第3話 ベイカー街の落とし穴(4)

 裏路地を辿り、ユーゴは古書店の前に戻ってきた。やはり、どこか得体の知れない気配がある。ひとつ深呼吸して、ユーゴはドアを押し開けた。

「いらっしゃいませ」

 店内は想像より広く、ずらりと本棚が並んでいた。

 声をかけてきたのは、レジスターの横に立つ大柄の男だった。四十代といったところだろうか。彫りが深く、四角い顔をしている。濃紺のエプロンも、彼の体格に合わせて大きかった。

「すみません、客ではなく、ちょっとお聞きしたいことがあるのですが」

 ユーゴは単刀直入に、植民地版「バスカヴィル家の犬」をどこかで見かけたことはないかと聞いた。

「元はロンドン図書館が所有していたもので、この辺りの書店に出回っていなかったか探しているんです」

「ロンドン図書館の……」

 店員が反応したように見え、ユーゴは実物を出して彼に見せた。

「こちらです。見覚えはありますか?」

 ユーゴは店員の変化を見逃さぬよう、注視する。彼は怪訝そうにユーゴを見た。

「失礼ですが、あなたはどういった……その、お仕事で調査をされているのですか?」

 ユーゴはインターポールの身分証を店員に見せた。彼は身分証とユーゴの顔を見比べてから、視線を宙にさ迷わせる。

「何か、ご存知のようですね」

一押しすると、彼は諦めたように息を吐いた。

「その本は、以前この店にありました。しかし盗品だとは知らなかったのです」

 店員は握手を求め、自分は店主のサイラス・ウッドハウスだと名乗った。

「奥のカフェへどうぞ。全てお話ししましょう」

 ユーゴは気づかなかったが、店の奥にはカフェが併設されているようだ。本棚の影に小さなドアがあり、その先がカフェのフロアだった。木の床を軋ませながら、ユーゴはテーブルについた。

「少々お待ちください。今コーヒーを淹れます」

 それよりも早く話を聞きたかったが、急かして機嫌を損ねるのも得策ではない。ルチアーノとアンナには、少し遅くなると連絡を入れれば良いだろう。しかしこの辺りは電波が悪いのか、表示は圏外になっていた。ユーゴは諦め、スマートフォンをしまう。後で理由を説明すれば、彼らも許してくれるだろう。

 カフェの店内には、ユーゴ以外の客はいなかった。店主と入れ替わりで店員が一人、書店の方に出て行ったが、店員も彼だけのようだ。

 サイラスを待つ間、ユーゴはマガジンラックの中に今日付の新聞を見つけ、広げた。一面は、ロンドン図書館でジェイデンが言っていた強盗事件の続報だった。

 被害者は、これまでに三名。六十代の男性と七十代の男女だ。いずれも富裕層で、金品を奪われたうえ、ロンドン郊外の住宅地で彷徨っているところを保護されていた。衰弱し、記憶も曖昧だったため、犯人に繋がる有力な情報は得られていないという。

 被害者の共通点は、裕福だったことに加え、行方不明になって数日経った後に見つかっていることだった。しかも、行方不明になった当日の彼らの行動は謎に包まれているという。普段は運転手や荷物持ちを連れていた彼らが、その日に限って付き人もなく、行き先も告げずにふらりと出かけているのだ。まるで、知られては困るとでもいうように。

 そしてもう一つの共通点は、彼らの血中から麻薬の成分が検出されていることだ。記事では、彼らが犯人に麻薬を摂取させられた可能性の他に、麻薬中毒者だった可能性が仄めかされていた。

