第2話 飛行士とルリユール(3)

 素っ気ないエルナの声を背中で聞きながら、ユーゴは工房を連れ出された。歩き始めてから、ルチアーノがため息をつく。

「あなたはとても素直な方ですね」

「ああ、それは何度か言われたことがあるな」

「半数以上の方は皮肉で言ったと思いますよ、僕も含めて」

 どうやら叱られているらしい。確かに失言だったと、今になってユーゴも反省していた。

「何十年も昔のポストカードを一見しただけで気づくなんて、よっぽどのことですよ。それなのに、自分のプレゼントまで彼が手放していたと知ったら……」

「ショックだろうな。事情を話してくれただけでもありがたかった」

「そういうことです」

 本の行方を知りたいばかりに、相手の事情を慮ることを忘れていたようだ。

「素直ですね、本当に」

 見るからに落ち込んでいるユーゴがおかしかったのか、ルチアーノが吹き出す。世界を飛び回っているせいか幼少期の経験ゆえか、彼の精神は実年齢より大人びているようだ。しかし屈託なく笑っていると、年相応に見えた。

「今のも皮肉か?」

「さあ、どうでしょうね。ともかく、地雷を踏みそうになったらまた蹴りを入れますよ」

「もう少し優しく教えてもらえると助かるんだが」

 まだじわじわと痛みを感じる。しかし今まで“そういうヤツ”だと見限られていたユーゴには、むしろ手を差し伸べられているように思えた。

「それで、これからどうする? ノーランに話を聞くのが一番だが、消息不明のようだ」

「インターポールの力で調べられないんですか? 昔本部が置かれていたのはパリじゃないですか」

「何十年前の話をしているんだ。それに、犯罪者でもない人間のことを地元警察に調べさせるわけにもいかないだろう」

「そうなると、次は古書店ですね。この近辺は老舗が多いですから、ノーランが売りに来た店が残っている可能性もあります。回ってみましょう」

 しかし五店舗以上巡っても、結果は芳しくなかった。そこまで希少な本ではないので、店主たちも記憶していないという。ただ、ページに書き込みがある本を扱った覚えはないとも言っていたので、パリでは売られていないのかもしれない。

「自分がノーランの立場だとして、エルナの目につくところに売るのは憚られるな」

「おや、そのくらいはあなたにもわかるんですね」

 ルチアーノが意地悪くからかう。反論したいところだが、先ほどの一件を思い出して口を噤んだ。

「あとは……あまり期待できませんが、セーヌ川に行ってみましょう」

 二人は徒歩でシテ島方面に向かった。十五分ほどで、川沿いの道に出る。今日は良い陽気だったが、長旅のせいか水面のきらめきが少々目に痛い。

「なるほど、『ブキニスト』か」

 見覚えのある光景を目にして、ユーゴは声を上げた。川沿いに、露店がずらりとならんでいる。閉店時は深緑色の箱だが、開けると古本やポスター、絵葉書を売る店に変わる。十七世紀から続く、世界文化遺産にも登録されている書店たちだ。ブキニストには「古本を売る人」という意味があり、昔は本だけを扱っていたようだが、今では土産物を含めて観光客向けに商売をする形に変わりつつある。ルチアーノが期待できないと言ったのは、古書を持ち込む先としてここを選ぶ可能性は低いということだろう。

 それでも彼は早速、近くの店の店主に声をかけている。ユーゴは楽しそうに会話する様子を見て、彼は純粋に本が好きなのだろうと思った。本そのものだけでなく、それに関わる図書館や店、そこで働く人々も引っくるめて、敬愛の対象なのだ。いくら古書に詳しくても、泥棒の悪行に目をつぶる店主たちとは根本的に違う。

 ユーゴも別の店の店主に尋ねてみたが、やはり「星の王子さま」の情報は得られなかった。数軒声をかけ、もう少し足を伸ばそうかと考えて歩いていると、ふと視界の端に気になる物が過ぎった。自分でも何に反応したのかわからず、注意を引かれた店に近づいて観察する。程なくして、その理由に思い当たった。

「いらっしゃい」

 声の主を振り返ると、店主らしき男性が折り畳み式の椅子に座っていた。半袖の者もいる陽気だが、薄汚れたモスグリーンのコートを羽織っており、長いひげを風に揺らしていた。

「すみません、この絵葉書の絵は……」

「ああ、アマチュア作家のものだよ。なかなか良いだろう? 観光客も買っていくし、新作をいつも買いに来る地元のファンがいてね、仕入れるようにしているんだ」

 ユーゴが目を留めたのは、絵葉書のデザインが別のものと酷似していたからだ。エルナが作った、「夜間飛行」の装丁と。闇を切り裂く飛行機。ノーランの描いた落書きの“盗作”だと、彼女は言っていた。閃きに、さっと肌が粟立つ。

「……この作家は、男性ですか」

「いや、女性だよ。ジョゼット・キュリーという名前だ。一度見かけたが美しい人だった」

 一瞬で期待が砕かれて、落胆の息が漏れた。ノーラン本人が描いたに違いないと思ったのだが、案外よくあるデザインなのだろうか。

「ファンの方は男性だがね。杖をついた上品な紳士だったよ」

 ユーゴの態度をいぶかることもなく、店主は朗らかに言った。


 結局これといった収穫のないまま、ルチアーノと合流した。既に午後一時を過ぎており、歩き回ったのもあって空腹だ。ルチアーノが選んだのは、ビルの二階にある落ち着いた雰囲気のサロン・ド・テだった。大食漢の彼が選ぶのはビストロだろうと思っていたが、この店のランチは予想外のボリュームで、日替わりのキッシュは大ぶりだ。さらにサロン・ド・テだけあって、ケーキの種類も多い。どうやら彼は甘いものに目がないらしく、ランチプレートを平らげた後、ここからが本番というようにケーキを頬張り始めた。本人はとても幸せそうだが、見ているユーゴは胸焼けしそうだ。

 ルチアーノが人心地ついたのを見計らって、ユーゴはブキニストの店主とのやりとりを話した。

「当たりを引いたかと思ったが、残念だったな。しかし、それとは別に少し気になることがある」

 ルチアーノはフォークを動かしていた手を止め、視線を上げる。

「八八年六月二七日のリヨン駅と聞いて、引っ掛かりを覚えたんだ」

「あなたもまだ生まれていないですよね」

「ああ、当時パリに住んでいた母から聞いて知ったんだ。その日リヨン駅では、事故で多くの犠牲者が出たんだよ。時間も十九時過ぎだ」

「なるほど、それでエルナは未来を知った今なら、なんて言い回しをしたんですね」

 ノーランはエルナの誘いには応じず、おかげで事故にも遭わなかったという意味だろう。

「まあそんなことに気づいても、古書の行方の手がかりにはならないだろうけどな」

 ユーゴは笑い飛ばしたが、ルチアーノふと真顔になり、何事か考え込んでいる。ケーキの最後の一口を飲み込むと、ユーゴに目を合わせて言った。

「調べてみる価値はあるかもしれませんよ」

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