布で包まれて水と塩と飴を与えられた。顔と手に傷薬をつけてもらい、包帯を巻かれた。道中で木の枝に当たって擦り傷や切り傷も沢山できていたが、それは大したことがないと、洗った後は放っておかれた。

 竜の仔の方も同じように手当てされて包帯でぐるぐる巻きにされた。折れかけた片方の角はもう元通りにくっつく見込みがないと切り取られた。そして籠に布を敷いた寝床に入れられて暖炉の前で寝かされた。

 コーレはその横で付きっ切りで世話をした。暖炉の火を守り、冷えたり暑くなり過ぎたりしないように籠を動かして暖炉からの距離を調節した。何時間か置きに綿を水に浸して口に当てて吸わせた。その後は敷物の様子を見て、汚れたら取り替えた。そうやって一晩中寝ずに世話をした。いや、疲れで時々眠ってしまったから、「寝ずに」と言っては嘘になるが。


 薬が合ったのか、竜の生命力が強いのか、翌日には竜の仔はもぞもぞと動けるようになり、翌々日にはヤギの乳をコーレの手の木匙から飲めるようになった。

 三日目には食卓で朝食を食べるコーレの体をよじ登ってきて、食べようとしていたチーズにかぶりついて横取りした。


「あ、何するんだよ」

『うまい、うまい。お前、ずいぶん良い物食ってるんだな』

「毎日食ってるわけじゃない。マグニカさんがここでヤギを沢山飼ってるから食えるんだ」

『へー』

「このチーズを町の師匠の所へ運ぶのも俺の仕事なんだ」

『へー』

「って、お前、俺の話を聞いてないだろ。食ってないでちゃんと聞けよ。あっ、また取ったな」

『いただきー』



 その一人と一匹、いや、もう二人と言った方が良いだろう。あちらこちらに包帯を巻いた二人が争いながら一緒にヤギの乳を飲み、パンとチーズを食べるのを見ながら、マグニカは驚いていた。

 竜は人と関り合うのを好まない。人の手から食べ物をもらおうとするなど、前代未聞だ。それどころか、コーレが一度口にしたものも平気で食べているし、明らかに意思疎通もできている。

 これは傷ついた竜の仔を噛まれた手で運ぶうちに血と血が交わったからだろうか。魔物と血を交わしての契約ならば、どちらかが相手を使役する関係になるはずだ。だが、こいつらはどうもそのようには見えない。

 今もほら、こんな様子だ。


「チーズの最後の一枚、お前が食えよ。沢山食って早く良くなれ」

『いや、もう十分もらった。それはお前が食べればいい』

「じゃあ、半分ずつにするか?」

『おう! お前が二つに切れ。そうしたら俺が選ぶから』

「わかった」


 竜の仔は様々な調子で唸っているだけで、マグニカの耳には何を言っているのか、何がどうなったのかはわからないが、二つ確かなことがある。コーレがわざと不均等にちぎったチーズから、竜の仔がわざと小さい方を選んだこと、そしてもう一つ。


「お前達、もう仲良しだな」


 そう言うと、二人は同じようにチーズを口にくわえたままで顔を見合わせ、同じように嫌そうな顔をして、こちらを見て同時に「どこがだよ!」「ガルルッ!」と叫んだ。それでいて実は満更でもなさそうだったのには、ニヤニヤ笑いを隠せなかった。



 その後、竜の仔はマグニカの所でしばらく過ごすことになった。傷が治ったとしても、まだ幼くて自分で獲物を取ることはできなかったのだ。コーレはしょっちゅう通って、できるだけ面倒を見た。


 コーレはマグニカに教わって竜の仔に傷薬をつけ綺麗な包帯を巻き直しながら、なぜ傷ついてあの場所で倒れていたのかを尋ねた。


 その話ではどうやら、こいつが生まれた竜の群れのおさが齢を取り、ある日行方をくらましてしまったらしい。長としての務めができなくなり老いさらばえて死にゆく姿を見られないように、孤独な最期を選ぶのが竜の長のならわしだそうだ。

 そうしていきなり次の長の座を巡る争いが始まり、雄同士が激しく闘い合う。そのいざこざの間に、前の長の血を濃く引いていたこいつの母親とこいつが巻き込まれ、襲われたそうだ。母親が盾となり、何とかこいつを逃がした後のことは良く憶えていないらしい。気がついたら、変な人間の子供、つまりコーレが上から覗き込んでいた、と失礼なことを言った。

 名前を聞いたら、『無い』と答えた。竜はまだ幼い内は名前は付けず、母親から離れて暮らせるようになったら群れの長が名付けをするらしい。

 名無しでは何かと不便だと言ったら、『お前が付けてくれ』と言われた。

 灰色グラウの竜の仔だったのでグラウと名付けようとしたら、『ありきたりすぎて嫌だ』と拒否された。個性がどうとか独自性がどうとか自我同一性がどうとか小難しい不平不満を言っていた。贅沢な奴がガキっぽいことを言いやがってと思ったが考え直して、片角だし、いずれは峰々の主になるようにと『アインホルニゲグ偉大なるラウェクニッヒデ峰々の灰色ルトレルギッフェルの片角の王』を提案したら満足そうにしていた。本当にガキっぽい奴だ。実際に呼ぶには長過ぎるから『グラウ』だと言ったら、今度は文句は返ってこなかった。


