第5話 水の都と時を渡る夢(3)

「歩いて三十分くらいですが、せっかくなので水上バスで行きましょうか」

 スマートフォンに表示された地図を見ながら、ルチアーノが言った。ヴェネツィア本島は車の進入ができないので、交通手段は徒歩か水上バスだ。目指す地区は島の東側にあり、一旦海に出てぐるりと回ることになるという。ユーゴたちは少し歩いて、海岸のバス停から水上バスに乗り込んだ。

「ヴェネツィアは六つの地区に分かれているんです。これから向かうカステッロは、六つの中で最大の面積ですね。住宅が多いので、比較的観光客の少ない静かな地域ですよ」

 風を切って進む水上バスに揺られながら、ルチアーノが言う。海岸沿いのオープンカフェやレストラン、街を行く観光客たちは、船から見るとまるで映画のセットのようだ。岸に並ぶボートが、光る波間に揺蕩っていた。

 水上バスを降りると、ユーゴが想像していたより緑豊かな風景が広がっていた。ところどころに教会などの大きな施設も見えるが、確かに人が少なくて落ち着いた雰囲気がある。これなら人ごみに揉まれることなく店主の家に辿り着けるだろうと思ったが、別の問題が発生した。雑貨屋の女性が教えてくれた住所は、番地の途中までしかなかったのだ。

「確かに、やけに短いなあとは思ったんですけどね」

 ルチアーノが苦笑しながら言う。

「地元の人間に聞いてみるしかないな」

 ユーゴは辺りを見回したが、ちらほら見えるのはバックパックやスーツケースを持った観光客ばかりで、あとはシャッターの下りた店の前でたむろしている少年たちくらいしかいなかった。子供でも近所のことは知っているだろうと、ユーゴは近づいていく。しかし、彼に気づいた少年たちは逃げるように散り散りにいなくなってしまった。一人だけ、状況が理解できていないらしい少年が取り残されている。

