第2話 飛行士とルリユール(4)
三日後、ユーゴとルチアーノは再びエルナの工房を訪れていた。ドアを開けると、今日は先客の姿があった。振り返った女性は、ブキニストの店主の言葉に違わぬ美しさだった。ユーゴが声をかける。
「あなたがジョゼット・キュリーさんですね」
「ええ、連絡をもらった時は驚いたわ。それに、懐かしい名前を二つも聞くことになるなんて」
ジョゼットは奥に座っているエルナに顔を向け微笑んだ。エルナも笑みを返す。ユーゴが見つけた、ノーランの絵によく似た絵が描かれた絵葉書。その作者のジョゼットは、エルナとおなじボザールの後輩だった。当時ノーランを巡ってエルナとライバル関係にあった“可愛い後輩”は、彼女のことだったのだ。ノーランの近くにいたのなら、彼の絵を見ていた可能性は高い。エルナ風に言うならば、彼女も“盗作”したということだろう。
「まさかあなたたちがジョゼットを見つけ出してくれるとは思わなかったわ。しかも、同じ時期にノーランのスケッチを元に作品を出していたなんて、すごい偶然よ」
「その偶然があったからこそ、ジョゼットさんを見つけられたんです。あなた方にとってノーランさんは、今でも大切な存在なんですね」
ルチアーノの言葉に、かつてのライバルは懐かしげに頷いた。サロン・ド・テを出た後、ユーゴたちは二つのことを調べた。一つは、ジョゼット・キュリーの連絡先だ。ブキニストの店主から仕入れ先を紹介してもらい、彼女に辿り着いた。そしてもう一つは、ユーゴが警察関係者だからこそ調べられた情報だった。ルチアーノの進言がなければ、わからなかった事実だろう。
「でも、私もノーランには彼の卒業前に会ったきりよ。その後の消息は知らないわ。私は私で、パリを出て働いていたし」
「私はてっきり彼がジョゼットを選んだと思い込んでいたけど、違ったのね。あなたに再会できれば、彼にも会えると思っていたのに」
「もしそうだったら、こんな風に穏やかな気持ちで話せなかったんじゃない?」
「違いないわ!」
二人は楽しそうに笑い声を上げたが、ユーゴは何かをきっかけに爆発しそうな危うさを感じヒヤヒヤしていた。今度は地雷を踏まないようにしようと、口元を引き締める。
「そうだわ、今日はお客様がいらっしゃるの。この『夜間飛行』の依頼主の方が、郵送ではなく直接受け取りたいとおっしゃって」
時計を見上げ、エルナは首を傾げつつ説明した。
「十五時と言っていたから、そろそろ――」
彼女の声に被るように、工房の外から音が聞こえてきた。足音と、石畳を叩く杖の音だ。工房のドアに影が差し、動きが止まる。やがて、ゆっくりとドアが開けられた。工房に足を踏み入れた男性は、帽子を取りぎこちなく微笑んだ。
「……『夜間飛行』を受け取りに来たのですが」
ジョゼットは口元を手で覆い、エルナは唇を震わせていた。立ち上がったエルナは、涙混じりにその名前を口にする。
「ノーランなの……?」
「そうだよ。本当は顔を合わせるつもりはなかったが、君が会いたがってくれていると彼らから聞いて、勇気が出たんだ。こんな僕を忘れずにいてくれてありがとう、エルナ。ジョゼットも」
ジョゼットとエルナは、順にノーランと抱き合った。涙を拭いながら、ジョゼットはどうにかユーゴたちに問う。
「あなたたち、彼と知り合いだったの?」
ユーゴはそっと首を振って答えた。
「ノーランさんは、新作が出るたびあなたの絵葉書をブキニストに買いに訪れていたんです。それで、店の前で待ち伏せをしました」
事実だったが、ユーゴは敢えて全てを語らなかった。しかしエルナは、何かに気づいたようにハッと目を見開いた。視線はノーランの杖と足元に注がれている。
「その足。まさかあの日、駅に――」
「違うよ。歳のせいさ。僕は入学が遅かったからね、早くおじいさんになるんだ」
ノーランはエルナの言葉を優しく遮った。
「それより、あのマーブル用紙は使ってくれたかい? ようやく納得のいくものができたんだ。若い頃の絵と同じくらい、自信作だよ」
「まあ! あれはあなたが描いたの? あまりに素敵だから、皆に見せびらかしていたのよ」
ノーランの近くに立っていたユーゴには、彼の眦にじんわりと涙が浮かんでいるのが見えた。しわの刻まれた口元が弧を描く。照れながらも誇らしげな笑みは、長い時間のわだかまりを一瞬で溶かし、彼らの新たな始まりを予感させた。
「今日で僕の苦労はすべて報われたよ。君たちには感謝してもしきれない。エルナたちと会うために背中を押してくれたことも、事故について秘密にしてくれたことも」
ユーゴたちと共に工房を出たノーランは、受け取った「夜間飛行」を大事そうに抱え言った。石畳を叩く杖の音も、心なしか軽快だ。
一九八八年の列車事故の日、ノーランはエルナに会うためリヨン駅に停車していた列車に乗り込んだ。そこに、ブレーキの利かなくなった車両が衝突し、凄惨な事故が起きたのだ。ノーランは命こそ助かったものの、手足に麻痺が残った。事故に遭ってすぐは、一生車椅子の生活になると医者から言われたという。
彼が事故に巻き込まれた事実は、警察に保管されていた被害者のリストで明らかになった。それがエルナたちに伏せた内容だ。
「苦労が報われたのは、あなたの努力の賜物ですよ。自力で歩けるまでリハビリに励み、あのような素晴らしいマーブルを描けるような技術を習得した。僕らには想像がつかないほど大変だったはずです」
「とにかく怪我をした姿を見せてはいけないと思ったんだ。本当のことを知れば、エルナは必ず自分を責める。彼女にそんな重荷は背負わせられなかった。だから、姿を消すことにしたんだよ。幸い大学の単位は取り終えていたし、事情を説明すれば卒業式に出席せず卒業できた。引っ越して、全部手放すことに決めたんだ。ボザールで得た縁を、すべて」
「それで、あの『星の王子さま』も手放したんですね」
ノーランはその時だけは哀しげに目を細めた。
「手元に置いては未練が残るだろう? いつか、満足に歩けるようになったら彼女に会いたいと思っていたが、たとえ願いが叶ってもずっと先になるだろうと思った。彼女と僕の人生が交わることはもうない。持っている方が苦しかった」
三人はベンチと花壇だけの、小さな公園にさしかかった。ノーランが白いベンチに腰かけ、息をつく。彼の額に滲む汗を目にして、ユーゴは声をかけた。
「大丈夫ですか」
「緊張していたせいか、いつもより疲れたみたいだ。でも少し休めば問題ないさ」
疲労は滲んでいたが、ノーランは歯を見せて笑った。周囲を見渡してから言う。
「『星の王子さま』を不思議な男に渡した時も、こんなベンチがあった。プロヴァンスで療養していた時だ。僕は車椅子で、本をどうするべきか思案していた。手放すことは決めても、雑な扱いはしたくなかった」
「そこに、その不思議な男が現れたんですか?」
ユーゴの問いかけに、ノーランは頷く。
「歳は僕と同じか、少し上くらいだった。背はあまり高くなかったな。スーツを着て、洒落たハットを被っていたよ」
ニュ―ヨークで聞いたディーラーの特徴と同じだ。その格好が彼の仕事着なのかもしれない。彼が大英図書館に本を置いた「ウェルギリウス」本人なのだろうか。
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