第3話 ベイカー街の落とし穴(6)

「何か、何でもいい、伝える方法があれば……」

 早くしなければ、ルチアーノはこの店から出て行ってしまう。この後アンナが一人でやってくるようなことがあれば、彼女の身まで危険に晒すことになるのだ。ユーゴは恨めしげに、天井を睨んだ。目を凝らすと、扉との境にわずかな隙間が見える。ごく薄いものなら、隙間から外に出せそうだ。

 紙にメッセージを書くのはどうだろう。思いつきは良かったが、手帳もペンも、ポケットやトランクの中だ。出せたとしても、後ろ手の状態で書くのは難しい。もどかしく思いながら体をもぞもぞと動かしていると、腰に固いものが当たった。

 ここに来る前に立ち寄った書店で買った、ペーパーバックだった。床屋の殺人鬼の物語だ。何もしないよりはマシだと、ユーゴはその本に背を向けて後ろ手で開き、ページの一部を破り取った。それを口に咥え、壁を使ってなんとか立ち上がる。

 天井は予想していたよりも少し高かったが、顎を上げ、狙いを定める。三度目の挑戦で、紙片が隙間に入った。できる限り床上の方へ、紙片を押し込む。

「いいぞ、もう少し手前だ」

 アンナの祖父が指示してくれたおかげで、紙片は案外簡単に隙間に入っていった。気づいてくれ。ユーゴは詰めていた息を吐き、祈るような思いで耳を澄ませた。

「おや、これは……」

 聞こえたのは、サイラスの声だった。できればルチアーノだけに気づかせたかったが、仕方ない。

「本のページの一部のようですね」

「いや、商品は極力丁寧に扱うようにしているのですが、お恥ずかしい」

 その声に、微かな苛立ちが混じっているように、ユーゴには感じられた。おそらく、ユーゴの仕業だと気づいている。

「そろそろ店を閉めたいのですが……」

 遠慮がちに、サイラスが言う。

「ああ、そうでしたね。お時間をとらせてしまってすみません。また明日、捜してみることにします」

「あなたの捜し人が見つかるよう、祈っていますよ」

 サイラスの言葉に礼を言う、ルチアーノの声が聞こえた。ユーゴは思わず叫ぼうとしたが、やはり弱々しい声しか出なかった。足音が遠ざかっていく。やがて大きな音を立ててドアが閉じた。ガチャガチャと、サイラスが戸締りをしている。

 あと一歩のところだったが、ルチアーノに気づいてもらうことはできなかった。しかしユーゴが気落ちする間もなく、サイラスがもう一人の店員を呼ぶ怒声が耳に入った。

「おい、裏からシャベルを持って来い!」

 これはいよいよ、まずいかもしれない。ユーゴはこめかみを汗が伝うのを感じたが、もちろんそれを拭うことはできなかった。

 頭上の戸が、乱暴に開く。サイラスは穴から顔を見せ、ごきげんよう、と黒板を引っ掻いたような声で言った。

「君をこのままにしておくと、都合の悪いことが起きそうだ。心配の種は早めに始末しておかなくてはね」

 サイラスは一旦離れると、何かを抱えて戻ってきた。木製のはしごだ。降りている最中に体当たりすれば、倒せるだろうか。ユーゴは構えたが、用心深い彼は、仲間が戻るまでこちらに降りるつもりはないらしい。あるいは自分は眺めているだけで、あの店員に“始末”を任せるつもりか。

 店の奥の方から、カフェのドアが開く音がした。シャベルがどこかに擦れたのか、金属音が聞こえる。

「遅いぞ、シャベルを取って来るだけでどれだけかかって――」

 喋りながら顔を上げたサイラスは、突然動きを止めた。その顔が驚きに満ちているのを確認した次の瞬間、彼の叫び声が響き渡った。

 重いものがぶつかり合うような、鈍い衝撃音。サイラスの姿が消え、代わりに見知った顔が覗いた。

「とりあえず無事のようですね。良かった」

「ルチアーノ!」

 声を張り上げたつもりが、なんとも気の抜けた声だった。

「気をつけろ、仲間がもう一人いるんだ」

「先ほど裏口から出てきた若い男のことですね。僕がシャベルを持って突撃しようとしたら鉢合わせしてしまったので、とりあえず殴りつけてきました。裏口の鍵は閉めたので、入って来られないはずです」

 ルチアーノはさらりと言うと、気を失っているらしいサイラスを引きずって地下に落とした。

「おい、さすがに乱暴じゃないか?」

 こんな状況なので目をつぶるが、そもそもシャベルで人の頭を殴りつける時点でかなり過激だ。ルチアーノははしごを下ろした後に穴の縁から飛び降り、ユーゴの手足を縛りつけている紐を解いた。

「あなたがリチャード・モリスさんですね」

 ルチアーノの問いかけに、リチャードはしっかりと頷いた。どうやら、どこかでアンナから情報を得たようだ。聞きたいことはたくさんあったが、ひとまず脱出が先と地上に出る。助かった実感が湧き、情けないが手が震えていた。

