第2話 飛行士とルリユール(2)
ユーゴはすぐにチケットを購入し、その日の夜には二人でパリ行きの飛行機に乗り込んだ。あと数時間もすれば、シャルルドゴール空港だ。
「ティエール氏の工房の場所はわかったか?」
隣の座席のルチアーノに尋ねると、彼はスマートフォンをユーゴに見せた。
「パリ市内の、リュクサンブール公園の近くですね。住所でいうと、五区です。ご存知かもしれませんが、パリ大学があって書店も多い地域ですよ」
パリのほぼ中心に位置する地区だ。学生街で、カフェなど店が多く活気がある。
パリに降り立った二人は、早速工房を訪ねることにした。まだ朝の早い時間なので、うまくいけば仕事にとりかかる前に話せるかもしれない。地図を確認しながら、賑わうオープンカフェの横にある細い路地へと入っていく。
「この建物のはずです」
ルチアーノが指さしたのは、一つのビルだった。この辺りは三階建て以上の建物が道の両側に軒を連ねていて、白壁が色褪せていることもあってか歴史を感じる風景だ。職人がひっそりと仕事をするには相応しい雰囲気が漂っていた。
エルナの工房は水色のドアに小さなプレートが慎ましく掲げられているだけで、注意深く見ていなければ通り過ぎてしまいそうだった。小さなショーウィンドウに、彼女の作品らしき本たちが飾られている。革を加工し作られたカバーはどれも立派だが、ゴシック調のデザインや植物をモチーフにした淡い色合いなど、それぞれ違う魅力がある。
「ここまで来ると、芸術作品だな」
美術に詳しくないユーゴも、思わず見入っていた。中身さえ読めれば十分と思っていたが、気に入った本をこんな風に製本して本棚に飾るのも悪くない。
営業時間にはまだ早いが工房には明かりが点いており、中に人がいる気配があった。
「行ってみましょう」
ルチアーノは躊躇なくドアを押し開けた。ドアベルが鳴り、程なくして女性の声が聞こえてきた。
「気が早いお客様ね」
咎めるというより、面白がるような口調だった。作業台らしき大きなテーブルの前に、痩せ気味の女性が座っている。歳の頃は、そろそろ六十歳というところだろう。
「お仕事中にすみません。エルナさん、あなたにちょっとお尋ねしたいことがあるんです」
ルチアーノは流暢なフランス語で言った。
「どういったご用件かしら」
彼女は肩で切り揃えたブロンドを耳にかけ、答えた。突然の訪問にも余裕のある態度だ。ユーゴは前に進み出て、ポストカードを彼女に見せる。
「こちらは、あなたが書いたものですか?」
エルナはカードを一目見て、はっと息を呑んだ。
「これはノーランに送った……。どうして今さら? それに、あなたたちは……?」
途端に、エルナは怯えたようにユーゴたちを見た。ひとまず安心してもらおうと、ユーゴは先に身分を明かし、その上で目的を伝えることにした。
「来歴のわからない古書がいくつか見つかったので、調査をしています。このカードは、その中の一冊に挟まっていました。この本に、見覚えはありますか?」
ユーゴが出した本を目にしたエルナは、まだ呆然としたまま頷いた。
「私が彼――ノーラン・ルソーという人に贈ったものよ。ポストカードの方は、その少し前に旅行先から出したの」
「そうなると、この本はルソー氏から他の人の手に渡ったということですね。彼の連絡先をご存知なら、教えていただきたいのですが」
しかしエルナは、力なく首を振った。
「彼が今どこで何をしているか、私は知らないわ。最後に会ったのは、その本を贈った年。そう……その本も、彼の傍には置いてもらえなかったのね」
エルナは寂しげに目を伏せた。ユーゴは改めて消印に目を落とし、一九八八年と書かれていることを確認した。その年に、何があったのだろう。落ち込んだ様子に尋ねあぐねていると、彼女はパッと顔を上げて言った。
「せっかくだから、私の昔話を聞いてもらおうかしら。昨日ひと仕事終えて、誰かと話したい気分だったの」
言うが早いか、エルナは紅茶を淹れると言って席を立った。彼女にペースを握られてしまったが、まあ話が聞けるなら良いだろう。戻ってくるのを待つ間、ユーゴは自然と工房の中を見回していた。
ルリユールの工房には、見慣れないものがたくさんあった。壁一面に棚が作りつけられ、色とりどりの革が並んでいる。巻物のように巻かれて収められているのは紙のようだ。大小様々な工具も、出番を待つかのようにこちらに先端を向けて輝いていた。
「あの金属の物々しい機械はなんだ?」
