友なる竜の背に共に

花時雨

第1話 脱走

 青年は飽き飽きしていた。


 ホルツコーレという名を持ち、親しい者からはコーレと呼ばれるその青年が自由に暮らしていた街中から、突然連れてこられたのは大きな王城の中。取り囲む壁や床の大理石は冷え切り、若さの熱を奪い取ってゆく。

 無理やり着せられたのは、麗しくも堅苦しい軍服の礼装。襟は詰まり腰は絞られ窮屈で、しゃちほこ張った肩章、飾緒しょくちょ、金ボタン、何もしていないのに与えられた勲章と、装飾だらけの仰々しさ。そこいらの床に寝転ぼうものならすぐに汚れてばれてしまう。

 朝から始まるのは退屈な座学。このフェルスヴァント王国の歴史、地理、政治、経済、軍事に外交。しかめ面の導師と傅役もりやくがつきっきりでは居眠りは許されそうもない。

 午後はダンスに社交術、さらには嗜みとしての剣術、体術。型から外れるとたちまち師範たちの教鞭が飛んでくる。なかなか上達しないので張り合いもない。特に剣術は師範に呆れられ、傅役には「人には向き不向きというものがございます。殿下には殿下のお得意もきっとございましょうほどに」と慰められてしまったほどだ、面白く感じるはずがない。

 唯一の楽しみになりそうな食事すら、食器の上げ下ろしからナフキンの使い方まで、一つ一つを侍女頭に注意されながらときたら、豪華な食事もまともに味わえるわけもない。


 腹違いの次兄の死が、コーレ青年の人生の全てを変えてしまった。

 城から厳めしい顔をしたお貴族様のおっさん(国王の使いだったらしい)が近衛兵を連れていきなりやってきて、王命を伝えると宣言した。コーレは王の子であり、女手一つで育ててくれた母が実は血のつながらない乳母だったと教えられ、王城に戻り亡き次兄が務めていた王太子殿下の補佐となるようにと命じられたのだ。


 コーレは驚き、思い迷ったが、承知すれば育ての母には手厚く酬いると説得され、世話になった師匠と育ての母本人にもそうするようにと勧められては、他の道は選べなかったのだ。あいつにも背中を押されたし。

 父王にしてみれば、できの良い王子を病で失い、やむを得ず後釜に据えようとしているのだろうけれど。母と二人で自由に暮らしていたあの楽しい生活を、諦めきれるわけが無い。


 とまあ、ぐだぐだぐちぐちと並べ立てて何がしたいのかと言えば、つまりは、そのように窮屈な思いを強いられている若者がお目付けの傅役の目を盗んでは城の外へと逃れ出るのも何の無理もなかろうということだ。もっとも、街で遊んで帰ってくると直ちに国王や王太子の所に連行されて、その日一日の行動や見聞きしたことを洗い浚い吐かされるのではあるけれど、それでも大人しく白状しさえすれば厳しく叱られることもなく「ほどほどにな」だけで放免してもらえる。もう見放されているのかもしれないが、それならそれで構わないと割り切って、気晴らしした方が良いというものだ。


 今日も今日とて、午前の課業はいつも以上に厳しかった。泣き出しそうになるぐらいなのをこらえて懸命に済ませ、まだ日が南に昇り切らないうちに随分と早い昼食をやいやい言われながら食べさせられた後に、コーレは傅役のクラウス子爵になにやらガミガミと言われていた。



「殿下、本日はどうか大人しくなさっていてくださいますように」


 子爵閣下が目を吊り上げて言ってくる。


「午後から重要な御面会の予定が入っております」

「誰と?」

「ブラウズベルグ王国からの賓客です。陛下への謁見の後に、殿下にもお会いいただきます」

「なんだ、俺は関係ないじゃないか」

「何ですと?」

「陛下が会われるなら、それでいいだろ。俺は王太子でもないただの庶子、それも街をほっつき歩く放蕩息子だ」

「そういうわけには参りません。王城に戻られた以上は殿下も王族の立派な一員です。殿下がお体のお強くない王太子殿下を支えられて我らが王家が将来にわたって安泰であることを示すためには、殿下には今のうちから機会があるごとにその存在を諸外国に知らしめていただかねばなりません。戻られてから間もない現状では、殿下のことはまだ諸国には詳しく伝わっておりませんので」

「別に、王家の血を引いているのは俺たちだけじゃないだろ。他にも、はとこやら、みいとこやらがいるんじゃないのか。良く知らないけど」

「陛下の直接のお血筋はもはや王太子殿下と殿下だけです。陛下が御自ら殿下を王城に呼び寄せられたのです。是非はございません」

「ちぇっ」


 舌打ちすると、子爵のおっさんに睨まれた。


「殿下、良くお聞きください。閣僚や貴族の中には殿下の資質を危ぶみ、他国に嫁がれた王族のお血筋の方を呼び寄せておくべきと主張する者もいるのです。陛下は今のところ一笑に付しておられますが、殿下のお振舞い次第ではそのような声を無視できなくなるかもしれません。どうか、お慎み下さいますように」


