第4話 花売りの初恋(6)

 翌朝、早めに朝食を終えた二人は、三度「HAY WASTELAND books」を訪ねた。リリーと立てた作戦のことを持ちかけると、二つ返事で協力を引き受けてくれた。

「うちの店にあった本のことだし、何より面白そうだ」

 店主のハロルドはうきうきと、ブックフェアの露店スペースに本を並べている。

「リリー、窮屈だと思うが、大丈夫か?」

 ユーゴは本棚の暗幕が掛けられたあたりに向かって声をかけた。すぐに、明るい声が返ってくる。

「手足は動かせるし、立っても頭はぶつからないから平気よ。それより、お喋りしちゃいけないのが大変だわ」

 本棚は中板を取り去り、小さな椅子を入れてある。彼女はそれに座っているはずだが、もちろん外からは何も見えなかった。

 昨日彼女が提案した作戦とは、名前以外の手がかり――彼らの声――を使うことだった。店に囮として本を置き、店主に話しかけてきた声がもし彼らのものだったら、暗幕の中からリリーが店主に教えるのだ。

「寒かったらすぐに言うんだよ」

 ハロルドの呼びかけにも、リリーは大丈夫だと応じた。ユーゴとルチアーノも準備を手伝い、ブックフェアの開始と同時に店もオープンした。周囲には小島のように露店が点在していて、客たちは目を輝かせながら見て回っている。ユーゴたちも客に紛れ、店が確認できる範囲を周回していた。

 「TRAVELS IN EUROPE」は、店の目玉の一つとして目立つ場所に飾られていた。本に値札はなく、「傷あり、値段応相談」と書いた紙が貼り付けられている。これで、確実に客の声が聞けるはずだ。

「ジュードと、彼を捜す男……。どちらが現れると思う?」

 適当な店で本を眺めるふりをしながら、ユーゴはルチアーノに聞いた。ルチアーノも、本を手に取りつつ答える。

「さあ、どうでしょう。ジュードが危険を冒してこの街に戻る理由が、あるかどうか。僕としては『冷たい声の男』に、あの本を誰に渡したのか聞きたいところですが」

 同じことを、ユーゴも期待していた。しかしリリーの方は、今すぐジュードの無事を確認したいと思っているだろう。仕事を後回しにするつもりはないが、調査に協力してくれた彼女のためにジュードを見つけてやりたかった。

 結局午前中は何も起こらず、午後も穏やかに過ぎていった。日没が迫り、淡いオレンジ色の光が本を照らしている。店によっては音楽を流していたが、明るいアップテンポの曲はしっとりとしたバラードに変わっていた。

 一日中棚の中にいたリリーは、大丈夫だろうか。そろそろ声をかけようかと、ルチアーノと話していた時だった。

 聞き馴染みのあるメロディが、あの本を置いた店から流れてきた。ユーゴが生まれるずっと前に解散したにもかかわらず、今でも愛され続けているイギリス出身の伝説的なバンド。彼らの、代表的な曲の一つだった。

「Hey Jude……」

 意味に気づいた時、ユーゴは膝から崩れ落ちそうになった。思わずハロルドを見ると、彼は横目でこちらを見て、得意げににやりとした。隣ではルチアーノが笑い続けている。

「どうやら、リリーの願いが通じたようですね」

 ユーゴは彼の視界に入らない位置から、ジュードを観察した。髪型が野暮ったいせいか、あまり清潔そうに見えなかった。それに、頬がこけて目も窪んでいる。突然声をかけられたら、普通は警戒するだろう風貌だった。

 ジュードは店主と少し話した後、背を丸めて立ち去った。ユーゴたちは彼の行き先を気にしつつ、店に駆け寄る。

「彼は何か言っていましたか?」

「あの本をどこから仕入れたのか気にしていたね。もちろん、値段も聞かれたよ。それで、もうすぐ金が入るから取り置いてくれないかと言われた」

「“金が入る”か……。それは気になるな」

 彼が泥棒を続けているなら、不穏な一言だ。

「そろそろ追いかけないと、見失いそうですよ」

 ルチアーノに促され、ユーゴはジュードの背中を目で追う。疎らになり始めた人混みの中、ゆったりとしたペースで歩いていた。二人も人の流れに乗り、ブックフェアの会場を出る。

 尾行を続けていると、ジュードは簡素なホテルに入っていった。フロントを素通りしてエレベーターに向かったから、ここに部屋をとっているのだろう。

 さて、どう動くべきか。問題はジュードを追う男がどう出てくるかだ。

「今度は彼に囮になってもらえばいいんじゃないですか?」

「人道的に問題ありだが……。仕方ない、危なそうだったら出て行くか」

 いくらジュードが犯罪者でも、襲われているところを見捨ててはおけない。ユーゴたちはハロルドから車を借り、道端に止めてホテルの正面玄関を監視することにした。

 車内で簡単な食事をとり、さらに待つこと数時間。深夜零時を回って少し経ったころ、ジュードは出てきた。ユーゴは眠りかけていたルチアーノを起こし、音を立てないようドアを開ける。夜の冷たい空気が、一気に流れ込んできた。