工房の端に、ハンドルや歯車を組み合わせた古めかしい機械があった。
「プレス機ですね。表紙に使う革を落ち着かせるために、プレスする必要があるそうです」
「あの革は、合皮ではなく本革なのか」
「ええ、そのはずです。人気があるのは、モンゴル革と呼ばれるモンゴルの野生の山羊の革だと聞いたことがあります」
「その通り、よく知っているわね。ウチにある革もほとんどがモンゴルレザーよ」
エルナは上機嫌にカップをユーゴたちの前に置いた。
「その本の革表紙も素敵な色ですね」
ルチアーノが作業台に置かれた本を指さして言う。
「ええ、夜の闇のような色をオーダーしたの。この本には、それ以外考えられなかった」
濡れたような漆黒の中にタイトルが刻まれていた。「夜間飛行」とあるのを見て、なるほどと納得する。エルナは本を開き、ページを手繰った。中の紙は黄ばんでいて、時代を感じる。しかし見返しの部分は新しく、鮮やかな色をしていた。空にも海にも見える紺青に、白や水色が混ざり合っている。
「マーブル紙ですね。中身と表紙を繋いで補強するためのものですが、この大理石(マーブル)のような模様から、そう呼ばれています」
目を留めたユーゴに、ルチアーノが説明する。
「このマーブリングも繊細で素晴らしいですが、どちらで?」
「お客様がこれを使って欲しいと送ってきたの。この本と一緒に。どこで手に入れたのか、私も気になっているのよ」
エルナは紅茶で唇を湿らせたのを合図に、話題を変えた。
「さて、ノーランの話だったわね」
どこから話すか思案するように、彼女は顎に手をやった。
「そうね……私と彼は、パリの国立(ボ)高等(ザ)美術(ー)学校(ル)の学生だったの。私にとって彼は、憧れの先輩だった。才能豊かな人で、でも奢ったところもなくて、あっという間に恋に落ちたわ。それで、彼が卒業する少し前に賭けに出たの。その時の“武器”が、そこにある古書」
エルナはおどけて、「星の王子さま」を指さす。
「なるほど、それで最後のページにメッセージを書いたわけですね」
ルチアーノの話を受け、ユーゴは本を開く。機内で眺めていた時、本編の最後のページに書き込みを見つけたのだ。青い文字で、「メゾン=アルフォ―ル駅で待つ。6.27、19:30」と書かれている。
「メゾン=アルフォールというと、パリ・リヨン駅の隣ですね」
「そう、駅の近くに雰囲気の良いバーがあったの。今思うと恥ずかしいけれど、私も必死だったのよ。何せ、私より可愛い子がライバルだったから」
エルナは当時を懐かしむように、自分の書いた文字をなぞる。
「でも、彼は来なかった。それから顔を合わせないまま、卒業してしまったわ。……まあ、未来を知った今ならそれで良かったと思うけれど」
謎めいた言葉の後、彼女は寂しげな顔をした。自分を無理やり納得させようとしているように、ユーゴには見えた。
「ノーランのことは、それ以降噂も聞いていないわ。私は彼を忘れるために恋人を探して、二十代のうちに結婚した。たぶん彼は、あの可愛らしい後輩と付き合うことにしたのよ」
エルナは軽く肩をすくめ、話を締めくくった。湿っぽくなった空気を払うように、ルチアーノは作業台の「夜間飛行」に目を移して言う。
「作者のサン=テグジュペリ繋がりで、ノーランさんの目にも留まるかもしれませんね」
「そうね。……実は、彼がこの作品を見て、工房に怒鳴り込んでくるのを待っているの」
「それは、どういう……?」
思わず二人で顔を見合わせる。エルナはユーゴたちの困惑を楽しむように笑みを浮かべた。
「この裏表紙のデザインは、盗作なのよ。といっても、元はスケッチブックの落書きだけど」
裏表紙には闇を切り裂くように飛ぶ飛行機が描かれている。飛行機の起こす風も凹凸で表現されており、作品に登場するパイロットの孤独や困難に立ち向かう勇敢さが感じ取れた。
「職人として私の名前が売れても、彼は現れなかった。これでも音沙汰がないなら、諦めるわ。だって芸術家にとって一番許せないのは、アイデアを盗まれることでしょう?」
「しかし、彼はあなたから贈られた本を売って――っ!」
脛に衝撃が走り、ユーゴは小さく呻いた。ユーゴが立ち直る前に、ルチアーノは素早く口を挟む。
「そろそろ行きましょうか。紅茶、ごちそうさまでした」
「お役に立てなくて申し訳なかったわね。つまらない昔話を聞いてくれてありがとう」
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