第2話 飛行士とルリユール(1)
トンプソン邸を訪ねた翌日、ユーゴはホテルの一室で気分良く目覚めた。眼下にはマンハッタンの街が広がっている。ともあれ一冊の古書の来歴がわかり、幸先の良いスタートを切れた。なめてかかるのは禁物だが、案外順調に片付くかもしれない。
今日は午前十時に、ルチアーノの滞在先で今後の方針を相談することになっていた。ホテルを出て街を歩けば、既に賑わっている。タイムズスクエアや劇場前では、観光客が思い思いにスマートフォンのカメラを構え、撮影していた。
ルチアーノがニューヨーク滞在中に使っているというアパートは、大通りと平行に走る通りの静かな一角にあった。最近はこの街も家賃が上がっていると問題になっていたが、それでも維持できる程度に稼いでいるのだろう。
「どうぞ、何もない部屋ですけど」
日本人がよく使う謙遜の類だろうと考えていたが、まったく言葉通りだった。
「散らかそうと思っても難しいくらい、何もないな」
冷蔵庫や洗濯機はあるが、あとはテーブルと一組のスツール、ベッドくらいしかない。
「衣類はすぐに買い足せますし、寝る場所があれば十分ですから」
古書のために世界中を飛び回っていれば、環境が悪いことなどざらなのだろう。屋根のある安全な場所というだけでありがたいという感覚だ。ただしコーヒーにはこだわりがあるのか、ミルで豆を挽くところから始めていた。よく見ると、キッチンの方にはそれなりに道具が揃っていそうだ。ルチアーノは香ばしいコーヒーをユーゴの前に置くと、自分もスツールに腰かけた。
「今朝、改めてハワード・トンプソン氏に二十年前の話を伺ったんです。どんな相手に売ったのかわかれば、そこから『ウェルギリウス』の正体も辿れると思ったので」
「何か、手がかりになりそうな話は聞けたか?」
「ニューヨーク市内の怪しげな古書店に本を持ち込んだそうですが、買い取ったのは偶然居合わせたディーラーでした。蔵書印が残っているので、遠くで売らなければ足がつくだろうと忠告されたようですよ」
ハワードは古書を見た時、確かにそのようなことを言っていた。だからこそ、戻ったことを奇跡と評したのだろう。
「二十年前ですから、そのディーラーの顔はあまり覚えていないそうです。スーツ姿にハットを被っていて、比較的小柄。当時四十代から五十代に見えたということなので、年齢的には生きていると思いますよ」
「特徴のある恰好とはいえないな。まだ手がかりが足りないか」
「まあ、まだ四冊残っていますから」
ルチアーノは楽観的に捉えているようだ。ユーゴとしては早く仕事の話をしたかったのだが、昼時が近づいており、先に食事をすることになった。キッチンに立ち、冷蔵庫に入っていた野菜を慣れた手つきで切っている。
「残り四冊を調べるには、ニューヨークを出る必要がありそうです。しばらく戻らないでしょうから、野菜や牛乳を使い切っておかないと。あ、アレルギーはありますか?」
「特にない。ちなみに苦手なのは生のトマトだ」
「良かった、食べても死にはしませんね」
トマトを手に笑顔で言うルチアーノに、ユーゴはため息で返事をした。そうして出てきたのは、トマトやレタスのサラダと野菜がごろごろ入ったマカロニグラタンだった。
「アパートに備え付けのオーブンがあるのは、この国ならではですね」
「その文化は素晴らしいと思うが、この量はさすがに……」
「少なかったですか?」
「いや、どう見ても多いだろう」
一般的にアメリカンサイズといえば量が多いイメージだが、これはその二人前をゆうに超えている。サラダも山盛りだ。
しかし食べ進めるうちに、どうやらルチアーノの食べる量が尋常ではないことに気づいた。決して急いで食べ進めているようには見えないが、恐ろしい勢いで料理が消えていく。この体のどこに入るのか、曲芸でも見ているような気分だ。
かく言うユーゴも、気づけば普段以上の量を食べていた。空腹だったのもあるが、単純に美味しかったのだ。サラダはバーニャカウダソースのようなドレッシングでトマトの青臭さが消えていたし、グラタンは日本のレストランで食べた素朴な味に似て懐かしかった。
ユーゴは満足して、食後に再びコーヒーを啜った。ふと雑談でもする気になり、ルチアーノに尋ねる。
「君は昔から、古書に興味を?」
「養父母がヴェネツィアで古書店を営んでいたこともありますが、亡くなった母が昔、僕にある古書を見せてくれたのがきっかけかもしれません。装丁も活字も紙でさえも、とても美しい本でした。最高の技術を持つ職人が集まってこの美しい一冊が生まれたのだと、いつも言っていましたね。その思い出があるからか、特に人の手が感じられる古書に惹かれるようになりました」
その本が置かれているかのように、ルチアーノはテーブルに目を落とし言った。
「手を取り合って協力することの大切さを、君に伝えたかったのかもしれないな」
