第4話 花売りの初恋(5)

 午後六時。二人は閉店後に「Flower Fairies」を再び訪れていた。シャッターの下りた店の前には一人の男性が立っていて、リリーの父親だと言った。花の仕入れが主な仕事で、店に立つのは繫忙期だけだという。

「本のことについては、何も聞いていなかったのでわかりません。でも、嘘をつくような子ではないはずです」

 店の裏手に回り、同じ建物の二階に上がる。ここが家族の居住スペースなのだろう。リリーは少し緊張した面持ちで、リビングルームの椅子に座っていた。

「調査に協力していただいて、ありがとうございます。早速ですが、あなたが助けてほしい人というのは?」

「この本をくれた人のことよ。でも、その人はたぶん……本泥棒、だと思います」

「本泥棒……。では、この本もどこかから盗まれたということですか?」

 リリーは落ち着いた声で話し始めた。

「五、六年前のことです。私はそのころ、学校へ行く気力もなくふさぎ込んでいたの。目が見えないことで将来への不安を感じたり、普通の人と同じことができない自分に嫌気がさしたり……。とにかく、自分が世界一不幸だと思い込んでいた。気分の良い日は店の軒先に座っていたけれど、今のように接客をすることもなく、漫然と過ごしていたわ」

 花を買いに来た客も、リリーに話しかけることはあまりなかったという。しかしある日、一人の男性がやってきて彼女に声をかけた。

「『好きな本はあるか?』、と彼は言ったわ。私は不愛想に、点字は読めるけれど、本なんて面白くないと答えた。描写される風景も物の名前も、見たことのない私には想像できないから。観光に来たお客様の話を聞くときも、同じように感じていたわ。皆は知っていても、私だけ知らない。たった一人、取り残されたような気分だった」

 その男性はリリーの八つ当たりのような愚痴を、相槌を打ちながら聞いてくれたのだという。

「彼は私に、誰だって知らないものは想像しようがないと言った。そして、初めて見る世界をきちんと説明してくれる本があるのだと、私に教えてくれたの。しばらく待っていてくれと言われたのだけど、私はすっかり忘れていたわ。でも三か月後、彼はもう一度私のところに来てくれたの。今度は、一冊の本を持って」

「その本というのが、この『TRAVELS IN EUROPE』だったんですね」

 リリーはユーゴに顔を向けて、そうですと答えた。

「点筆を使ったのか専用のタイプライターを使ったのかはわからないけれど、全てのページに点字を打つのは大変な作業だったはずよ。劣化した紙に無理に打っているせいで穴が開いて読みづらかったり、間違っていたりという部分もあったけど、気持ちだけでも本当に嬉しかった。私はその時、初めて夢中になって本を読んだわ」

 リリーはその時の興奮を思い出したように、笑みを浮かべていた。

「書かれていたのはずっと昔のことだけど、私にとっては新鮮なことばかりだった。この国にはこんな珍しいものがあって、それはこんな形をしていて、こんな味で、と説明をしてくれるの。読者にとって知らない世界のことだから、そうやって書かれていたのね。私が知りたかったのは、こういう事だったんだって思ったわ」

 リリーに本をくれた男性は、しばらくは頻繁に店を訪ねてきたという。彼女は本を読んで疑問に思ったことを彼に尋ね、彼はそれに答えた。しかしある時、もうすぐこの街を出るつもりだと彼は言った。

「もともと、この街の人じゃなかったのね。でもその時の私にとって、彼と話ができなくなるなんて耐えられなかった。だから私、勇気を出して電話番号を教えてくださいって言ったの。それで、母に携帯電話を用意してもらって、時々は電話していたのよ」

 話を聞いていた父親が、そんなことは聞いていないと母親にぶつぶつと文句を言い、良いじゃないかと母親が言い返している。微笑んでから、リリーは続けた。

「あの人のおかげで私は明るくなれたわ。外国のお客様には、どんな国から来たのか教えてもらうことが楽しみになった。店先の椅子に座って、傍らにあの本を置いて。でもね、ちょうど去年の今頃、いつものように本を読み返していたら、声をかけてきた男の人がいたの」

