第3話 ベイカー街の落とし穴(3)

 表通りに建つ二階建ての書店は、年季の入った風貌をしていた。壁のタイルは剥げかけていて、窓に貼られたポスターも色褪せている。ユーゴはドアを押し開け、足を踏み入れた。

 店の中には数名の客の姿があったが、店員の姿はカウンターになかった。ひとまず中を見てみようと、近くの棚に並ぶ本のタイトルを眺める。ホームズシリーズは並んでいなかったが、ユーゴの目を引くものがあった。

 一冊ずつはごく薄く、装丁も安っぽい。表紙を捲ると内容に関係するらしいイラストが描かれていた。古いもののようで、慎重に扱わないとバラバラになってしまいそうだ。

 視線を感じてそちらを見ると、ユーゴと同年代の、利発そうな女性が立っていた。エプロンをしているから、ここの店員なのだろう。

「ペニー・ブラッドをお探しですか?」

「いえ、探していたわけでは……ペニー・ブラッドというのは、このような薄い本のことですか?」

「ええ、その名の通り、一ペンスで買える本のことです。十九世紀ごろに売られていたのですが、当時は文庫本も、一定の階級より下の層には高価なものでした。このペニー・ブラッドは、そういった層、つまり労働者階級に向けて作られたんです」

「なるほど、それでこれだけ薄く簡易的な装丁なんですね。でも、最後のページはずいぶん中途半端に、文の途中で切れているようですが」

「敢えてそうしているんです。ペニー・ブラッドは連載小説の分冊で、週刊で発行されていました。だから、興味を惹く仕掛けが必要だったんです」

 女性店員の話は簡潔だったが、それこそ興味を惹かれる話しぶりで、ユーゴは束の間仕事を忘れて尋ねた。

「どんな内容の小説があるんですか?」

「一概には言えませんが、扇情的な内容が多い、と評されています。犯罪者が主役の話もあるので、社会への悪影響を懸念する声もあったようですね。代表的なのは――」

 呟いて、店員は素早く棚に目を走らせた。手を伸ばし、一冊を抜き取る。

「トーマス・ペケット・プレストの『The String of Pearls』です。その内容が人気を博し、『Sweeneyスウィーニー Toddトッド』というタイトルでミュージカルや映画にもなりました」

「タイトルは聞いたことがあります。床屋が舞台で、わりと怖い話だったような……」

 その通りだと、店員は頷く。

「床屋の主人が、自分の店に来た客を次々に殺していくんです。その床屋が実在したという都市伝説もありますが、現在ではモデルとなった犯罪者がいた程度ではないかといわれています。もし中身に興味がおありなら――」

店員は迷いのない足どりで店の中を移動し、一冊の本を手に戻ってきた。

「これは分冊ではなく一冊にまとめられているので、読みやすいと思います。猟奇的な話ですが、一気読みしてしまう方も多いですよ」

 「The String of Pearls」のペーパーバック版で、ユーゴにも馴染みのある形だ。なんとなく興味が湧いたこともあり、ユーゴはそれを購入することにした。

 会計の時、「バスカヴィル家の犬」のことを尋ねたが、少なくとも五年はこの書店で仕入れたことはないという答えだった。コナン・ドイルの作品が多い古書店といっても、稀覯本は扱っていないそうだ。ホームズ好きの同僚も知らないという。しかし彼は、仕入れたばかりの情報を一つ教えてくれた。

「お客さんと同じように植民地版『バスカヴィル家の犬』のことを調べている女性がいるって、他の古書店の人間が言ってましたよ。ウチには来ていないみたいですけど」

 今日の午前中のことだという。偶然にしては出来すぎている。彼女もユーゴと同じ、ロンドン図書館から盗まれた「バスカヴィル家の犬」の情報を探しているのだろうか。事情を聞いてみたいところだ。

 しかし、日が暮れてもそれ以上の収穫はなかった。ルチアーノに連絡すると、さっぱりだという。今日はそろそろ諦めて、三十分後に合流することにした。

「さて、最後にもう何軒か近くを回ってみるか」

 地図アプリには表示されていない店もあり、実際に行ってみなければわからない。ルチアーノにはメッセージで大体の場所だけ告げて、小さな通りを選んで進んだ。

 その店は、通りの行き止まりに、古びたビルとビルの隙間にすっぽりと収まるようにして建っていた。店の壁も蔦が這っていて年月を感じるが、入り口に観葉植物の鉢が並んでいるために、装飾の一つのように見える。

 ドアが閉まっているが、どうやら書店らしい。周辺はシャッターの閉じた店舗や廃工場などしかなく、煌々と浮かび上がる店は夢の中のように唐突で、現実味がなかった。

 逡巡していると、後方から急ぐ靴音が聞こえた。

「あの、すみません」

 路地にはユーゴしかおらず、彼女の視線もユーゴを捉えていた。走ってきたらしく、肩で息をしている。息が整うのを待ってから、女性は口を開いた。

「植民地版『バスカヴィル家の犬』のことを調べているというのは、あなたですか」

「ええ、そうですが」

 答えながら、ユーゴは女性を警察官の目で観察した。歳は二十代後半、ハニーブロンドの髪は艶やかで、着ている服も洗練された印象を受ける。金銭的余裕のある生活をしているように見えた。

