第3話 ベイカー街の落とし穴(5)
目を開く直前、感じたのは強烈な倦怠感だった。無理やり目を開けるとどうにか覚醒していき、自分が不自然な格好で横たわっているのがわかった。
おやすみなさいとサイラスに言われた時は、永遠にという意味かとヒヤリとしたが、どうやら本当に眠っていただけらしい。しかし、その間に後ろ手に縛られ、足首も一つに括られてしまったようだ。ユーゴは仰向けになり、天井を見上げた。
おそらく部屋の高さは二メートルもない。ユーゴの身長と同じくらいだろう。体が自由なら、手が届いたはずだ。
「最悪だ!」
状況を理解して、ユーゴは毒づいた。あの落ちていた葉は、大麻だった。そして、本についていたあの甘い香り。かつて日本にいた時、麻薬取り締まりの仕事の関係で同じ匂いを嗅いだことがあった。もっと早く思い出していたらと思うが、今悔やんでも遅い。
ユーゴは首を精いっぱい巡らせて、閉じ込められた地下の空間を見渡した。目につくのは、プランターに植えられた植物――大麻草だ。照明が眩しいくらいに強いのも、栽培のためだろう。
しかし、まさかこんな仕掛けがあるとは思わなかった。見たところ出入り口は上にしかなく、壁の向こうがどうなっているのかもわからない。脱出できるのなら壁を殴ってみても良いが、コンクリートの壁を素手で破るのはさすがに不可能だろう。
「そうだ、電波は……」
奥のカフェでは通じなかったが、通りに少し近づいたここならどうだろうか。ポケットに入ったスマートフォンをどうにか出せないかと考えていると、か細い声が聞こえた。
「無駄だよ。この店では、電話は通じない」
驚いて声の主を探すと、大麻草の陰に、壁にもたれている男性の姿があった。
「大丈夫ですか?」
白髪の男性は、明らかに生気がなかった。目の焦点が曖昧で、ぼんやりしている。
「まあ、大丈夫ではないだろうね。持病の薬も荷物と一緒に取り上げられてしまったし、私の人生はここで終わりのようだ」
彼はほとんど唇を動かさずに喋った。言葉には諦念が滲み、体を動かす気力すらなさそうだ。
「いつからここに?」
「ここに来たのは午前中だが、もう時間の感覚がないな。しかしこれも、罰が当たったんだ。家の名を汚すくらいなら、可哀想な被害者の方が良いさ」
男性が何のことを言っているのか、ユーゴはしばらくの間考えていた。先ほど、図書館の本が盗まれたからくりに気づいた時と同じように、散らばったピースが徐々に形を成していく。気づいてしまえばもう、答えはそれ以外考えられなかった。ああ、自分はなんという大きな落とし穴に落ちてしまったのだろう。ユーゴは悔やみながら、大きく息を吐いた。
「この店には、裏の顔があったのですね。客の中には、大麻を求めて訪れる者もいた」
「そういう客が大半さ。それも、私みたいな年寄りばかり。私は社会でそれなりに成功を収めたが、振り返ると空しくなってね。子供たちのためを思って厳しくしたが、おかげで煙たがられ、家にも寄り付かない。愚かなことに、失ってようやく、金でも名誉でもなく家族との時間が一番の宝物だと気づいた。しかしもう、何もかも手遅れだ……」
「それで、麻薬に手を出したんですか?」
「そうだ。嫌なことも、不安なことも、忘れられる。幸せな気分になれるんだよ。それに、ここには私のような人達がたくさんいた。みんな、同じ孤独を抱えていたんだ」
「これまでに行方不明になり郊外で保護された三人も、その中に?」
そうだよ、と男性は淡々と答える。
「一人目の時は、偶然だと思った。二人目で、もしやと思った。三人目で、確信したね」
「でも、やめられなかったんですね」
「ああ、あの多幸感は、他じゃ得られない。第一、私が標的になるとは限らないじゃないかと、そう思った。しかしその楽天的な思考も、麻薬に毒されて判断が鈍ったからだろうな」
男性は息を漏らして自嘲した。
「数日後には、私も郊外の森の中だ。運が良ければ生きているが、死んでいるかもしれん。あの子には悪いことをした……」
淡々と話していた彼が、不意に後悔を露にした。ユーゴはそこに光明を見出し、尋ねる。
「あなたは、アンナ・モリスのお祖父様ですね」
「なぜそれを。あの子の知り合いか?」
男性の目に力が戻った。やはり、孫のことが気になっていたのだ。
「あなたを心配していました。元のあなたに戻ってほしいと、原因を必死に調べていましたよ」
今ならば、麻薬中毒者特有の症状だったのだとわかる。あの本には麻薬の匂いが浸み込んでおり、その匂いが彼の執着や激昂を引き起こしたのだ。
「諦めてはいけません。もう一度お孫さんに会うために、二人で脱出しましょう」
「しかし、ここから出る方法なんてないだろう。天井の扉はロックがかかっていて、こちらからは開かない」
「大丈夫です。アンナや、私と一緒に仕事をしている男が、連絡が取れないことを不審に思って捜してくれるはずですから」
幸い、二人ともユーゴの居場所を知っている。中々姿を見せないとなれば、トラブルが発生したと考えて動いてくれるだろう。
「動いてくれる、はずだよな……」
アンナはともかく、ルチアーノに関しては未知数だった。彼の能力は評価しているが、基本的に自由人で、相棒になったユーゴにどこまで興味を持っているのかもわからない。食べるのが好きな彼のことだから、今頃は今日のディナーの店でも探しているかもしれない。ディナーのメニューよりユーゴの安否を気にかけてくれると、嬉しいのだが。
しかし、仮に彼がこの店まで来てくれたとして、どうやればユーゴがここにいると伝えられるだろうか。叫べばなんとか聞こえるだろうが、先ほどから頭に霞がかかったように朦朧としていて、体にうまく力が入らず、声を張り上げられない。コーヒーと一緒に、そのような作用の薬を飲まされたのだろうか。
それに、サイラスだけでなくもう一人の店員も仲間の可能性は高い。ルチアーノが都合よく格闘技に長けているとも思えないし、サイラスたちが彼の口を封じようとすれば、人けのないこの場所はうってつけだった。
いっそ、どうにか立ち上がって頭突きでもしてみるのはどうだろう。あれだけ軋んでいたのだから、衝撃は伝わるかもしれない。
悶々と考えていると、ドアベルの音が微かに聞こえた気がした。足音が、近づいてくる。このゆったりとした歩調は、おそらくサイラスのものだ。音の方向から考えて、彼は店の奥から入り口の方に向かっているようだ。
「申し訳ございません、本日はそろそろ店を閉める時間でして――」
「ええ、わかっています。少々お尋ねしたいことがあるだけですから、すぐにお暇しますよ」
ルチアーノの声だ。ユーゴの心臓が、どくりと跳ねた。二人の会話に、必死に耳を澄ませる。
「人を捜しているんです。突然、行方が分からなくなってしまって……」
「おや、それは心配ですね。どんな方ですか?」
「黒髪の男性で、ケルト人寄りの顔立ちですがアジアの血も入っています。年齢は僕よりやや上ですね。真面目ですが間の悪いところがあって、少々詰めが甘いというか……」
「アイツ……」
最後の方はほぼ関係のない悪口だ。いないのをいいことに、好き勝手言っている。しかし詰めの甘さに関しては、ぐうの音も出なかった。とにかく、ルチアーノに居場所を教えるチャンスは今しかない。ユーゴは焦っていた。
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