 「こんな人けのない時間に出歩くなんて、不用心だな」

「そうですね、せっかくリリーが忠告してくれたのに」

 寒そうにポケットに手を入れ歩くジュードを、二人は距離を保ちつつ追いかけた。急ぐ様子はないが、目的地は決まっているらしく、足取りに迷いはなかった。

 書店ばかりのこの街は、とうに寝静まっている。ぽつぽつと立つ外灯だけが、明かりを投げかけていた。ジュードが向かっているのは、さらに寂しい街のはずれだ。古い住宅がいくつか見えたが、今はもう誰も住んでいないかもしれない。

 ジュードはそんな古ぼけた民家の前の一つで、足を止めた。隣に大きなガレージがある。かつては畑が広がっていて、そこに農機具を置いていたのかもしれない。

 ジュードがノックすると、民家の中が明るくなった。ドアが開き、中に入っていく。

 それから十分も経たないうちに、今度は大型のトラックが二台、家の前に停まった。数人の男が降り、彼らも家の中に入っていく。

「なんだか、いかにも怪しい集まりですね」

「本を持ち出す計画だと聞いたが……あのトラックに本が積まれているのか?」

 ユーゴの疑問は、男たちの動きですぐに明らかになった。彼らが民家から外に再び姿を現した時、全員が胸の前に荷物を抱えていたのだ。それを次々に、トラックの荷台に積み込んでいく。荷物は全て、束ねられた本のようだ。ジュードも、彼らと一緒に本を運んでいた。

「ここまで大量の盗品を一か所に集めているのは初めて見ました。ちょうど、これから本を運び出すところのようですね」

「そうだな、なんとか阻止してあいつらを捕まえたいところだが……」

 さすがに人数が多い。今から警察を呼ぶにしても、事情を説明しているうちに逃げられてしまいそうだ。

 やがてトラックの幌が下り、彼らは全員民家に戻っていった。慌ただしさが一転、深夜らしい静寂に包まれる。

「暗いうちに、ここを出るつもりだろうな。眺めていても埒があかない」

 ユーゴは民家の中を見に行くと宣言して、立ち上がった。

「中がどうなっているかわからないが、君は外の様子を見張っていてくれ。もし俺が見つかって騒ぎになったら――」

「安心してください。僕だけでも調査を続けます」

「見捨てるな。警察でも何でもいいから、応援を呼んでくれ」

 ルチアーノは冗談だと笑ったが、どこか面白がっている様子に不安を覚える。まあロンドンでの一件のように、本当に危ないとわかれば動いてくれるだろう。ユーゴはトラックの陰まで走り、民家の様子を窺った。ドア横の窓はほのかに明るいが、人影は見えない。声も聞こえなかった。奥にも部屋があるのだろうか。

 ドアノブに手をかけると、鍵はかかっておらず、ドアはそのまま開いた。入ってすぐの部屋に、人はいないようだ。

 家の中に踏み込むと、どこからかぼそぼそと声が聞こえた。床に跳ね上げ式の扉があり、地下に延びる階段が見える。声はそこから聞こえているようだ。

「また地下か……」

 ユーゴは愚痴めいた呻きを零す。階段の方に近づいて覗き込むと、人の頭がいくつか動いているのが隙間から見えた。会話の内容もはっきり聞き取れる。

「……よく聞こえなかったな」

 やや訛りのある、男にしては高い声だ。直感的に、リリーが言った「冷たい声の男」だとわかった。声を聞いているだけで、ひんやりとした手で撫でられているような気分になる。

「だから、もうこういう仕事はしないと言ったんだ。今回で最後にする」

 声を発したのはジュードだった。緊張のためか掠れていたが、きっぱりとした言い方だった。

「今まで聞いたことは、もちろん誰にも言わない。足を洗って、まっとうな仕事をする」

「それはできない相談だ。うちのボスは、秘密が漏れることを一番嫌う」

 でも、と「冷たい声の男」は笑みを含ませて続ける。

「お前はそう言うだろうと思ってたよ。きちんと準備をしてきて良かった」

 彼の横に立つ男が、内ポケットに手をやるのが見えた。他の者たちが、慌てたようにジュードから離れる。照明を浴びて光っているのは、拳銃だった。

 仕方ない、ユーゴは部屋を見回し、放置された食器棚に目を留めた。覚悟を決めると、それを一気に倒す。派手な音は床下の部屋にも響いたはずだ。なんだ、と動揺する声が聞こえた。

「おい、待て!」

 木が軋み、バタバタと階段を駆け上がる音。しかしそれをかき消すように、銃声が二発鳴る。足音が止まり、心配になって駆け寄ると、ジュードは階段の途中で腰を抜かしていた。怪我をしたのではなく、銃声に驚いただけのようだ。

「逃げるぞ!」

 ユーゴはジュードを引っ張り上げ、家の外に飛び出した。周囲はひらけていて、隠れられそうな場所もない。焦るユーゴに、暗がりから声がかかった。

「こっちです!」

 ルチアーノは民家の横にある倉庫を指さした。できるなら遠くまで逃げたかったが、すぐ近くまで足音が迫っている。そこに身を隠すしかなかった。

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