「顔が怖いんじゃないですか?」

 後ろからルチアーノがからかうように言った。ユーゴは慣れないイタリア語で、彼に老店主の名前を伝え、家を知らないかと尋ねる。

 赤毛の少年はおずおずと、知っていると答えた。

「あの人に何の用?」

 どう説明しようかと迷っていると、ルチアーノが代わりに答えた。

「彼の店の本が余所で見つかって、届けに来たんだよ」

 少年はそれを聞いて、なぜかはっとした顔になった。

「その本は、ど、どこで見つかったの?」

「外国の、図書館で見つかったものだけど……」

 ルチアーノは怪訝な顔をしたが、少年の方は明らかにほっとした様子だった。

「あの人の家はね――」

 少年に教えられた通りに路地を進んでいくと、それらしき家が見えてきた。このあたりも、狭い路地が多く道に迷いそうだ。

「ここの二階のようですね」

 ルチアーノが細く開いた窓を見上げて言う。一階は食料品店だったようだが、歪んだシャッターや落書きから見て、今は営業していないのだろう。

 急な階段を上ると小さな踊り場があり、その先にドアがあった。表札は出ていない。ルチアーノは控えめにノックしたが、返事がないのでさらに数回、強く叩いた。

「開いているよ!」

投げやりな声が聞こえて、ルチアーノはドアを開ける。中にいた老爺は驚いた顔をして、もごもごと気まずそうに呟いた。

「失礼、何日かに一度様子を見に来てくれる女性がいて、彼女だと思った。君の顔は覚えがあるな。何度か店に来た……」

「ええ、覚えていただいて光栄です」

 ルチアーノが名乗ると、彼はそうだったと何度も頷いた。

「君のおかげで、面白い本がいくつも手に入った。感謝しているよ。しかし、情けないことに……いや、ここに来たということは、事情は知っているか」

 マウロは肘掛椅子からゆっくりと立ち上がり、家に入るように言った。歓迎されているとまではいかないが、門前払いするつもりはないらしい。

 ルチアーノはマウロに、「世界」が見つかったことを話した。ユーゴが本を取り出して見せたが、反応は薄いものだった。

「皮肉なものだな、消えてくれと願った本が残って、店にあった本がなくなるとは」

「消えてくれと願った?」

 聞き間違いかと思ったが、ルチアーノにも同じように聞こえているようだった。一体どういう意味だろう。マウロは淡々と言った。

「そいつは店の共同経営者だったジャコモが昔、俺にくれようとしたものさ。借金して始めた古書店が売り上げの持ち逃げで潰れて、どん底だった頃だ。あの時俺は本を見ることすら嫌になって、その本を突っ返した。蔵書印のところに焼き鏝の跡があるだろ? ジャコモが勝手に蔵書印を押して、俺がその後どうにか消そうとした跡だ。売るためには不要なものだからな」

「でも後に、あなたはそのジャコモと共に同じ蔵書印の古書店を始めたんですよね」

「俺は本屋なんてやめて、職を転々としながら気ままに働いていたんだ。だがジャコモがうるさくてね、六十になったのを機に、折れて共同経営者をやることにした。蔵書印がそのままなのは、一からデザインするのが面倒だっただけさ」

 マウロは薄い笑みを浮かべ、他人ごとのように語った。穏やかに見えるのは、何もかも諦めてしまったからなのかもしれない。感情を表すことにも、エネルギーは必要なのだ。

「調査が終われば、この本はあなたの元に戻ると思いますが……」

 ルチアーノの言葉を遮るように、マウロは首を振った。

「ジャコモが生きていれば喜んだだろうが、あいつももう墓の下だ。君に譲ろう。その本にとっても君にとっても、悪い話じゃないはずだ」

 ルチアーノは静かに頷き、尋ねた。

「それで、ジャコモが本を売った相手はご存知ですか?」

「俺は知らん。ジャコモから聞いた記憶もない。もう四十年以上前のことだ、あいつも忘れていたんじゃないかね。覚えていたとしても、死んだ人間から聞き出す方法なんて……」

 マウロは何かを思い出したように、はっと息を飲んだ。しかしすぐに、諦めたように首を振った。

「やっぱり無理だな。あいつが入院する前、冗談めかして言っていたんだ。店の古書の中に、自分の遺言書を隠したと。宝探しだと思って探せだなんて面倒なことを言っていたが、本は全て流されてしまった。遺言書とやらも水の底だろうな」

 ユーゴは胸が押しつぶされる思いだった。神がいるのなら、ずいぶん非情なことをするものだ。逆境を乗り越えた者から、友を奪い、彼との思い出の詰まった店まで奪うとは。かける言葉を見つけられなかった。

聞くべきことは聞き、用事は済んだはずだが、ルチアーノは別の話題を持ち出した。

「この家の場所がわからなくて、近所の子供に聞いたんです。赤毛の、目の大きな男の子でした」

 マウロはそれを聞くと、吐き捨てるように言った。

「ふん、あれは悪ガキどもだ。近くの本屋がしょっちゅう被害に遭っとる」

 予想外の言葉に、ユーゴとルチアーノは顔を見合わせる。

「万引きした本を買い取る輩がいるんだ。カーラ――俺を気にかけてくれる女性だが、彼女と旦那の店もやられたと言っていた」

 少年たちに盗ませて本を売りさばく、不届き者がいるということだろう。滞在中に見かけたらついでに捕まえてやろうと、ユーゴは決めた。

 帰り際、ルチアーノは見送りに立ったマウロに言った。

「もしなくなった本たちが見つかったら、もう一度店を開けてくださいますか?」

 かつての店主をまっすぐに見据え、ルチアーノは問いかけた。彼は口元を歪め、ほんの微かな笑みを浮かべる。

「そんな奇跡のようなことが起こるなら、開ける気になるかもしれないな」

 ルチアーノはそれを聞いて、にっこりと笑う。

「わかりました。では、奇跡をご覧に入れましょう。それまで、くれぐれもお体を大切に」

 マウロは愛想笑いを浮かべ、家のドアを閉じた。

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