第3話 ベイカー街の落とし穴(2)

 図書館を出て、二人は遅いランチをとった。サンドイッチなどの軽食を出すカフェで、値段はやや高いが味もサービスも申し分ない。ルチアーノは良い店を察知する嗅覚が優れているのかもしれない。

 ユーゴが皿に並んだサンドイッチを半分以上食べ終えたところで、胸ポケットのスマートフォンが震えた。ディスプレイには、アダムズ局長の名が表示されている。ルチアーノに断って席を立ったユーゴは、店の外で電話に出た。

「首尾はどうかな。調査は順調かい?」

「メールでお伝えした通り、二冊の来歴はわかりました。ただ、今のところメッセージのようなものは読み取れませんね。このロンドンで三冊目ですから、何かわかれば良いと思いますが。そちらでは何か、動きがありましたか?」

 アダムズ局長はうむ、と一呼吸置いて言った。

「本の入ったトランクを置いた人物が、何ヵ所かの防犯カメラで確認できた」

「それなら、顔もわかったということですか?」

「ううん、それはまだ難しそうだ。今後専門家に解析を頼もうと考えている。ただ、服装や体格は大体わかったよ。やや太り気味で、スーツ姿にハットをかぶっている。杖を手にしているのも見えた」

 電話の声を聞きながら、ユーゴは徐々に鼓動が早まるのを感じた。

「私が報告した、二冊の本を買い取った男の格好と共通する部分がありますね」

「そう、私もその点が気になっているんだ。引き続き、その男の情報も集めてほしい」

 ところで、と話を区切り、局長は言った。

「彼とはうまくやれているかい?」

「……ええ、まあなんとか。聞いた通り、とても優秀な人物です。古書の知識はもちろん、洞察も鋭い。捜査官として嫉妬するくらいですよ」

「ほお、それは頼もしい。良い報告が期待できそうだ。健闘を祈っているよ」

 局長は笑みを含んだ声で締めくくり、電話を切った。

 席に戻ると、ユーゴのサンドイッチはテーブルの端に追いやられ、中央にアフタヌーンティーセットが鎮座していた。三段重ねのケーキスタンドにはスコーンやケーキが載っている。彼がこの店を選んだ理由に、ユーゴは遅まきながら気づいた。

「やっぱり本場のスコーンは良いですね。口当たりの良いしっとりしたスコーンなんて邪道ですよ。硬くてパサパサで、クロテッドクリームでようやく食べられるくらいじゃないと」

 それが本当に美味しいのか疑問だが、本人は言葉通りクロテッドクリームを半分に割ったスコーンにたっぷり塗りたくり、幸せそうにしている。

「それで、何かわかったんですか?」

 ユーゴは局長からの話をルチアーノに聞かせた。彼は先にスコーンを平らげてから、口を開く。

「なるほど、古書を集めた男とトランクを置き去った男は同一人物の可能性が高いということですね」

「今の時点では背格好だけだが、映像を解析すれば顔もわかるかもしれない。しかし顔がわかったところで、これだけ世界中を神出鬼没に回っている奴を捕まえられるかは別問題だな」

「結局、地道な調査が一番ですよ。ラテン語の『Festina lente』という言葉を聞いたことがありますか? 『ゆっくり急げ』という意味です」

「不思議な言葉だな」

 ユーゴは意味が掴めず首を捻ったが、ルチアーノの次の説明で腑に落ちた。

「急がば回れ、ですよ。早く最良の結果に辿り着くには、落ち着いてゆっくり行くのが良いということです。ちなみに、アルド版を出版した会社のロゴマークである『イルカと錨』も、この諺を示しているようですね」

「ゆっくり急ぐのは骨が折れそうだな」

 ユーゴは嘆息し、紅茶を口にした。香り高く、後味がすっきりとしている。悪くないが、これから街で聞き込みをしなければならないと思うとゆったり紅茶を楽しむ気にはなれなかった。

「ベイカーストリートの古書店とは、取引したことはあるのか?」

「一応ありますが、あまり懇意の店はないですね。得意なジャンルもわからないので、一軒ずつ訪ねて確認していくしかないと思います」

 ユーゴはタブレット端末を出し、ベイカーストリート駅周辺の書店を検索した。古書店の数は多くないが、新刊を売る書店や本も売る雑貨店を加えると十店舗以上ある。

「書店でなくてもホームズ関連のグッズを置いている店であれば店員にマニアがいるかもしれないな。植民地版『バスカヴィル家の犬』は、欲しがる収集家も多いんだろう?」

「ええ、滅多に手に入らないものですから、噂を耳にすれば覚えていると思いますよ。そこまで範囲を広げるなら、手分けした方が良さそうですね」

 二人は大まかに二つの区域に分けて回ることに決めた。それなりの数だが、頑張れば今日明日で回り切れるだろう。

「もし手がかりが得られなかったら、次はチャリング・クロスの古書店街ですね。規模はあまり大きくありませんが、日本でいう神保町のような、昔ながらの店があります」

 店を出た二人は再び地下鉄で移動した。ベーカールー線で三駅、六分ほどで目的のベイカーストリート駅に到着する。

 ホームに降り立つと、早速壁のタイルにパイプをくわえたホームズの横顔が描かれていた。駅の外にはホームズの彫像も立っているようだが、そちらはルチアーノの担当区域だ。ユーゴは反対方向に向かった。

 携帯電話の地図を見ながら、飲食店以外の店をチェックしていく。少しでもホームズの香りがすれば、一応店員に声をかけて「バスカヴィル家の犬」の話を振ってみる。繰り返していくうちに、直接的ではないものの、書店や関連グッズのある雑貨店、マニアの集まるカフェなど、とっかかりになりそうな情報は集まり始めた。

 ベイカーストリートからは少し離れるが、コナン・ドイルの本を多く揃えている書店があるという。そこでは古書も扱っているらしい。やはり古書店で聞くのが一番だろうと思い、そちらに向かうことにした。

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