ユーゴは何気なく呟いたが、ルチアーノは意外そうに目を瞬いた。
「……なるほど、そういう意味だったんですね。当時の僕は、本の見た目にばかり夢中になっていました」
「いや、その解釈が正しいかは、わからないが……」
昔から、率直な感想を暑苦しい、クサイとからかわれてきた。感心されたらされたで落ち着かず、ユーゴはごまかすように言葉を探した。
「まあ、協力はまさに今、俺が必要なことだ。俺が役に立てることがあるかわからないが、君の知識がなければ調査は始まらない」
「あなたの仕事は調査を主導することで、僕はそのために必要な専門知識を提供するアドバイザーです。お互い役割が違うだけですよ」
慰められたのか戦力外通告をされたのか、彼の性格を掴み切れていないユーゴには判断できなかった。しかしどちらにせよ、多少は気が楽になった。次の余計な一言がなければ、だったが。
「僕の経験から想像するに、あなたは生真面目さゆえに損をするタイプですね」
「優秀な君に、迷惑がかからないといいんだが」
ユーゴにとって精一杯の嫌味を、ルチアーノは飄々と受け流した。
「ヘミングウェイは『愛していない人間と旅に出てはならない』と言っていたらしいですよ」
「それならいじめるのはやめてくれ。旅に出る前から君が嫌いになりそうだ」
「おや、それは可愛そうに」
とぼけるルチアーノに、ユーゴはため息をついた。どうも遊ばれている気がする。それこそユーゴの生真面目な性格と相性が悪いのだろうが、ルチアーノの話術が長けていることもあるだろう。トンプソン邸で見たルチアーノの語り口には、聞いている者を引き込む力があった。かくして眠っていた真実は鮮やかに呼び覚まされたが、逃れようのない追及は時に人を追い詰めることもある。彼の言うように、舵取りはユーゴがした方が良さそうだ。気を取り直し、ルチアーノに尋ねる。
「ニューヨークを出る必要があると言ったな。次の目的地について、アドバイスをくれないか」
ルチアーノはすぐに答えた。
「パリが良いと思います。――箱入りの古書を見せていただいても?」
ユーゴは立ち上がり、五冊の古書が納められたバッグからルチアーノが指定した一冊を取ってテーブルに戻った。ルチアーノが本を手に取ると、紙が挟まっていたページが自然に開いた。表裏を眺め、ユーゴが言う。
「ポストカードだな。元からここに挟まっていたのか」
「ええ、栞代わりだったのかもしれませんね。手紙なので当然ですが、ここに宛先と差出人が書かれています」
「だが、消印は三十年以上前だぞ。さすがに引っ越しているんじゃないか」
具体的な情報ではあるが、古すぎる。しかしルチアーノはなぜか自信があるようだ。
「このポストカードの差出人になら、すぐ会えると思いますよ」
「知り合いなのか?」
「いえ、その世界では有名な方なので」
ユーゴは改めて、差出人の名を見た。エルナ・ティエール。名前から推測するに、女性だろう。ユーゴの記憶にはない名だった。
「彼女は人気の『ルリユール』です。お母様がフランス人なら、耳にしたことがあるのでは?」
「確かに、聞き覚えはあるな。製本する職人のことだ」
ユーゴの母も、昔習ったことがあると言っていた。劣化した本の修復や仮綴じの本の製本をする作業だ。元々、フランスは日本に比べてインテリアとして本を置く意識が強い。飾る物を美しく保ちたいという考えから、定着したのだろう。
「そもそもは、十七世紀末に国王ルイ十四世の一声で始まった文化です。出版・印刷・製本の業者がそれぞれの職分を越えないようにとの勅命が下り、出版・印刷業者は製本ができなくなりました。その結果、仮綴じの本が出版されるようになり、装丁・製本を専門に行うルリユールが生まれたというわけです」
ルチアーノは古書をユーゴにもよく見えるように置き、続けた。
「この本の装丁を手がけたのも、ポール・ボネという二十世紀を代表するルリユールなんですよ」
「この本……『星の王子さま』を?」
「やはりご存知ですね。日本でもフランスでも、人気のある物語ですから」
ルチアーノの言うように、海外文学の中では飛びぬけて日本での知名度が高い小説だろう。寓話的な内容で読みやすく、登場人物の絵が描かれたグッズもよく見かける。
「これは一九五七年にガリマール社から出版されたフランス語版で、この円を連ねた渦のようなデザインに、カラフルな星や惑星が散っているカバーが彼の装丁なんです」
日本では見かけたことのない装丁だった。ユーゴには、王子さまの絵が描かれている表紙のイメージが強い。
「でも、この古書は他の四冊に比べると稀少価値は低いですね。『ウェルギリウス』は、値が張る古書を集めて残したわけではなさそうです」
「彼独自の基準があったということか。パリで情報を得たいところだな」
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