 大真面目な顔で言われては、これ以上逆らう訳にもいかない。このおっさんの胃に孔を開けては気の毒だし。


「わかったよ、会うよ」


 コーレがそう答えると、子爵閣下は見るからにほっとした顔をした。さすがにコーレも気が差した。悪かったな、ごめんよ、と。


「で、どこで何をすれば良いんだ」

「御面会は、午後の第三鐘過ぎに、別棟の庭園でのお茶会の席で行われます。陛下への謁見が済んで準備が整い次第にお呼びしますので、控室で御待機ください」

「午後の第三鐘って、まだずいぶん時間があるじゃないか。まさかそれまでじっとしていろと言うのかよ」

「はい。殿下は行方をくらました前科が複数ある累犯でいらっしゃいますので」

「そんな犯罪者扱いを」

「街で置き去りにされて叱責された護衛兵の身になってください。殿下の身代わりに罰を受けたも同然ではないですか」

「それは悪かったよ。だからあいつらには謝ったじゃないか」

「謝れば良いというものではありません。そもそも、王子が謝罪しなければならないことがもってのほかです。良いですか、本日の御面会は陛下の厳命です。否応いやおうは問われておりません」

「わかったって。……じゃあ、部屋で着替えてくるから。それから控室に行けばいいんだな。他国からのお客さんに会うのなら、きれいな服を着ておかないといけないんだろ」

「おお、本当におわかりいただけましたか! そのようにお願いいたします。それから、御面会の時には王子らしいお言葉遣いをされますよう、お願いいたします」

「へいへい」

「殿下!」

戯言ざれごとだ。わかっている。他国の賓客の前で、陛下やそなたに恥をかかせることはせん。安堵せよ」

「ありがとうございます。くれぐれもお願いいたします」


 コーレが顔を引き締めて気取った声で言ってやれば、傅役は嬉しそうに頭を下げる。歩き出したら自室まで付いてきたので、着替えぐらいは自分一人でできると言って傅役も侍女も外に出し、こっそりと扉に錠を下ろした。


 クローゼットから着替えを出す。赤い軍服の礼装一式をすぐに着られるようにベッドの上に置いておく。今着ている普段着、とはいってもレースのピラピラの装飾たっぷりの服を脱ぐ。そして取り出すのはゆったりすっきりとした黒いシャツと体に合って動きやすい黒いズボン。どちらも街にいた頃に着ていた服でかなり色褪せて灰色と言った方が良いほどだが、かえって汚れが目立ちにくいのがちょうどいい。洗濯は自分付きの中で唯一気心が知れた、とても優しくしてくれる美人の侍女(と盛り上げておいて裏切るようで悪いが、育ての母よりさらにかなり年上だ)に頼んでいる。他の者に預けると、王子にはふさわしくないからと勝手に捨てられてしまいかねない。

 そして服と一緒にしまっている小さな白い笛を取り出す。通してある銀の鎖で首に掛ける。


 準備ができたところで大きな窓を全開する。良い風が入って来て白く長いカーテンが根元からふわりと靡き、半透明の薄く柔らかい布地がさらりと音を立てる。

 急がないと扉の外の者達にばれてしまう。


 胸を張って大きく息を吸い、笛を口にくわえる。竜の角でできた角笛だ。思い切り息を吹き込めば笛が震える。

 以前はコーレにもピリピリと空気がひりつくような音が良く聞こえたが、今はかすかにそれとわかるだけだ。多分、部屋の外にいる傅役や近衛兵のおっさん、侍女のおばさんには何も聞こえないはずだ。

 庭で飼われている犬が驚いて鳴いている。あいつらには聞こえているのだろう。そしてこの笛の鳴り音を誰よりも遠くから聞きつけられるのは。


 窓枠に足を乗せて立ち上がる。遥か彼方に現れた点が見る見るうちに大きくなって形を取る。


 犬の声で異変に気付いた傅役が「殿下? 殿下! だめです、お開け下さい!」と扉越しに声を掛けてくるが相手にしない。空を飛び来る灰色の物体の、翼が体が見えてくる。

 扉を開けようとして開かず、慌てて合鍵でガチャガチャと錠を解こうとする音が聞こえるが、バタンと扉を開けて「殿下!」と傅役が叫んでいるが、もう手遅れだ。コーレは窓枠を蹴って外に飛び出した。落ちた所は飛んできた大きな竜の背の上だ。


「殿下! お戻りください!」

「済まない! 茶会までには戻る!」


 窓から叫ぶ傅役に叫び返す。まだ何かを叫ぶ声が聞こえるが、もう遠くて聞こえない。


「ガルッ」と低い唸り声で『呼んでいるぞ、放っておいていいのか?』と尋ねてくる竜に「いいんだ。今日は本当にきつかったんだ。師匠のところで気晴らししたら戻るさ。それにお客さんとは初対面なんだ。折角遠国から来てくれるんだ、明るいいい気持で会う方がお客さんにも失礼じゃないだろ?」と答える。「ガルルル」と『お前は年中気晴らしばかりしているけどな。あの子爵閣下の方がよっぽど気苦労が多いだろ』と返してくる相棒と、そうに違いないと笑い合って飛び続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る