第6話 始まりの村(2)
路地裏の角にある「オステリア」は、程よい喧騒に包まれていた。日本の居酒屋のような位置付けで、気軽に料理と酒が楽しめる庶民的な店だという。他のテーブルやカウンターでは話が盛り上がっている一方、ユーゴたちのテーブルは沈黙の時間が多くを占めていた。運ばれてきたトマトソースのミートボールやほろ苦いラディッキオのソースがかかった鶏肉のソテーは間違いなく美味だったが、まだ半分ほどが残っている。
ユーゴは頬杖をつきぼんやりしているルチアーノに声をかけた。
「大丈夫か?」
「問題ありません。ちょっと食欲がないだけです」
「大問題じゃないか」
ユーゴは真剣に心配したが、ルチアーノはふっと小さく笑った。
「クリス……クリストフォロ・ブルーノは、両親が亡くなるまではうちの執事だったんです」
「なるほど、それで君をあんなふうに呼んだのか。しかし今は、君の叔父の部下として何やら後ろ暗い仕事をしているようだな」
ユーゴの目には、もう完全に“そちら”に足を踏み入れているように見えた。堂々と、その立場を楽しむ余裕すら感じられた。
「当時、彼はまだ二十代でしたが、なんでも卒なくこなす優秀な執事でした。僕が幼い時は子守りもクリスに任せていたそうですから、両親から信頼されていたのだと思います」
ぽつりぽつりと、ルチアーノは失われた日々を拾い上げるように語った。彼の脳裏には、二度と戻らない幸せな光景が浮かんでいるのだろう。
「実は、彼を見ていてなんだか違和感があったんだ。何に引っかかったのかよくわからないんだが」
思い返してみても、理由がわからない。首を捻っていると、ルチアーノが答えを思いついたように口を開いた。
「たぶんそれは、この前あなたに話した……いえ、やっぱり何でもないです」
「なんだ、気になるな」
少し食い下がってみたが、結局ルチアーノは言いかけたことを話そうとはしなかった。
「やはり、早いうちに解散するべきだな。クリスの口ぶりでは君の師匠もきな臭いことに巻き込まれているようだし、一般人である君を危険に晒すわけにもいかない。あとはインターポールや地元警察に任せよう。ひとまず君の師匠は健在のようだし、良かったじゃないか」
「……そうですね」
何か反論があるかと思ったが、彼は言葉少なに頷いただけだった。事態はユーゴ一人が動いて済む話ではなくなってしまった。また、デスクに座りっぱなしの日々に戻るのかもしれない。
「じゃあ、少し呆気ないですがここでお別れですね。お疲れ様でした」
ルチアーノが差し出した手を、ユーゴは握り返した。
「ありがとう、君のおかげでここまで来られた。新しいことがわかったら、すぐに連絡するよ」
唐突な別れは寂しくもあった。しかし元々、彼とは仕事のために共に行動していただけだ。感傷的になる方がおかしいのかもしれない。
「すべて解決したら、祝杯を上げよう」
「ええ、連絡をお待ちしています。くれぐれも、お気をつけて」
ルチアーノも明日にはヴェネツィアを出るという。適当に、国内の馴染みの古書店を巡るそうだ。
その夜、ベッドに入る頃になって、ユーゴはルチアーノが言いかけたことが気になり出した。旧知の相手の変貌にショックを受けたからかもしれないが、珍しく、何か迷っているように見えた。もう少ししつこく、尋ねるべきだっただろうか。
「まあ、明日の朝もう一度聞けばいいか……」
寝つけずにいたユーゴがようやくうとうとし始めた明け方、隣の部屋でドアの閉じる音が聞こえた気がした。
スマートフォンのアラームで目を覚ましたユーゴは、寝足りない頭を振って無理やり体を起こした。午前七時。ルチアーノはもう起きているだろうか。
支度を済ませて隣の部屋を見ると、ドアが開け放たれていた。嫌な予感がして部屋を覗くが、当然のように荷物がない。朝方、微睡の中で聞いた物音は彼が出て行ったときのものだったのかもしれない。
朝食のブッフェ会場にも、彼の姿はなかった。何かメッセージが来ているかと思いスマートフォンも確認したが、それもない。電話も繋がらなかった。
釈然としないままチェックアウトをすると、フロント係から預かっている物があると言われた。
「こちらをキリサキ様にお渡しするよう、リンフレスキ様より言付かっております」
「これは……」
四角いものが、美しく手触りの良い風呂敷に包まれていた。ユーゴは詳しくないが、この手触りはシルクではないだろうか。淡い緑のグラデーションが重なる生地に、桜が描かれている。フロント係の女性は日本のキモノのようだと見惚れていた。
中を開くと、封書が一通と、本が一冊。
「『ハムレット』……どうしてこれを……?」
以前、ルチアーノの荷物を勝手に覗いた時に見たものだった。あの時も思ったが、装丁を見るだけで高級品とわかる。古書だが美しく保たれており、大事に受け継がれてきたものに違いない。ルチアーノから中身について説明がなかったかフロント係に尋ねたが、彼女は戸惑った顔で首を横に振った。
引き取らないわけにもいかず、ユーゴは本を包み直し、自分の荷物の中にしまった。ロビーのソファに腰を下ろして、封書を開けてみる。
表書きは英字だったが、中に入っていた便箋は日本語で書かれていた。やや右上がりだが、整った字だった。
――こんな形でお別れする非礼をお許しください。できればきちんとご挨拶をしたかったのですが、それだけの時間もありませんでした。
僕のことであなたに話していないことが、いくつかあります。しかしそれらはすべて、近日中に明らかになるはずです。
あなたは思うところがあるかもしれませんが、答えに辿り着けずとも、充実した旅でした。古書にはそれぞれの物語があり、人から人へと渡ることで、新たな物語が作られていく。その一端に触れ、本の持つ力を目にできたことが、僕にとっては最も嬉しいことでした。
それから、「ハムレット」について。不躾なお願いではありますが、しばらく預かっていただきたいのです。あなたの中で区切りがついたと思えば、手放していただいて構いません。売るとかなりの額になると思いますが、あなたはどこかに寄付しそうですね。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。あなたのこれからが、幸多き日々でありますよう、お祈り申し上げます――。
ユーゴは指を震わせながら、封筒を畳んだ。なんだ、この手紙は。
ルチアーノが自らの意思で姿を消したことはわかった。しかしユーゴの捜査官としての勘が、激しく警鐘を鳴らしていた。この手紙。これはまるで――。
「遺書じゃないか」
この手紙に書かれた「お別れ」に、次はない。ルチアーノはもう、ユーゴと再会するつもりはないのだ。本を託したのも、その区切りをユーゴにゆだねる書き方も、自分がいなくなった後のことを指しているように思えてならなかった。しかし当然、このまま放っておくつもりはない。早く、彼を捜し出さなければ。
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