――ああ、こんなところにあったのか。

男はそう言ったのだという。

「私が持っている本は、本当は自分が手に入れるはずだったものだと、その人は言ったわ。ジュードが二冊のうち一冊なくしたと嘘をついていたんだって」

「ジュードというのが、あなたに本を渡した人の名前ですね」

 リリーは肯定し、本人もそう名乗っていたと話した。

「その人の声は、私が今まで聞いたどんな声より冷たかった。本を返してもらうよと言われた時、私は黙ってその人に渡したわ。その時、ジュードのことも聞かれたの」

 彼がどこにいるのか、彼と連絡は取れないのか、その男はリリーにしつこく尋ねたという。怯えながらもジュードの番号は教えなかったが、翌年の同じ時期にまた来ると言っていたことは、話してしまった。

 それを聞いた男は、笑い混じりに言ったという。

――噓つきには罰が必要だ。君もそう思わないかい?

「私は震え上がってしまって、家族にも言えなかったわ」

 それでもとにかくジュードに伝えなければと、リリーはその日彼に電話をかけた。彼は驚く様子もなく、リリーに怖い思いをさせたことを謝ったという。

「その時に、あの本は頼まれてこの街の古書店から盗んだものだったと聞いたの。自分は泥棒で、私に優しくしたのもただの気まぐれだったって。危ないからもう電話もやめようと言われて、翌日には同じ番号にかけても繋がらなくなってしまったわ」

「……それでも、あなたはジュードが心配なんですね」

 ユーゴの言葉に、リリーは自嘲した。

「泥棒を心配するなんて、馬鹿だと思うでしょ? でも、私にとって彼は恩人なの。彼は警察に捕まりたくないでしょうけど、私は命を取られるくらいなら捕まった方が良いと思うわ。あの人に、生きていてほしい」

 リリーは少しすまなそうに、付け加えた。

「もちろん、本を盗まれた人には申し訳ないと思うけれど」

 大体の事情は分かった。リリーはジュードが「冷たい声の男」に殺されてしまうのではないかと、心配しているのだ。

「ジュードと彼を捜していた男について、何か覚えていることはありませんか?」

 リリーは、ジュードを訪ねてきた男が今年もいたと話した。

「いつものように店の前に座っていたら、偶然声を聞いたの。足音は一人分だったから、電話をしていたみたい。ブックフェアに紛れて本を持ち出すとか、そんな話よ」

「紛れてということは、見られて困るようなもの……盗品か?」

「ブックフェアは、明日から三日間でしたね」

 その間に、声の主を見つけられるだろうか。何か、作戦を考える必要がありそうだ。考えを巡らせていると、ルチアーノが言った。

「この『TRAVELS IN EUROPE』を囮にするのはどうですか? ブックフェアでこの本が売りに出されていたら、ジュードか彼を捜している男が寄って来るかもしれませんよ」

「しかし、もし現れたとしてどうやって確認するんだ? 顔もわからないし、ただの客に名前を聞けば不審に思われるだろう」

 ルチアーノもそこまでは思いつかなかったのか、ううんと唸っている。すると、リリーが遠慮がちに口を挟んだ。

「私に考えがあるのだけど――」

 リリーの提案した作戦は、突飛だが悪くなかった。ただし協力者が必要だ。ブックフェアは明日からだから、それまでに急いで探すしかないだろう。

帰り際、ルチアーノはリリーに言った。

「本を盗まれた店の主人は、どうやら犯人に気づいていたようです。おそらく、あなたの手に渡ったのも知っていた。でも、家族には『もういい』と話していたそうですよ」

「……そうですか。教えてくださってありがとう。私の周りには、優しい人がたくさんいるのね」

 リリーはユーゴたちに向かって、あなたたちもね、と微笑んだ。

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