第3話 ベイカー街の落とし穴(1)

 世界で最も有名な探偵は、と聞かれたら、きっと多くの人が「シャーロック・ホームズ」と答えるだろう。ユーゴとルチアーノが次に降り立ったのは、かの名探偵が相棒のワトソンと暮らした街、ロンドンだった。

 ヒースロー空港から地下鉄ピカデリー線に乗り、ピカデリーサーカス駅へ。改札を出て目にした街は、薄い霧に包まれていた。今はまだ秋の気候だが、これから冬に向かうにつれ、曇りがちの日々が増えるのだろう。以前訪れたのは十二月で、肌に張り付くような霧雨が降っていたことを思い出す。

 パリ出立前に計画を練った時、ルチアーノは次の目的地としてロンドンを挙げた。来歴のわからない残り三冊のうち一冊が、ロンドン市内にある「ロンドン図書館」が所有していたものだったからだ。

ルチアーノは表紙を開き、見返し部分に貼られた白い用紙を指さした。

「この紙は、後から貼り付けられた『蔵書票』です。直接蔵書印を押すのではなく、こういった蔵書票を貼るパターンもよく見られます」

「しかし、この紙は真っ白に見えるが――いや、よく見ると薄く黒っぽい線が見えるな」

 目を凝らせば、図形が浮かび上がりそうな気もする。

「元はきちんと古書店の蔵書印が描かれていたはずですが、それが消されているんです。蔵書票や蔵書印が残っていると価値が下がりますし、どこから盗まれたかも明らかになってしまう。古書泥棒にとっては、無い方が都合の良いものなんです。そのため、泥棒の中にはこれを消す技術を持つ者が現れました」

 基本的には黒いインクを消せばよいので、使われたのは漂白剤の類だと、ルチアーノは説明した。

「もう何十年も前から使われている手ですよ」

「つまりこの本は、盗まれた可能性が高いわけだ」

 まずはロンドン図書館を訪ねることになるが、さらにその先を辿る必要がありそうだという話になった。

昨日のやりとりを思い返していたユーゴは、隣を歩くルチアーノに声をかけた。

「次の古書『バスカヴィル家の犬』は、ホームズシリーズの長編だったな。ホームズならいくつか読んだことがある。こいつは故郷のロンドンから盗まれたということか」

「サー・アーサー・コナン・ドイルやシャーロック・ホームズについては、説明不要ですね。でも、あの本にとっての故郷はロンドンではないかもしれないですよ」

 どういう意味かと問えば、ルチアーノは楽しげに続けた。

「あの『バスカヴィル家の犬』は、イギリスではなく植民地向けに作られたものです。そこに価値が見出され、稀覯本として扱われています」

 初版本だから高価なのだろうとユーゴは考えていたが、それは想像していなかった。言われてみれば、カバーの雰囲気がユーゴの知るものと少し違う気がした。

 堅牢そうな建物に挟まれた道を進んでいくと、緑の豊かなセント・ジェームズ・スクエア・ガーデンに突き当たった。右に折れてすぐ目に入った建物の前で、ルチアーノが立ち止まる。

「着きました、ここです」

「へえ、図書館にしては入り口がこじんまりしているんだな」

 石段に続いて、両開きの木製のドアが一つだけ。住宅のドアと同じくらいの大きさだ。

「ロンドンの名を冠しているにしては、地味かもしれませんね。でも大英図書館よりも前に誕生した、歴史ある図書館なんですよ。歴史家のトーマス・カーライルが図書館の必要性を訴え、書籍購入のための寄付を得て、ロンドン図書館は生まれました。私設の会員制図書館ですから、利用者は会員となって会費を払う決まりになっています。会員名簿にはチャールズ・ダーウィンやチャーチル、それからコナン・ドイルの名前もあったそうです」

「そうそうたるメンバーだな」

 時代は違うが、それぞれ歴史に名を残した人物たちが集った場所。ドアを開けて中に足を踏み入れたユーゴは、時間の感覚が曖昧になったような、不思議な空気を感じた。

 閲覧室は、落ち着いた色調の赤い絨毯の上に、デスクライトのついた長テーブルが並んでいた。天井は二階分の高さで、窓もあって解放感のある造りだ。ルチアーノはまっすぐカウンターに向かうと、眼鏡をかけた中年男性に声をかけた。ホテルのコンシェルジュのような、上品な紳士だ。