 グラウの体が十分に回復して飛べるようになると、獲物を捕らえる練習に付き合った。

 といっても、山では森や茂みなど獣が逃げ隠れする場所が多く、簡単には良い獲物が見つからないし捕まえることはさらに難しい。

 そこで里に下りて、畑を荒らすネズミやウサギを狙うことにした。

 最初は農民たちはグラウを見て驚き怖れ、コーレの話を聞こうともしなかった。だが、マクシミリアン師が紹介してくれた農夫が畑に入ることを許してくれた。


 まずはグラウに空中で待機させておき、コーレが勢子になって木の枝を二本手に持ち、大きな声を出しながら打ち鳴らし振り回して害獣を隠れ場所から追い出そうとした。

 だが、上手くいかない。子ネズミ一匹すら出てこない。おかしいなと首をひねっていたら、畑の横に腰掛を置いて面白半分で見物していた農夫に大笑いされた。


あんちゃん、そりゃ無理ってぇもんだ。空を竜が飛び回っているのにのこのこ出てくるような馬鹿なネズミは、とうの昔に鷹やトンビに食われちまってるよ」


 そうして、「こうすりゃどうだ」とやり方を教えてくれた。


 まずはグラウには、物置となっている掘っ立て小屋の陰で身を隠させておく。コーレは相変わらず勢子役だが、畑の端から畝の間を歩きながら樹の枝で地面をほんの軽く、ト、ト、ト、ト、と突いて行く。すると振動が地面を伝わり、ネズミはキツネやタヌキ、イタチのような巣穴を襲う獣が来たと思い込んで隠れ場所から走り出て、掘っ立て小屋のガラクタの中に逃げ込もうとする。

 そこにグラウが素早く飛び立って空から襲い掛かる。ネズミは気づいて方向を変えようとするが、もう遅い。速度が鈍るその一瞬を狙いすまして、足の鋭い鉤爪を打ち込めば、もう逃げることはできない。

 最初の一度、二度は失敗したが、三度目に成功すると、農夫から拍手が起きた。グラウもすぐに要領を憶えた。四度、五度、続けて成功すると、母屋から覗き見していた子供たちが面白がって勢子に加わった。そこから先は早かった。畑の畝という畝からネズミが追い出され捕らえられ、農夫には大いに感謝された。お礼にと出された小籠一杯のリンゴは、グラウと一緒に食べようとしたら子供たちが羨ましそうに見ていたので、結局、みんなで分け合った。

 それからはその農夫の声掛けで、あちらこちらの畑の害獣退治に駆り出された。しまいには、街の路地裏に住み着いたネズミ退治までやらされた。

 面倒だったが、村でも町でも、グラウとコーレを怖がったり奇異の目で見たりする奴はすっかり減って、むしろ歓迎の声を掛けてくれるようになった。


 グラウが自分で獲物を捕らえられるようになると、「もういいだろう」と大空に返すことになった。それでも、切り取られた角でマグニカが作ってくれた耳障りな音がする笛をコーレが吹くと、すぐに飛んできてくれるので、害獣退治は続けることになった。

 何でも、竜の角笛には魔力が籠っていて吹くと本体の魔力と共鳴するので、どこにいてもわかるそうだ。


 グラウが大きくなると、ネズミやウサギのような小物を捕まえることは難しくなった。それでも、大きな竜が上空を飛び回るだけでも効果はあるし、キツネやアナグマ、さらにはオオカミやクマのような人を襲いかねない大型獣も近寄ってこなくなる。

 痩せた畑であっても獣害が減ればそこそこの収穫が得られるようになると、随分感謝された。

 グラウがさらに大きくなると、コーレを背中に乗せて飛んでくれるようになった。竜の飛翔力は強い。運び屋の仕事は一気に楽になった。かかる時間が圧倒的に短くなり、どんな山道でも獣に襲われる心配もなくなった。

 ただ、街中ではグラウが着地できるような広場は限られるので、結局最後は自分で道を走っていくことになるのだけれど。



 本当にこいつは頼りになると、コーレは相棒の背中で思う。


 次兄が病で急逝して王城に呼び戻された時も、コーレはグラウに相談した。そうしたら『お前が引き受けなかったら、人間の群れの中で変な憶測を呼んで、派閥争いの種になりかねないぞ。下手をしたら、長争いを巻き起こすんじゃないのか? 長争いは悲惨だぞ。本人たちより、群れの中の弱い奴にとってな』と言われた。

 実際に群れの長争いのあおりを受けて酷い目に遭ったこいつの言葉には、とても重みがあった。『それに、今まで育ててくれたおふくろさんやお師匠さんや、街の仲間たちの恩に報いることにもなるんじゃないか』とも。こいつは群れから一度追われれたのだ。そんなこいつに静かな声で言われたのが、かえってコーレの腹の底に刺さり、重く響きわたった。だから、四の五の言わずに受け入れることにした。

 そのために窮屈な暮らしをすることになったが、後悔はしていない。我慢できなくなったら今日みたいに窓から飛び出すことにしているし。傅役のクラウス子爵もその夫人も、コーレの気持ちを少しは理解してくれているのだろう、がみがみ言いながらも眼をつぶって後始末をしてくれている。


 そんなこんなで、街でも近郊の村でも、グラウとコーレを見ても誰も何にも言わなくなった。それは今でも変わらない。こうやってコーレがグラウの背に乗って街の上を飛んでいても、誰も驚いたり怖がったりはせず、ただの、いや、ちょっと変わった運び屋として接してくれる。知り合いや子供たちはむしろ手を振ってくれるぐらいだ。もっとも、怖ろし気な竜を連れているせいか頬の大きな傷跡のせいか、齢の近い娘達は近寄ってこないのだが。


 だから今でもグラウと一緒に街の空気を吸いたくて、コーレはこうやって城を抜け出しては師匠の所へ行き、運び屋の仕事をしているのだ。

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