「もうすぐ警察が来るはずです。あまり本気にしていないようだったので、驚かれると思いますけど」

 ルチアーノの言った通り、アダムズ局長経由で要請を受けたロンドン警視庁の警察官たちは、店の中に踏み入ってしばらく言葉を失っていた。ユーゴは体の異常もあり、救急車で運ばれ一晩入院することになった。どうやら朦朧としていたのは店で僅かに揮発していた麻薬の成分を吸ったせいだったらしい。翌日には症状も消え、元通りになった。

「サイラスたちはどうなったんだ?」

「開口一番にそれですか?」

 病室を訪れたルチアーノは、呆れ顔で言った。

「もちろん、すぐに逮捕されましたよ。今朝のニュース番組と新聞はその話題で持ちきりです。あなたのことは書かれていないようですが」

 ルチアーノはタイム紙の一面をユーゴに見せた。大きく扱われているが、情報量はあまり多くない。犯人の逮捕と四件目が未遂に終わったことについてのみで、大麻の話はなかった。

「それにしても、僕がいない時を狙って地雷を踏み抜くなんて……」

ルチアーノは呆れと関心の入り混じったような顔でユーゴを見る。

「別に狙っていないし、踏み抜いたんじゃない。床の方が勝手に抜けたんだ」

 ユーゴの反論が面白かったのか、ルチアーノはくすくすと笑った。

「アンナから事情を聞いて、あの店に向かったのか?」

 ユーゴが尋ねると、ルチアーノは順を追って説明した。

「ジェイデンから電話があったんです。四年前に辞めた司書が始めた古書店に、良からぬ噂があるという話でした。盗品を扱っていることもそうですが、大麻草を栽培している疑惑も持たれていたようで」

「待ってくれ、じゃあサイラスは――」

「ロンドン図書館で架空の人物を作って本を盗み、古書店を始めた元司書本人です。ちなみにサイラス・ウッドハウスはとっさに出た偽名で、彼が見ているドラマの登場人物だそうですよ」

 なんということだ。本を盗むからくりに気づいていい気になっている場合ではなかった。

「大麻草の話を聞いて、本についていたあの甘い匂いは大麻だったのではないか、と思いついたんです。それであなたにも伝えようとしたら――」

「連絡がつかなかったというわけか」

 ルチアーノは頷いた。その頃には、ユーゴはあの店にいたのだろう。

「時間になってもあなたは現れず、電話も繋がらない。場所も、疑惑の店がある辺りです。何かあったのかもしれないと思って、アダムズさんに連絡しました」

 危険な状況かもしれないので、インターポールからロンドン警視庁に働きかけてくれるよう話したのだという。

「局長さんはすぐ動いてくださったんですが、肝心のロンドン警察の反応が鈍くて。仕方なく近くの交番に向かったら、ちょうどアンナがあなたの話をしていました」

 アンナによって、ユーゴの居場所ははっきりした。彼女も一緒に見に行くと言ったが、危険だからとルチアーノ一人で様子を窺うことにしたのだという。

「彼が例の強盗犯なら、辻褄が合うと気づいたんです。被害者が麻薬を吸っていたことと、数日監禁された後に解放されていること。店内には監禁場所があり、あなたはそこに閉じ込められているのだろうと思いました」

 つまりサイラスと会話をしていた時点で、すでに彼を疑っていたということだ。何も気づいていないかのような演技に、ユーゴもすっかり騙された。

「そして、あなたが床下から送ったメッセージでかなり危険な状況だと確信したんです」

「メッセージ? あれはただ、床下に閉じ込められていることが伝われば良いと思って、目についた本からちぎり取っただけだが……」

 ルチアーノはユーゴの顔をまじまじと見て、しばらく固まっていた。

「じゃあ、『スウィーニー・トッド』も偶然だったんですか?」

「ああ、立ち寄った書店で勧められて、面白そうだと思って買ったんだ」

 ルチアーノは目を丸くして驚いている。ユーゴにしてみれば、あの切れ端だけで何の本か当てるルチアーノもいい勝負だ。

「あの話のあらすじはご存知ですか?」

「床屋の主人が客を殺していく話だと聞いた。それで殺人に結びつけたのか?」

「それだけじゃないですよ。問題はスウィーニー・トッドの店の仕掛けです。店にはレバーを操作すると後ろ向きに回転する椅子があって、そこに座っていた客は頭から真っ逆さまに床下の穴へと落ちるんです」

「それは……」

 ユーゴが落とされた仕掛けとほぼ同じだ。偶然の一致とは恐ろしい。

「大抵の客は落ちた時に首の骨を折って死に、息があれば剃刀で首を掻き切られるんです。……僕があの切れ端をどう解釈したか、わかりました?」

 ユーゴは背筋に寒気を感じながら、神妙に頷いた。

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