第5話 水の都と時を渡る夢(1)

 ユーゴはヘイ・オン・ワイのホテルの部屋で、今回の件をアダムズ局長に報告していた。

「リシャールたちの組織はネットを中心に盗本を売り捌いていたそうです。ナポリに拠点があり、今回はそこに運ぶ途中で行き合ったようですね」

「ナポリという場所柄を考えると、リシャールとやらのボスも裏社会の人間かもしれないな。地元警察に情報を提供しておこう。ロンドンに続き、お手柄だ」

 局長は上機嫌にユーゴを褒めた。

「それで、君たちの次の行き先は決まったのかい?」

「ナポリではありませんが、我々もイタリアに行くことにしました。ヴェネツィアです」

 最後の一冊は、ルチアーノによればヴェネツィアの古書店のものだという。五冊の古書に関係しているのも、「アルキーヴィオ」と名乗るイタリア人の男だ。イタリアに行けば、きっと正体に近づける。

「ふむ、やはりイタリアか……」

「あの、ロンドンでお話した時も、何か引っかかっておられるように感じたのですが……」

 控えめに切り出すと、局長は肯定した。

「大英図書館の防犯カメラに映った、トランクを手にした男の映像解析が終わった。顔がはっきり判別できるようになって、司書のうち何人かがその人物を知っていると言ってね」

「それは良かったじゃないですか。その男を見つけて、事情を聞けば解決だ。我々の仕事はここまでというわけですね」

 想像していた結末だが、いざそうなると少し寂しい気もする。ユーゴは早くもここまでの旅の回想を始めていたが、それを遮るように局長が言った。

「いや、その男がイタリア国内にいることは確実だがね、行方知れずなんだよ。それに、問題がもう一つある。男はアドルフォ・カッシーニという古書ディーラーで、彼は――ルチアーノの師匠に当たる」

「そんな……」

 イタリア人と聞いても、ルチアーノと繋がりがあるとまでは想像していなかった。そういえば、彼からつい最近、師匠の話を聞いたはずだ。

「ひと月半ほど前に、彼の家が火事で焼けたと聞きました。大英図書館に本が持ち込まれた時期と重なりますが、何か関係があるのでしょうか」

「まだわからないな。しかし何者かが故意に火を放ったとすれば、君も用心するに越したことはない。ルチアーノのことも、ある程度警戒すべきかもしれない」

「ルチアーノを疑っているんですか?」

 思ったより大きな声が出て、ユーゴは自分が動揺しているのを実感した。宥めるように、局長が言う。

「可能性の一つ、ということだ。弟子である彼なら、アドルフォの服装や体型も当然知っていたはずだ。しかし男がイタリア人だとわかっても、彼は君に自分の師匠かもしれないとは言わなかった。意図的に隠したのではないかと疑うことは、自然だと思わないかい?」

 アダムズ局長の意見は尤もだ。だが突然そんなことを言われても、感情がついてこない。黙り込んだユーゴを、局長は穏やかな声で諭した。

「私もルチアーノが悪人だとは考えていない。ロンドンでも彼は君を助けてくれたからね。もし隠しているのなら、きっと理由があるのだろう。とにかく、何が起きても対応できるよう、注意は怠らないでほしい」

 電話を切った後、ユーゴは体が重くなったような気がした。色々あったが、調査はきちんと前進している。ここまで来てルチアーノを疑うのは、せっかく築いた関係を壊してしまうことと同じように思えた。

 ユーゴは部屋の角に置かれた、ルチアーノの荷物に目を留めた。スーツケースに、鍵はかかっていない。

 今、彼はバスルームでシャワーを浴びている。まだ水音が聞こえているから、あと数分は時間があるはずだ。

「疑うわけじゃない、確認だ……」

 言い訳するように呟き、スーツケースの蓋を持ち上げた。荷物はあまり多くない。各国の気候に合わせるためか、服は冬物と薄手のものが入っていて、洗面道具や救急セットのようなものがきちんと袋に整頓されていた。スタンプでにぎやかなパスポートにも、特におかしなところはない。本も数冊あり、その中に目立つ古書が一冊あった。

「これは……『ハムレット』か」

 一目見て、豪華とわかる装丁だった。一応表紙を開いて見てみたが、傷をつけるのではないかと不安になり、すぐにしまった。

 サイドテーブルに無防備に置かれた財布も覗いたが、特にアドルフォとの繋がりを示す証拠はなかった。シャワーの水音が止まったところで、ユーゴは何食わぬ顔で元の椅子に腰かけた。

 就寝前に、二人は明日の予定を確認した。一旦ロンドンに戻り、ヒースロー空港からヴェネツィアのテッセラ空港へ。明日の朝一番のバスで、この街を出ることにした。

「五冊目の本があった店は、ヴェネツィアの古書店だったな」

「ええ、残っていた蔵書印は一部ですが、間違いありません」

 彼がそこまで言い切れるのは、その蔵書印が特殊だったからだ。インクを付けて判を押したものではなく、エンボス加工――浮き出し印だった。表紙を開けて現れる見返しの遊びに、印が浮き上がっている。

