第5話 水の都と時を渡る夢(2)

 ヒースロー空港から二時間ほどのフライトを終え、ユーゴたちはテッセラ空港に到着した。空港からはバスが出ており、機内からうっすらと雲の下に見えた、ヴェネツィア本島を目指した。

 バスは三十分ほどで、終点のローマ広場に到着した。今日は平日だが、イタリア有数の観光地らしくたくさんの人で賑わっている。

「目指す店は、ここから近いのか?」

 ルチアーノは歩いて二十分ほどだと答えた。

「南に下って、小さな運河をいくつか渡った先です。養父母の店も以前近くにあったので、案内は任せてください」

 ルチアーノの後について、ユーゴは街の様子を眺めながら歩く。初めてヴェネツィアに来たユーゴにとっては、目に入るものすべてが新鮮だった。

 水の都ヴェネツィアを走る、大小の運河。その数は百五十以上あり、架かる橋の数も四百を超えるという。大きな運河に架かる橋の下を水上バスやゴンドラが行き交う様子は、まさにユーゴがイメージするヴェネツィアの街だった。

三つ目の小さな橋を渡りきると、また別の運河が見えた。その手前に、細い路地が一本延びている。覗き込むと、晴れた昼間であっても薄暗かった。建物が左右から迫って来るように感じられるほど狭い。ルチアーノは何かを確認するように左右の壁を見て、その路地裏に足を踏み入れた。

「今、何を見ていたんだ?」

「壁の模様というか、カビの生え方ですね。他に目印になるものがないので」

 黒カビのはびこる壁をまじまじと見るユーゴを見て、ルチアーノが吹き出す。

「この街は立地上、湿度が高いでしょう。これだけ建物に囲まれた道だと、一日中陽が射さないところもあります。あまり良い環境ではないでしょうけれど、なんだか非日常に繋がっているようでワクワクしませんか?」

 言いたいことはわからないでもない。こんな路地裏に忽然と店が現れたら、何か不思議なことが起きそうな気がしてくる。

「そこの角です」

 息を潜めるように続いていた路地で、その店は一際ひっそりと建っていた。外壁のコンクリートはひびが入り、木製のドアも年月を経て黒光りしている。木枠にガラスがはめ込まれただけの簡素なショーウィンドウは、埃のせいか白く曇っている。しかも、ショーウィンドウには本が一冊も飾られていない。

「あれ、閉まっているみたいですね」

 店の前に立ったルチアーノが、店内を覗き込みながら言う。ドアには鍵がかかっており、中も暗い。

「定休日なんじゃないのか?」

「いや、何度か来たことがありますが、店はほぼ毎日開けていると店主が言っていました」

そうなると、稀な休みに当たってしまったか、体を壊してしまったか、というところだろうか。どうしようかと思案していると、通りがかった青年に声をかけられた。

「その店なら、二か月くらい前から休業中だよ。もしかすると、もう再開はないかもしれないな」

 彼はユーゴたちを観光客だと思ったのか、英語で言った。

「店主に何かあったのか?」

 ユーゴが尋ねると、青年は首を横に振って言った。

高潮アクア・アルタさ。この前のは特にひどくてね」

「ああ、ニュースで聞いたな。気候変動のせいで、年々浸水被害が深刻になっている、と」

「汚職で防波堤整備が遅れたっていうのも、原因の一つだろうけどね」

 青年は肩をすくめる。

「ここの親父さんだって、きちんと対策はしていたんだ。使わないゴンドラを借りてきたり、木箱を用意したりして、そこに本を入れてね。でも、運の悪いことにそのゴンドラや箱ごと流されて、本が全部なくなってしまった。今頃、海か運河のどこかに沈んでいるかもしれない」

「全部……」

 ユーゴはため息と共に呟いた。それは心が折れてしまっても仕方がない。

「店主の家は、ご存知ですか?」

「さあ、そこまでは……。でも、近くの店の人間は知ってるんじゃないかな」

 青年は付近の家や店を示して、にこやかに言う。ユーゴがそうしてみると答えると、頷いて去って行った。

 青年の助言を受け、二人ははす向かいの雑貨店を訪ねた。その店には六十歳前後の女性がいて、彼女も古書店を襲った悲劇を知っていた。

店主の名はマウロといい、去年の夏に共同経営者の友人を亡くし、さらにこの前のアクア・アルタで気力を完全に失ってしまったのだという。空の本棚を一から埋めるのは、気の遠くなる仕事に違いなかった。

 店主は閉店後に引っ越したが、雑貨店の女性は新しい住所も知っていた。本島の東側に位置する、カステッロという地区らしい。

「そっちの方が墓参りしやすいからって言ってたね。刺激がないとボケちゃうかもしれないし、会いに行ってやってくれないかい?」

 彼女は心配を覗かせながら、冗談めかして言った。

 そのままカステッロに向かうこともできたが、昼時なのでランチをとってからにしようとルチアーノが言った。

「ヴェネツィアは良い店が多いですが、中でもオススメは魚介類です」

 ルチアーノは目を輝かせてユーゴに熱弁する。

「君といると、食事に失敗することはなさそうだな」

「ええ、それなりに自信はありますよ。この調査が終わったら、グルメ旅行でもします?」

「……いや、やめておく。君に合わせると胃が破裂しそうだ」

 うっかりそれも悪くないと思ってしまったのを、ユーゴは肩をすくめてごまかした。ルチアーノが選んだのは、運河沿いの小さなレストランだった。L字のカウンターの他に、テーブル席が三つだけ。運良く席が空いて、入ることができた。

