第5話 水の都と時を渡る夢(6)

 日暮れから少し経った頃、ユーゴとルチアーノはヴェネツィア警察のボートに乗り込んだ。この街では、パトカーに相当するものも船だ。アダムズ局長がどう協力を要請したのかはわからないが、たった一人を捕まえるにしては警察官の数が多い。彼らの会話を耳に挟んだルチアーノの話では、大規模な窃盗組織を捕まえる、ということで盛り上がっているらしい。

「大規模といっても、メンバーの大半は子供だが……」

「子供でも、犯罪は犯罪です。大ごとにした方が彼らにもいい薬になりますよ」

 サン・ミケーレ島に向け出発した三艘のボートは、エンジンの唸りを響かせながらぐんぐんスピードを上げていく。太陽に照らされていた青い海は、深い藍色へと変わりつつあった。

 島の桟橋がおぼろげに見えてくると、ボートは速度を落とし、できるだけ静かに岸に近づいた。

「犯人は既にこの島に複数人いるかもしれません。くれぐれも気をつけてください」

 上陸後、ユーゴは気合の入りすぎている警察官たちに釘を刺した。彼らは大丈夫だと言うように、無言で親指を立てて捜索に向かった。

「ただ待っていても暇ですし、僕たちも捜しますか」

「目星はついているのか?」

「本を隠すのに適した場所となると、海の近くが怪しいと思います。船で運び出す場合、陸を移動する距離は短い方が楽でしょうから」

 それは一理ある。そうなると、墓地の中や教会の建物の中ではなく、船をつけやすいような場所だ。

 もともと夜に人が来ることを想定していないのか、島の電灯は少なかった。二人は借りた懐中電灯を手に、足場の悪い岸辺を進んだ。

「風の音だとはわかっているが、なんだか気味が悪いな」

 遮るものの少ない島を、風が吹き抜けていく。甲高い女性が悲鳴を上げているようにも聞こえた。

 その時、前を歩いていたルチアーノが足を止めた。

「……何か聞こえました」

「風か波の音じゃないのか?」

 ユーゴも足を止め、周囲を見ながら耳を澄ませる。微かだが、何かが絶えず岩場にぶつかるような音が聞こえた。音が鳴っている間隔は、波の動きと同じだ。

 やがて辿り着いたのは、海に突き出た岩場だった。二人は注意を払いながら、岩場を下った。海は黒々として見えず、打ち寄せる波の音が大きくなった。

 ほぼ海面と同じ高さまで下りたユーゴは、慎重に気配を探る。振り返ると、そこは洞窟になっているようだった。電灯をそちらに向けると、ゆらゆらと何かが動いた。人がいるのかと驚いたが、正体はすぐにわかった。

「なんだ、船か。これが波に揺れて岸にぶつかっていたんだな。……船?」

 ユーゴはルチアーノと顔を見合わせ、石が転がる岩場を越えて船に近づいた。船の中を覗くと、布に覆われた何かが載せられている。ユーゴは手を伸ばし、分厚い布を捲り上げた。

「……ビンゴだ」

 積まれた箱にはぎっしりと、本が並んでいた。



 洞窟には他に数隻の船が繋がれており、さらに岩場にも箱詰めの本が見つかった。待ち伏せていた警察官によって犯人たちも捕まり、墓場の島ではおそらく歴史上初めての快哉が響いた。犯人の中にはエルメーテという名の男もいたようだが、警察の捜索でも見つからなかった。うまく逃げおおせたらしい。

 数日後、ユーゴとルチアーノはマウロの家を訪ねた。彼の店の本は、やはり全て洞窟の中に隠されていた。ルチアーノの読み通り、高潮に乗じて盗み出したと犯人たちが供述したという。かくして、盗まれた本は全てマウロの元に戻ることになった。既に警察から連絡を受けていたらしいマウロは、二人を迎え入れるとわざとらしくため息をついた。

「まったく人が悪い。本が流されていないとわかっていて、あんなことを言ったんだろう?」

 あんなこととは、ルチアーノと交わした“奇跡”の話だろう。人が悪いと言われたルチアーノは、にこにこと答えた。

「そうじゃないかと期待していただけです。それで、奇跡が起きた感想はいかがです?」

「まあ悪くない気分だ。心臓には悪いがね」

 マウロは唇を歪め、肩をすくめた。

「あと、その件に関して彼があなたに謝りたいそうです」

 ルチアーノはそう言って、ユーゴの方を振り返った。ユーゴの背にすっぽりと隠れていた少年が、恐る恐る顔を出す。マウロの家を知っていた、赤毛の少年だった。彼は一つ息を吸うと、前に進み出た。