「麻薬……」

 何か思い出せそうな気がしたが、カップが目の前に置かれ、ユーゴの意識はそちらに向けられた。

「その事件、ご存知でしたか?」

 サイラスがユーゴに尋ねる。

「今日、ロンドン図書館で聞きました。誘拐・監禁する強盗とは、恐ろしいですね」

「ここ最近は平和だと思っていたのですがね。インターポールというと、普段はやはりフランスに?」

「そうです。今は仕事で飛び回っていて、ロンドンに到着したのも今日なんですよ」

「そいつは大変だ」

 サイラスは陽気に笑った。寡黙そうに見えたが、雑談しているとむしろ話好きのように感じた。

「それで、先ほどの『バスカヴィル家の犬』についての話ですが」

「ええ、そうでした。もう一度、本を見せていただけますか?」

 ユーゴはトランクから本を出し、テーブルに載せた。サイラスはユーゴに断って表紙を開き、ロンドン図書館の印を確認する。

「間違いありません、やはり店にあったものです。ウチが買い取ったのは、四年ほど前だったと思います」

 ロンドン図書館から盗まれた時期と一致している。ユーゴは思わず唾を飲んだ。

「しかし、これだけは言わせてください。私は、これを司書から『除籍になった』と言われて買い取ったんです。まさか盗品だったなんて」

 サイラスは訴えたが、ユーゴが気になったのは別の言葉だった。

「ロンドン図書館の司書から、買い取ったんですか? 私はある人物に貸し出されたまま、行方が分からなくなったと聞いたのですが」

 誰も覚えのない、ダニエル・スミスなる偽名の男。ジェイデンの話を思い返していたユーゴは、パズルのピースがカチリと嵌った音を聞いた。

「初めから、存在していなかった……」

「は?」

 サイラスが戸惑ったような声を上げる。ユーゴは興奮を抑えきれぬまま、彼に言った。

「この本の貸し出し記録は、ダニエル・スミスという名の男性が最後でした。しかしその名は偽名で、さらに司書たちの誰もがその男を覚えていなかった。当然です、ダニエル・スミスは架空の人物だったんですよ。そして、本来なら必要な身分証明をパスして架空の人物を作り上げることができたのは――」

「図書館の司書……私の店に本を売りに来た人物、というわけですね」

 ユーゴはサイラスに向かって頷く。

「彼は古書店を開くために司書を辞めたはずですが、今の居所はご存知ですか?」

「いや、申し訳ないが、わかりません。帳簿に控えている名前も、本名かどうか……」

「ロンドン図書館に記録があるでしょうから、そちらを調べますよ」

 窃盗の疑いがあるとなれば、インターポールから地元警察に所在の確認を頼むこともできる。これであの古書の来歴はほぼ明らかになった。しかし、気にかかることがあと一つ。

「少し前に、こちらでその『バスカヴィル家の犬』を買った男性がいたはずなんです。彼はなぜかその本に異常な執着を見せていたようなのですが、何か心当たりはありませんか?」

「……さあ。どんな人に売ったかも記憶にないので、何もなかっただろうと思いますが」

 一瞬の間があったが、納得のできる答えではあった。ひとまず本の出どころがわかったのは収穫だ。アンナに伝えて、気になるようならまた訪ねればいい。ユーゴは一息つき、コーヒーを口に含んだ。少し変わった味が舌に残ったが、この店のオリジナルブレンドだろうか。

「ありがとうございます。あなたのおかげでだいぶ調査が進みました」

 ユーゴの言葉に、サイラスは遠慮がちに微笑んだ。

「それは良かった。あの、盗品を扱ってしまったことについては……」

「知らなかったということであれば、お咎めはないはずです。こうして協力もしていただきましたから、何かあれば私から口添えしますよ」

 サイラスがほっと胸をなでおろすのを見ながら、ユーゴは立ち上がった。腕時計を確認すると、アンナと別れてからそろそろ三十分だ。ルチアーノとの待ち合わせ時刻は、二十分ほど過ぎている。早く戻らなければ。

「ああ、コーヒーの代金は――」

「結構ですよ。勝手に淹れたものですから」

 適当な金額を置こうかとも思ったが、急いでいることもあり、厚意に甘えることにした。ユーゴはカフェのドアを自ら開け、書店に出る。また、ぎしりと床が軋んだ。この辺りだけ、床板が弱くなっているのだろうか。

「ん……?」

 ユーゴは何かが床に落ちているのを目にして、近づいた。

 拾い上げると、それは緑色の葉だった。外に置かれていた観葉植物のものだろうか。しかし、どこかで見たような――。

 まさか。ユーゴは息をのんだ。

「おや、どうされましたか、ミスター・キリサキ」

 背後からかかる声に、ユーゴは振り返る。サイラスは薄く笑みを浮かべ、首を傾けていた。

「ウッドハウスさん、もう一つ、あなたにお聞きしたいことが……」

 サイラスが後ろ手に腕を伸ばし、壁に触れているのが見えた。そこには何かのスイッチらしきものがある。一歩、彼の方に足を踏み出そうとしたその時だった。ユーゴの真下の床が、突然消えた。

 一瞬の浮遊感の後、体に衝撃が走る。床が抜け落ちたのだ。とっさに受け身は取ったが、鈍い痛みを感じた。

「あなたがお気づきにならなければ、こんなことをする必要もなかったのですが」

 四角く開いた床の縁、今は天井になったところから、サイラスが言う。

「では、おやすみなさい」

 その言葉を最後に、床は閉じられた。ユーゴはとっさに飛び上がろうとしたが、なぜか体が石になってしまったかのように重かった。瞼も異常に重い。あの、おかしな味のコーヒーか……。ユーゴは抗いきれず、そのまま意識を手放した。

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