「怪しい者ではありません。ロンドンで弁護士をしている、アンナ・モリスです。まだ駆け出しですけれど」

 彼女は居住まいを正し、まっすぐにユーゴの目を見た。でまかせを言っているようには見えない。ユーゴがインターポールの捜査員であることを明かすと、彼女は驚いた様子だった。

「では、お仕事で調べているということですね」

「ええ、来歴を調べることが目的です。あなたは?」

 彼女は少しの間逡巡してから、口を開いた。

「事情をお話しすると長くなりますが、多少は調査のお役にも立てると思います。お時間をいただけますか」

 アンナは足早にユーゴを近くのコーヒーショップに案内した。カウンターで注文するタイプの店だ。コーヒーを受け取るまでの一連の様子から、せっかちな性分のようだと分析する。

「初めに確認しておきますが、あなたが探しているのはこの本ですか」

 ユーゴはバッグから「バスカヴィル家の犬」を出し、アンナに見せた。

「自由に手に取って大丈夫ですよ」

 声をかけたが、彼女はなぜかおっかなびっくり表紙を開いた。見返しに貼られた、消えかけた蔵書票を目にして息を呑む。

「驚いたわ。まさにこの本です。三か月ほど前まで、私の祖父が所有していました」

「この本は四年前にロンドン図書館で盗まれたものです。――失礼ですが、ご祖父様はロンドン図書館に会員登録をされていますか?」

「わかりません。でも祖父は図書館より古書店の方が好きなので、あまり頻繁には通っていなかったと思います。それに、四年前はまだしっかりしていましたから、厳格な祖父が泥棒のような真似をするとは……」

 アンナは戸惑いの表情を浮かべていた。

「四年前はというと、今は状況が違うということでしょうか」

「今年の春ごろから、ぼんやりすることが増えたんです。家族は年のせいだと言いましたが、私はなんだか違うような気がして。それである時、祖父の書斎にこの本があって、暇つぶしに自分の部屋で読もうと持ち出したんです。今までも小説を黙って借りることは何度かあったのですが、その時はすごい剣幕で怒鳴られてしまって、びっくりしました」

 アンナの話では、その辺りから祖父はひどくイライラすることが増えたのだという。

「祖父はほとんど肌身離さず、『バスカヴィル家の犬』を持ち歩くようになりました。私は段々その本が祖父を変えてしまった“呪いの本”に見えてきて、怖くなったんです。それで、伯母たちが祖父を気分転換と称して旅行に連れ出している間に、どこかにやってしまおうと思いました」

「誰かに売ったということですか?」

 身を乗り出して尋ねると、アンナは答えた。

「祖父が顔馴染みの古書店に相談したら親身になってくれて、買い取ってもらいました。その方が言うには、そういった行き場のない、いわくつきの本を集めているディーラーがいるそうです。イタリア人だということで、そのディーラーに送ってもらいました」

「イタリアですか……。ちなみに、そのディーラーの住所や名前は」

「そこまでは聞いていません。本を送ってくれた古書店の店員も、今は買い付けで留守にしているので聞きようがなくて」

 残念だが、手がかりが足りないようだ。しかし、イタリア人という情報は新しい。

「一度手放した『バスカヴィル家の犬』を今さら探していたのはなぜです? しかもあなたは、本がイタリアにあると考えていたはずだ」

「いいえ、手に入れたいわけではないんです。本が無くなってから、祖父はしばらく以前のように戻ったのですが、またイライラすることが増えました。私が知りたいのは、あの本が祖父を変えてしまった理由です。それで、祖父があの本をどこで手に入れたのか調べようと思ったんです」

 なるほど、彼女もユーゴと同じように、来歴を調べようとしていたのだ。ロンドン図書館から盗まれ、彼女の祖父が手に入れるまでの空白の数年間、どこにあったのか。

「ここ数年、祖父は一人でロンドンを出ていないはずです。祖父が『バスカヴィル家の犬』を買ったのも、市内のどこかの古書店だと思います」

「それで朝から、市内の古書店を回っていたわけですね。あなたのことを教えてくれた店員がいました」

 アンナは疲れを滲ませ、小さく笑った。

「私、祖父に憧れて弁護士になったんです。厳しいけれど常に公平で、努力していれば褒めてくれました。弁護士になったことも、本当に喜んでくれたんです。だから――」

 声を詰まらせ、アンナはハンカチで目尻の涙を拭った。

「祖父はよく一人で出歩くようになって、今日もまだ家に帰っていません。最近高齢者が襲われる事件も起きているので、心配なんです」

 涙ぐむアンナを目にして、ユーゴの中で警察官としての使命感が燃え上がった。アンナに協力すべきだと、内なる声が叫んでいる。

「あと訪ねていないのは、どの店ですか」

「目につくところはおおむね制覇したつもりです。でも、先ほどの狭い通りの古書店は、なんだか入りづらくて……」

 アンナの言わんとすることはよくわかった。仄暗い雰囲気で、それこそ呪いにでもかかりそうな佇まいだった。

「わかりました、では私が店に入って聞いてきます。どの道私も調査しようと考えていましたから」

「……お願いできますか?」

 期待の眼差しを向けられ、ユーゴは良い気分だった。

「大げさですよ、ただ話を聞くだけですから」

 ユーゴはアンナと話し合い、一旦古書店に行き、情報を仕入れて再びアンナの待つコーヒーショップに戻ることを約束した。

「三十分経っても帰って来なかったら、警察に通報してください」

 映画のワンシーンのようなセリフを冗談で言うくらいには、ユーゴは浮かれていた。

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