「おや、お久しぶりです。今日はお一人ではないのですね」

 ルチアーノは振り返り、ユーゴをインターポールの捜査官だと紹介した。

「詳しい説明は省きますが、来歴が不明の古書が数冊見つかって、調査に協力しているんです」

「もしや、大英図書館で見つかったというアレですか」

 さすがは同じ英国の図書館員だ。ニュースとしてはもう下火になっているはずだが、見事に言い当てた。

「では早速ですが――」

 ユーゴはトランクから「バスカヴィル家の犬」を出し、ルチアーノに手渡した。

「この本にこちらの蔵書印が押されているのですが、盗まれた可能性はありませんか?」

 司書は本を開き、薄くなった蔵書印を確認した。

「ああ、これは間違いなくウチの印ですね。除籍した場合は『Withdrawn』のスタンプが押されるはずですが……」

 司書は傍らにあるパソコンで蔵書を検索し、言う。

「こちらは閉架の棚に保管されていたもので、記録上は未返却になっています。四年前の貸し出し記録が最後です」

「つまり、借りた人物がそのまま返却していないということですか?」

 ユーゴの問いかけに、司書はおそらく、と答えた。しかし彼がここで働き出したのは二年前からで、当時のことはわからないという。奥にいた古株の司書を呼んでもらった。

 現れたのは、小さな金縁の丸眼鏡をかけた初老の男性だった。この図書館の特色なのか、彼も柔らかく気品ある物腰だ。一方で、どことなくプライドの高そうな鋭い目つきをしていた。

 ジェイデン・ウォルコットと名乗ったその司書は、「バスカヴィル家の犬」を一目見て、おおと感嘆の声を上げた。

「戻ってきたのですね。もう半ば諦めていたのですが、私がここにいるうちに再び出会えるとは」

 ジェイデンは私事ですが、と前置きをした後、自分は来年で退職する予定なのだと言った。

「そうですか、盗まれたことは災難でしたが、間に合って良かったですね」

 ルチアーノは彼を労うように微笑んだ後、質問した。

「この本が盗まれたことには、早いうちに気づかれていたということですか」

「ええ、もちろんです。四年ほど前になりますが、大量の本が借り出されたまま返されないという事件が起きました。ウチの蔵書の中でも特に貴重なものばかりです。その中の一冊に、この『バスカヴィル家の犬』も含まれていました」

 それを聞いて、ユーゴが口を挟む。

「借りた人物も、もちろん会員だったわけでしょう。登録した情報から捕まえることはできなかったんですか?」

「もともと盗むことが目的だったようで、名前も住所も偽物でした。登録時には身分証を見せてもらうので、普通は偽名で登録などできないはずですが……」

腑に落ちない様子で、ジェイデンは首を振った。

「一応、その偽名を伺ってもよろしいですか?」

 ユーゴが手帳を取り出すと、ジェイデンはパソコンに表示された名前を読み上げた。

「ダニエル・スミス。まあ、珍しい名前ではありませんね」

「その偽スミス氏の人相などは覚えておられますか?」

 ユーゴの質問に、ジェイデンは力なく眉を下げて答えた。

「実は職員の誰も、その人物に心当たりがなかったんです。記録上は数人の司書が貸し出しの手続きをしたはずなんですが、ぽっかり記憶を抜き取られたかのように、全く覚えていないんですよ。私もその一人です」

 ジェイデンは恥じるように言った。

「利用者の数も多いですし、仕方ありませんよ。よっぽど特徴のない人だったんでしょうね」

 慰めるルチアーノに、ジェイデンは弱々しい笑みを返す。

「言われてみれば、利用登録の受付をした司書もそんなことを言っていました。中肉中背、いたって平凡で、十秒も経てば忘れてしまうような顔だったと」

「その司書の方は、どちらに?」

 少しでも手がかりが掴めればと思い、ユーゴは尋ねた。

「いや、残念ながらもうここにはいません。古書店をやると言って辞めてしまいました」

 それならば仕方ない。ユーゴは調査終了後に本を返却すると約束し、ルチアーノを振り返った。予想しなかった光景が目に入り、数度瞬く。

「……何をしているんだ?」

 ルチアーノは本を顔に近づけ、匂いを嗅いでいるようだった。首を傾げながら、彼は言う。

「なんだか甘い匂いがすると思って。ほら、しません?」

 本を突き付けられ、ユーゴも匂いを嗅いでみた。確かに、甘ったるい匂いだ。どこかで嗅いだような気もするが、思い出せない。

「この図書館の匂いでしょうか」

 ジェイデンも興味を持ったらしく、鼻を近づける。しかし、思い当たる匂いはないと答えた。他の四冊には匂いがついていなかったから、トランクや保管場所の匂いでもないだろう。

「とりあえず、市内の古書店でも巡ってみましょうか。ここから盗まれた後、近場で売りさばかれた可能性もあります」

 ルチアーノが言うと、ジェイデンが提案した。

「ご存知かと思いますが、ベイカーストリートに何軒か古書店があります。ホームズ関係の書籍は豊富だったはずですよ」

それは良い案だとルチアーノは笑みを見せた。

「……ああ、そうだ。一つだけ」

ジェイデンは二人を呼び止めて言った。

「最近、市内で頻繁に強盗事件が起きているんです。被害者は今のところ裕福な高齢者だけのようですが、夜出歩くことがあればお気をつけて」

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