「見えづらくなっている部分は、消そうとした跡でしょうね。焼き鏝を押し当てると消えると聞いたことがあります。ただ、自然に見せるには技術が必要なので――」

「かえって傷がつきそうになり、諦めたというわけか」

 浮き出し印の周囲には、焼け焦げたような跡が残っている。鏝を熱しすぎたか、長時間当てすぎたのだろう。ルチアーノの注釈を聞きながら、ユーゴは彼の横顔を窺った。

 ルチアーノの様子は、いつもと変わりない。彼がアドルフォの指示でインターポールに協力したとして、その理由は何だろう。あるいは、「アルキーヴィオ」の正体がアドルフォだと気づいて、隠す理由は? しばらく考えてみたが、それらしい答えは見つからなかった。

「どうかしましたか、ユーゴ?」

 ルチアーノが首を傾げ、ユーゴを見ていた。

「チョコトリュフとショートブレッドならありますよ」

「寝る前にそんなものを食べるのは君くらいだし、別に空腹なわけではない。俺が考えていたのは……」

「いたのは?」

 ごまかすのも面倒になり、ユーゴは言った。

「その、古書ディーラーというのは、互いに連絡を取り合ったりしないのか? 例えば、師匠と」

 ルチアーノは自分のベッドに座り直すと、合点が入ったというように小さく頷いた。

「なるほど、僕と師匠が繋がっているのではないか、ということですね。あなたたちは、五冊の古書を集めたのがアドルフォ・カッシーニであると結論づけた」

「君も、そう思っているのか?」

「可能性はあると思いますよ。年齢や服装に加えて、本を集める理由も……あの人ならすべて当てはまります。彼は古書と同じくらい、古書がもつ『物語』が好きな人でしたから」

「古書がもつ、物語……」

 確かにこれまでの四冊は、関わった者たちの人生に良くも悪くも大きな影響を与えていた。行き場を一度失った本が、時を経て新たな意味をもち、求められる。多くの古書とその持ち主たちを見てきたアドルフォは、それを見抜いていたのかもしれない。

「僕の荷物を見ていたのも、それが理由ですか」

 気が緩んだ隙を突くように、ルチアーノが尋ねる。ユーゴは内心息を呑んだが、平常心を装うよう努めた。ベッドサイドに転がっていたボールペンをいじりながら、何のことだと質問で返す。

「シャワーを浴びた後に荷物を見たら、本に挟んでいた栞の位置が変わっていました」

「そんなはずはない。本はほとんど――」

 触っていない、と言いかけて、ユーゴは自分の失言に気づいた。

「バスルームのドアの閉め方が甘かったみたいで、シャワーカーテンの隙間から少しだけ外が見えたんです。ほら、ちょうどドアの斜め前に姿見があるでしょう」

 そこに、荷物を漁っている姿が映っていたというわけか。ユーゴは頭を抱えて落ち込んだが、ルチアーノは鼻で笑って一蹴した。

「不器用なくせに、向いてないことをするから失敗するんですよ」

「言うな。自分が一番わかってる」

 しかしルチアーノは追い打ちをかけるようにさらに指摘した。

「あなたは嘘をつく時、手近な物をいじる癖があるようですね。これは行動心理学で『なだめ行動』といわれていて、鼻の周りに触れたり、近くにある時計やネクタイなどをいじったりするのは一般的な仕草のようですよ」

 まさに今、ユーゴは近くのボールペンに触れていた。白旗を上げるしかない状況に、ユーゴは頭を下げた。

「すまなかった、君の言う通りだ。君が敢えて師匠のことを言わなかったのではないかと疑ったんだ」

「……まあ、疑うのももっともですね。そこは、僕にも非があると思います」

 ルチアーノは笑みを引っ込めてユーゴに向き直った。

「正直なところ、大英図書館の件を知った時から、僕は師匠が絡んでいるかもしれないと考えていました。すぐに連絡を取ろうとしましたが応答がなく、そうこうしているうちにインターポールから知り合いの司書経由で調査の依頼を受けたんです」

「ちょうど彼が火事に遭った頃だな。連絡を取れないような状況だったということか……」

「その時は、僕と話したくないだけだと思いました。理由はわかりませんが、ここ数年やけによそよそしかったので」

「だが、局長の話ではカッシーニ氏は今も行方がわからないそうだ」

 重い沈黙が、部屋に落ちる。もしかするとアドルフォはもう、この世にはいないのでは。口にしなかったが、どうしてもその考えが頭をかすめた。

「僕は師匠の居場所も、彼の意図も知りません。隠していることはありませんよ。疑うなら、あなたも嘘を見抜く練習をしてみては?」

「確かに、練習にはいい機会だな」

 ユーゴはそう言いつつも、あまり疑う気がなかった。捜査官としては、疑う方が正しいはずだ。何せ彼は詐欺も窃盗も日常茶飯事の業界にいる人間で、ユーゴと違い、嘘もはったりも得意分野だろう。今この瞬間も、欺かれているのかもしれない。それでも疑いたくないのは、共に世界を旅しているうちに情が湧いてしまったからだ。かつての自分ならこれも警察官の宿命だと割り切れたが、どうにも切り替えられない。

「……もう寝るか」

「そうですね、明日も早いですから」

 もう少しルチアーノに聞いておくべきことがあるようにも感じたが、結局考えがまとまらなかった。本当に、彼の言うことを信じて大丈夫だろうか。ユーゴは灯りの消えた部屋の中、しばらくモヤモヤとしていたが、やがて意識が闇に溶けるように眠りに落ちていった。

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