「ごめんなさい……。あなたの本を盗んだのは僕です。本当に……ごめんなさい」

 涙混じりの声で、少年はごめんなさいと繰り返した。ルチアーノが説明する。

「本を盗んだのは彼を含む複数人の未成年で、彼らに指示を出した大人がいたこともわかっています。全員警察に身柄を拘束されていますが、彼が謝りたいと言うので特別に連れてきました」

 マウロはゆっくりと椅子から立ち上がり、少年の前に立った。少年は怯えたように身を竦ませたが、逃げることはなかった。

「お前、名前は?」

「……ミアノ」

「そうか、ミアノか。毎日のように窓から見かけるのに、名前がわからんというのは気持ち悪かった」

 ミアノは驚いたように目を見開く。自分のことを知られているとは思っていなかったのだろう。

「これでも長く生きているからな、反省しているかどうかくらい、見ればわかる。しっかり怒られて、戻ってこい」

 拍子抜けした様子のミアノの頭を、ユーゴはポンと叩いた。

「良かったな。よし、戻るか」

 ミアノはユーゴに促されたが、意を決したように口を開いた。

「お店、またやるの?」

 潤んだ目で尋ねるミアノに、マウロは飄々と答える。

「まずは本を棚に並べなくてはな。しかし、ワシはこの通り老いぼれで力もない。何日かかることやら」

「じゃ、じゃあ、僕やるよ! 何でもやる、店番も!」

「本屋の仕事は、大変だぞ?」

 脅すような言葉にも、ミアノはめげなかった。マウロはそれを見て、カラカラと笑う。ユーゴにとっては初めて見た、屈託のない笑顔だった。

 ミアノが警察官に連れられて帰った後、ユーゴは一通の封書を懐から出した。

「警察の方にも手伝ってもらって、本を開いて調べました。ジャコモ氏から、あなたへの手紙です」

 マウロは震える指で、封書を受け取った。ペーパーナイフで、丁寧に開けていく。ユーゴたちは窓の外を眺めながら、マウロが読み終えるのを待った。

「こいつは、君が来たから見つかったのかもしれんな」

 笑い混じりの声と共に、マウロはルチアーノに便箋を見せた。内容に目を走らせたルチアーノが、なるほどと笑みを浮かべる。マウロの許可を得て、ユーゴも覗いた。余白の目立つ便箋には、存在感のある字が罫線を無視して自由に書かれていた。

――俺がいなくて寂しくなったら、アドルフォの坊やに言うこと。あの本は彼に預けている。

「アドルフォの坊やというのは、君の師匠のことか?」

 ユーゴの疑問に答えたのは、マウロだった。

「もう四十年以上の付き合いになるが、出会った時は今のルチアーノよりさらに若かった。俺たちからすれば、ずっと坊やさ」

 マウロは当時を懐かしむように、目を細めていた。心なしか、潤んでいるようにも見える。

「もう一度お尋ねしますが、『世界』はどうしますか?」

 ルチアーノの問いに、マウロは照れ隠しのように顔をしかめた。

「仕方ないから、手元に置いてやるか。店の再開まで生きていられるか、わからんが」

「生きてもらわないと、ミアノが泣いてしまいますよ」

 マウロは悪態をつく代わりに、ユーゴの背中を叩く。存外に力強く、安心した。

「あいつはあの時も、同じことを言っていたんだ。本は突き返しても、言葉はずっと残っているものだな。死んでからもまだ、俺を励まそうってのか」

 目元を乱暴に拭い、マウロは歯を食いしばった。ユーゴはルチアーノの目配せを受け、そっとマウロの部屋を出る。

 ジャコモが最後に書いた一文は、路地を歩いている今も余韻のようにユーゴの脳裏に響いていた。

――苦しい時こそ、夢を見るべきなんだ。

 たった一言添えられた言葉はまるで、ミオシュの詩の続きのようでもあった。

 ミオシュが絶望の中夢見た、平凡で幸せな日々。それがやがて現実になったように、マウロの見る夢――少年と書店を営む日々も、いつかきっとやって来る。何の保証もないのに信じたくなる力が、ジャコモの言葉には込められていた。

 アドルフォ・カッシーニが愛した物語とは、こういうことなのかもしれない。彼の意図はまだわからないが、一冊の古書を長い間守り続けた理由は、ユーゴにも少しわかるような気がしていた。

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