第5話 水の都と時を渡る夢(4)
「ルチアーノ、さっきの言葉だが、何か勝算があるのか?」
ユーゴは少し前を歩くルチアーノに声をかける。彼が何の意図もなくあのようなことを言うとは、ユーゴには思えなかった。ルチアーノは歩きながらちらりとユーゴを見ると、再び前を向いて言った。
「マウロの店の本はすべて流されてしまったと、あの青年は言っていました。でもそれって、不自然じゃないですか?」
「彼が嘘をついているということか?」
そうではない、とルチアーノは答えた。
「アクア・アルタで本が流されたということが、です。冠水して本がダメになったのならわかりますが、津波でもないのに何もかも流されるなんて、あり得るでしょうか」
「それはまあ、不自然かもしれないが……。じゃあ、何が起こったんだ?」
ルチアーノは足を止め、ユーゴを振り返った。
「盗まれた、というのはどうです?」
「盗まれたって、アクア・アルタの最中に?」
「ゴンドラや箱に本が積んであったのなら、持ち出すのはたやすいでしょう。近隣の人間は避難していたでしょうから、人目もありません。いわゆる火事場泥棒ですよ」
その時、ユーゴは先ほど道を尋ねた少年の不審な態度を思い出した。
「まさか、あの少年がどこで本が見つかったのか気にしたのは……」
「ええ、ごっそり盗み出した本が発見されたんじゃないか、と不安になったんだと思います」
あの幼い少年も、仲間だったということか。
「君の推理通りだとすれば、本は無事で、どこかに隠されているだけということだな」
ルチアーノが奇跡を起こすことに自信を持っていたのも、合点が入った。本が残っているのなら、ジャコモが本に挟んだらしい遺言書も残っているはずだ。
あの少年たちを捕まえることができれば話は早かったが、行きで見かけた場所にはいなかった。話しかけてきたユーゴを警戒していたようだし、今日はもう戻ってこないかもしれない。
「じゃあ、被害に遭ったという書店の方に行ってみましょう。カーラという女性がいる店ならわかります」
ルチアーノが案内したのは、マウロの家から歩いて五分ほどの古書店だった。店はペンキを塗り直すなど修繕をしたらしく、両隣の建物と比べると垢抜けていた。カーラとその夫は二人共店に出ていて、ルチアーノがマウロのことを聞くと、店のことで色々助言をもらったのだと話した。二人で古書店をやるのが夢で、三年ほど前に後継者のいない店を継いだのだという。
「万引き被害があったという話も聞きましたが、深刻ですか?」
カーラは綺麗に整えた眉をひそめて言う。
「そうなの、なかなか逃げ足が速くて捕まえられないのよ。一度、旦那が海の方まで追いかけたことがあったんだけど」
夫のグイドは愛想は良いが、筋骨隆々で強面だった。聞けば、退役軍人だという。
「あなたが追いかけても捕まらなかったんですか?」
ユーゴは思わず尋ねた。もし自分が万引き犯だったら、本を投げ出して謝るだろう。
「いや、捕まえたのは捕まえたんだが、本を持っていなかったんだ。二人組のうち、どちらも。俺は確かに、あいつらがバッグに本を突っ込む瞬間を見たのに……」
グイドは悔しそうにこぶしを握り締めて言った。
「あなたに捕まる前に、どこかに隠したということでしょうか」
ルチアーノの言葉にグイドも頷いたが、方法についてはまったく想像がつかないらしく、途方に暮れていた。
「奴らが海に出てすぐ、俺も追いついた。周りに怪しい奴はいなかったし、海岸に繋がれたボートに投げ込んだかと思って見たが、そこにもなかった」
盗品が見つからなかった以上、諦めて帰るしかなかった。しかし盗まれたのは確かで、それは店の中でも特に貴重な古書だった。
「やはり、盗み方も含めて大人が手引きしているんだろうな」
二人は店を出て、そのままグイドに聞いた道を通り海に出た。人通りはまばらで、ゴンドラや岸にいるカモメの数の方が多いくらいだった。
少年たちは、ここまで逃げてきた。しかし、捕まえた時にはもう盗んだ本を持っていなかった。受け渡したと思われる怪しい人間も見かけなかった。一体、どんなからくりなのか。
二人がそれぞれ考え込んでいると、どこかから聞き覚えのある声がした。声の方を向くと、岸壁から頭を出す青年の姿があった。どうやら、ボートの中に立っているようだ。
「ああ、さっきマウロの店の前で会った……」
ユーゴが言うと、青年は嬉しそうににっこりした。
「マウロの爺さんには会えたかい?」
「ああ、今会ってきたところだ」
ユーゴは答えたついでに、本泥棒の少年たちをこの辺りで見なかったか尋ねた。
「途中で、どこかに本を隠したんじゃないかと思っているんだが」
青年は見かけていないと答えたが、その少年たちのことは知っていた。
「観光客狙いのスリもやるし、小遣いが稼げれば何でもやるんじゃないかな。オレがアルバイトをしてる本屋も、何回かそいつらにやられてるよ」
青年がマウロのことを知っていたのは、彼が書店で働いているからなのかもしれない。ボートの中にいたもう一人の男性と言葉を交わすと、彼はユーゴたちに言った。
「さてと、出発だ。なんだか、あんたたちとはまた会えそうな気がするね」
自分の名前はエルメーテだと、彼は言った。彼の乗ったボートは、しぶきを上げ、岸を離れていく。ボートに載せられた意外な物に驚き、ユーゴはルチアーノに尋ねた。
「あれは、棺のように見えるが……」
大きな花輪も飾られていた。キリスト教の葬式ではよく見るものだ。
「ああ、ここから墓地に向かったんでしょうね」
ルチアーノは海の向こうに見える島を指差した。
「サン・ミケーレ島です。あそこには、ヴェネツィア市民の共同墓地があるんです」
土葬なので、衛生上の理由から墓を島に移したそうだ。ここからでも、島を守るように囲う城のような塀が見える。
「水の都では、霊柩車も船に変わるんだな」
「ええ。普通は遺族も船で一緒に島に向かうものですが……」
ルチアーノが遠ざかる棺を見ながら、寂しげに言う。
「もう、島で待っているのかもしれないな。あの棺の中にいる誰かの、妻か夫が」
ルチアーノは棺を見つめたまま、そうですねと小さく笑みを浮かべた。
夕暮れのオレンジ色が、海を染め上げる。そういえば、夕暮れ時のことを逢魔が時とも呼ぶのだったと、ユーゴは思い出した。“霊柩船”は自らも淡い色に染まりながら、飲み込まれないよう、船路を急いでいるように見えた。
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