第2話 飛行士とルリユール(5)

「あの時は妖精か幽霊の類に化かされたかと思ったが、ここに本があるということは現実だったんだな。彼は僕が持っていた古書を見て、どうしたのかと声をかけてきた。そして僕が説明すると、買い取りたいと言ったんだ。僕はタダで良かったけど、彼も譲らなくてね。結局、代わりにと『夜間飛行』をくれたんだ。それが装丁を頼んだこの本だ」

 ノーランはバッグから本を出し、愛おしげにカバーを撫でた。陽光の下で見る漆黒はより深い闇を作り出して、怪しげな魅力で見る者を惹きつける。

「彼は僕の葛藤なんて何も知らないはずなのに、まるで全てを見透かしたように僕に言ったんだ」

――開拓者はいつも、無謀な挑戦だと笑われるものです。しかしその挑戦はいつか必ず、未来を切り開く。あなたは夜を飛ぶ勇敢なパイロットであり、己に厳しい指揮官だ。

「その時まで、僕は絶望していた。歯を食いしばってリハビリをしても、一向に手足は思い通りにならない。事故に遭う前のような、繊細なタッチと精巧なデッサンも描けなくなった。エルナを憎みたくなかったけれど、やっぱり心のどこかであのメッセージさえなければと思っていた。死ななかったのは、死ぬほどの気力がなかったからだ」

 淡々と語られる苦悩は、淡々としているからこそ壮絶に感じられた。彼はその間、死んだように生きていたのだろう。

「彼の言葉とこの本が、僕を変えた。開拓者になろうと、僕は決意した。幸いなことに、医師も看護師も僕の挑戦を応援してくれた。二本の足で歩き、エルナと再会すること。ルリユールになった彼女を追いかけ、マーブリングのアーティストになること。目標を掲げ、ひたすら突き進んだ。彼女の結婚を知った時はショックだったけれど、気持ちは変わらなかった。彼女は僕にとって、星のような存在になったんだ。届かなくても、光はそこに在った」

「今は、彼女に再会できて良かったと思いますか?」

 穏やかにルチアーノが尋ねると、もちろんだとノーランは答える。

「さっきも言ったように、報われた気がしたよ。『夜間飛行』の装丁も頼んで良かった。この本は僕の人生そのもので、それを美しい額縁に入れてもらったような気分だ。僕もエルナもジョゼットも、バラバラの人生を歩むことになってしまったけれど、後悔はないと胸を張って言えるよ」

 優しげに目を細めたルチアーノは、少し間をおいて口を開いた。

「ルリユ―ルには、“もう一度つなげる”という意味があると聞きました。バラバラになっても、綴じなおすことができる。ずっと年下の僕が言うのもおこがましいですが、あなたたちも同じじゃないかと思いました。生きてさえいれば、時間が経っても綴じなおすことができるはずです」

 ノーランはルチアーノの言葉を噛みしめるように目を閉じ、頷いた。

「うん、僕もそう思うよ」

 そしてノーランは杖に手をかけ、力強く立ち上がった。

「さあ、休憩はもう充分だ。行こうか」


 ノーランと別れ歩いていると、ふと足を止めたルチアーノがユーゴの顔を覗き込んできた。

「ぼんやりしているようですが、何かありましたか? もう夕飯にします?」

「別に腹が減ってるわけじゃない。君と一緒にしないでくれ」

 ため息をつきながら、何でもないと返す。そう、大したことではないのだ。ただ、少し感傷的になっているだけで。

ルチアーノはノーランに、生きてさえいればと言葉をかけた。どうしてもユーゴの頭に浮かぶのは、ルチアーノの過去だ。他界した彼の両親とルチアーノは、もう二度と会えない。生きて再会できることの幸せを、奇跡を、ノーランに説く彼に、ユーゴは柄にもなく切なさを覚えたのだった。

持て余した感情を振り払うように、ユーゴは口を開く。

「どうやらノーランの言った男は、ハワード・トンプソン氏が本を売った男と同一人物のようだな」

「そして、やはり儲けには無頓着ですね。売る気もない古書を買い取ろうとして、最終的に一冊本を譲っている。しいて共通点を挙げるなら、その本を誰かから隠す必要があった、というところでしょうか」

 ハワードの場合は家族に、ノーランの場合はエルナに。確かにその通りだと、ユーゴも納得した。しかし、まだ二冊目だ。謎のディーラーの目的は、どこにあるのか。答えに辿り着くまでの道のりは、未だ深い霧に包まれているかのようだった。

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