第6話 始まりの村(1)

「……そうですか、わかりました」

 ユーゴはアダムズ局長との電話を切り、スマートフォンをベッドサイドのテーブルに置いた。五冊の古書についての調査は、このヴェネツィアで終わった。大英図書館に五冊の古書を詰めたトランクを残したのは、アドルフォ・カッシーニという古書ディーラー。そしてそれらを蒐集していたのもアドルフォ自身だったことが明らかになった。

 彼はなぜ、ずっと売らずに置いていた古書を手放したのだろう。肝心のアドルフォは現在も行方がわからず、今のところ手がかりもない。局長はイタリア警察にも協力を依頼していると言ったが、凶悪犯でもない人間の捜索には彼らも消極的のようだ。ユーゴとしてはこのまま国内でアドルフォの足跡を辿りたいところだが、局長からは任務完了として一旦戻るようにと言われた。

「ここで仕事は終わりか……」

 ユーゴは腰かけていたベッドに倒れ、ため息をついた。期間にして、二か月ほど。成果はあったが、不完全燃焼の気分だ。

しばらくぼんやりしていると、ノックの音が聞こえた。ドアを開けて顔を出せば、ルチアーノがコートを羽織って立っている。

「夕食は外に出かけませんか?」

「いいな、散歩にでも行こうかと思っていたんだ」

 ヴェネツィアにいる時間も、あとわずか。せっかく来たのだから美味しい食事を楽しんだ方が得だ。ユーゴは道々、ルチアーノに局長と話したことを伝えた。彼も思うところはありそうだが、ひとまずは納得しているようだった。

「師匠を見つけないことには、謎は解けないようですね。突飛な行動をする人ではありますが人に迷惑をかけることはなかったので、不思議です」

「確かに、大英図書館に稀覯本を置いたら騒ぎになることくらい想像がつくはず――ルチアーノ、どうかしたか?」

 一点を見つめたまま、ルチアーノが突然足を止めた。彼はユーゴの腕をぐいと引っ張り、耳元に口を寄せる。

「エルメーテを見つけました。通りの反対側を僕らと同じ方向に歩いています」

「なんだって!」

 驚いてルチアーノと同じ方向に目をやると、確かにあの青年が歩いていた。悠々と、逃亡犯とは思えない余裕の足どりだ。どこかでほとぼりが冷めるのを待っていたのだろう。

「捕まえたいが、逃げ足が早そうだな。あちらはこの街の地形を知り尽くしているだろうし」

 しかし、ゆっくり作戦を考えている暇はなかった。何気なくこちらに視線をやったエルメーテと、ばっちり目が合ってしまったのだ。その途端、彼は弾かれたように駆け出した。

「追うぞ!」

「ディナーの前に?」

 ため息まじりの文句が聞こえた気がしたが、ルチアーノもしっかりついてきているようだ。二人いるなら、どうにか挟み撃ちできないだろうか。

 エルメーテは走りやすさを選んでか、人の少ない海の方へと向かっていく。途中運河に何度も目をやっているのは、手ごろなゴンドラがあれば飛び乗ろうと考えているのかもしれない。夜が深まり、今日の営業を終えたゴンドラは連なって岸辺に寄せられていた。

「……どこだ?」

 何度目かの角を曲がったところで、エルメーテの姿は消えた。ゴンドラに身を隠したのだろうか。いつの間にか、ルチアーノまで見当たらない。ユーゴはゴンドラの中を覗こうと、運河の縁に近づいて腰をかがめた。

「ユーゴ、後ろです!」

 声と共に、何者かが素早く近づいてくる気配を感じた。横に半歩ずれて伸びてくる手を躱したユーゴは、低い姿勢のままその手を掴み、柔道の要領で前方へと投げた。前方とはつまり、運河だ。派手な水音が立ち、波が周辺のゴントラを揺らした。

「あっぶねえ! 頭ぶつけたら死ぬぜ?」

 浮かび上がったエルメーテは、水の中からユーゴに抗議した。あの様子なら、大きな怪我はしていないだろう。

「一応ゴンドラに当たらないようには加減したぞ。それに、お前だって俺を落とそうとしたじゃないか」

 エルメーテは悔しそうに舌打ちした。どこかから現れたルチアーノが拍手している。

「君はどこにいたんだ」

「知り合いの家が近くにあったので、屋上のテラスから様子を見ていました。ちなみにヴェネツィアではそういった屋根の上のテラスを、『アルターナ』というんですよ」

 楽をしていたことには文句を言いたいが、正直ルチアーノが注意を促してくれなければ反応できていたかわからない。ともかく警察を呼ぼうと、ポケットからスマートフォンを出そうとした時だった。

 石畳を軽快に打つ足音が、背後で聞こえた。

「彼を、見逃してはいただけませんか」

 とっさに振り返ると、すらりと背の高い男性が薄く笑みを浮かべ立っていた。外灯の光を受けた髪色は珍しいプラチナブロンドで、どこか存在に現実味がなかった。年齢不詳の外見だが、しいていうなら四十代だろうか。

「クリス……?」

 ユーゴの横で、ルチアーノが呆然と呟いた。彼がここまで動揺しているところを見るのは初めてだ。クリスと呼ばれた男も、ルチアーノをじっと観察するように見つめていた。

「お久しぶりです、ルチアーノ坊il signorinoちゃん Luciano。お元気そうですね」

 爬虫類を思わせるぎょろりとした彼の目からは、感情が読み取れない。答えるルチアーノの声にはまだ、困惑が滲んでいた。

「あなたの方はどうですか? 叔父の下で働いていると、苦労が多いと思いますが」

 クリスは小さく息を漏らし笑った。

「ええ、無茶な仕事は多いですよ。兄のリエト様とは大違いです。しかし路頭に迷っていた私を拾ってくださった方ですから、大変感謝しております」

 クリスはネクタイの結び目に手をやりながら答えた。銃でも出てくるのではと警戒したが、違ったようだ。しかし続いた言葉は、まぎれもなく脅しだった。

「昔お仕えしたよしみで、忠告させていただきます。これ以上の深入りは、あなたの命を縮めますよ。叔父上のことはもちろん、アドルフォ・カッシーニのことも。おわかりいただけるようでしたら、何も言わず、この場を立ち去ってください。……ああ、心配せずとも、彼には相応の罰が下りますので」

 クリスはゴンドラから歩道によじ登ろうとしているエルメーテに目をやった。エルメーテはあからさまに怯えており、警察に逮捕されるより恐ろしいことが行われるのは間違いなさそうだった。

「……行きましょう、ユーゴ。ここで抵抗しても意味がありません」

 ユーゴは渋々頷いた。今や周囲にはクリス以外の気配が複数感じられた。さすがに全員を相手にして勝てる自身はない。退くしかなかった。

「ごきげんよう。こうしてお会いできたのも、神様の思し召しでしょうね」

 苦々しく立ち去るユーゴを、場違いに優雅な声が見送った。

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