 最初に運ばれてきた前菜は魚介の盛り合わせで、生の白身魚やエビをシンプルにオリーブオイルと塩で味付けをしてある。グランセオラというカニの一種もヴェネツィアならではの食材らしく、茹でてほぐされた身が甲羅に詰まって出てきた。こちらもオリーブオイルと塩コショウ、そしてレモンが使われているだけで、素材の味が生きている。

 どちらも、文句なしに美味だった。その後も衣がサクサクのシーフードのフリットやホロホロと口の中で解けていくニョッキと続き、夢中で食べ進めていた。その様子を眺めていたルチアーノが言う。

「気に入っていただけたようですね」

「ああ、こんな料理が毎日食べられるなら、イタリアに住むのも悪くないな」

「イタリア人としては、嬉しい言葉です」

 ルチアーノの方は大皿のボンゴレビアンコを平らげたところで、追加でティラミスを注文していた。

「そういえば、五冊目の本について君の解説を聞いていなかったな。どういった本なんだ?」

「チェスワフ・ミウォシュの『世界』ですね。少し目を通されましたか?」

「パラパラと。詩集だったから、そんなに時間はかけていないが」

 どんな印象を持ったかと問われ、ユーゴはしばらく考えてから答えた。

「穏やかな、日常の描写が多かったな。なんだか、子供の頃に絵本を読んだ時と同じような感じがした。レオ・レオニや、日本では『ぐりとぐら』のような……」

 あまりうまい表現が思いつかなかったが、ルチアーノには伝わったようだった。

「そうですね、僕も子供を見守る父親のような、優しい視点を感じました。でも、あれらの詩が書かれたのは第二次世界大戦の最中だったんです。ドイツ占領下の、ワルシャワでした」

「……それは、まったく想像していなかったな」

 ユーゴは世界史の授業の、おぼろげな記憶を辿った。

「ワルシャワでも、大勢のユダヤ人が収容所に連れていかれたんだろう?」

「ええ、彼らは勝ち目のない武装蜂起の末、ドイツ軍に鎮圧されました。当時ミオシュはワルシャワ郊外に住んでいて、夜に彼らの叫びを聞いたと記しています。殺されていく何千人もの叫びで、血が凍りついたと」

 そしてワルシャワは、有刺鉄線と強制連行により廃墟と化した。ミウォシュ自身が武器を取って戦うことはなかったが、彼より若い世代の詩人たちの中には、兵士として蜂起し命を落とした者もいたという。

「でも、彼は別のやり方で戦っていたともいえると思います。詩人として、詩を書くという方法で。彼自身、あの時期にワルシャワで『世界』を書いたことは奇妙なことだったと語っています」

――これは、世界はいかにあるべきか、という問題を巡る詩なのです。

 ミウォシュはそう言った。批判の声を上げるのではなく、あるべき世界を描くことで、抵抗したのだ。

「しかし、そんな意図を持った本を普通に出版できたのか?」

「ドイツ占領下ですから、表立っては難しい状況でした。ロンドンに亡命したポーランド政府が、秘密裏に資金援助を行っていたという証言もあります。いわゆる地下出版ですね。本に偽名が記されていたのも、目をつけられないためでしょう」

 ミウォシュはある社会主義地下組織に所属しており、ポーランドの詩人たちのアンソロジーや、ポーランド語への翻訳などでも地下出版に関わっていたという。

「地下出版のための組織は、屋根裏や地下室、農家の納屋などで印刷を行っていたと聞きます。もちろん、見つかれば逮捕や処刑に繋がることもありました。それでも、彼らは新聞やポスター、そして本を印刷し続けたんです」

「それもきっと、戦い方の一つだったんだろうな」

 その叫びは、耳には届かない。しかし、心には響く。『世界』もまた、音のない声だった。必要とする誰かに届けという、必死の叫びだったのだ。

 希望、願い、祈り。そんな言葉が、ユーゴの頭に浮かんだ。戦争という先の見えない暗闇の中で感じる、かすかな光。未来を諦めないために、ミウォシュは原風景に立ち返ることを選んだのかもしれない。

「あの本の装丁は、粗末なものだった。他の四冊とはずいぶん違うと感じたが、そういった経緯だったんだな」

 ルチアーノは運ばれてきたティラミスを掬い上げながら、でも、と付け加えた。

「古書の値段は辿った歴史によって決まりますが、内容の評価はまた別の話だと思います。あなたが彼の詩を読んで子供の頃を思い出し、心が温まったのなら、作者としては高い値がつくより価値のあることでしょうね」

「何も知らなかったおかげで、純粋に詩だけを楽しむことができたわけだ」

 ルチアーノが満足そうに頷く。その言葉はたぶん、ディーラーとしてではなく一介の本好きとしてのものなのだろう。だからこそ彼は、図書館の司書や古書店の店主たち取引相手に信頼されているのかもしれないと、ユーゴは想像した。

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